嗤われた王女は婚約破棄を言い渡す
「ニクラス・アールベック侯爵令息。貴方との婚約は、本日をもって破棄します」
王宮に数ある応接室のうち、小さめの一室で。婚約者と向き合うように座ったわたくしは、そう静かに告げました。
「急に破棄するなどと、どういうことですか!? いくら王女殿下のご命令といえど、こんな一方的で非道な行いを承服することはできません! 納得のいく理由を――」
泡を食った様子で言いすがる婚約者に、わたくしは皮肉げに笑って言いました。
「理由ですって? わたくし、聞いてしまったの。貴方がお友だちと、わたくしのことを『鶏ガラ姫』と呼んで嗤い合っていたことを」
「なっ、まさかあれを聞いて……!」
焦りと驚愕に染まる婚約者の瞳を、わたくしは悲しみを込めた目で見つめました。父に、代わりに伝えてもらう選択肢もありました。しかしわたくしは、自分の言葉で伝えたかったのです。
――わたくしは貴方の言葉で傷ついたのだ、と。
*****
「どうしよう……どこへ行ってしまったのかしら?」
王宮の奥深くにある書庫の中で、わたくしは一枚の栞を探し回っておりました。ついうっかりと、挟んだ本の隙間から滑り落ちてしまったようなのです。
あの栞は初めて婚約者からもらった花を、大事に押し花にしたものでした。彼との思い出の深い、とても大切なものなのです。しかし広い書庫の奥は真昼でも薄暗く、灯火を頼りにうずくまって探すしかありません。
「もしかして、探し物はこれかな?」
少しでも明かりをと開け放していた入口の方から声がして、ハッとして顔をあげると。視界に入ってきたものは、他国からの客人が栞を拾い上げている姿でした。
「はい、それです! あの、ベルトラン様……ありがとうございます」
わたくしが慌てて駆け寄ると、彼はその怜悧なお顔に苦笑を浮かべて言いました。
「その栞、よほど大事なものなんだな」
「は、はい……」
それほど慌てて見えたのでしょうか。わたくしは恥ずかしくなって、思わず肩をすくめました。よりによってこの方の前で、そんな姿をお見せしてしまうなんて。
ベルトラン様は同盟国であるガリア王国の王太子様でいらっしゃいますが、数日前からしばらく、我が国の軍事について学びにいらしているのです。ガリアはこの国を超える強国ですが、同じ魔族の国と敵対している関係で、昔からそういった交流がさかんなのでした。
歳は二つしか違わないものの、彼の落ち着いた青灰色の瞳は昔から大人びた色をしています。そんな彼はわたくしにとって、たまに遊びにいらっしゃる親戚のお兄様といった感じの存在でしょうか。
「……アウロラは変わらないな。相変わらず書庫にこもっているんだね」
「だって、全部読み終える前に新しい本が入庫してしまうんですもの」
「ははは、それなら仕方ない! ではまたしばらく、この君のお城にお邪魔させてもらってもいいかな。ここの蔵書は充実していて、どれも素晴らしいんだ」
「ふふふ、もちろんですわ!」
当家と古い縁戚関係にあるベルトラン様は、これまでにも何度かこの国に滞在していらっしゃいます。その時もよく書庫でこうして、顔を合わせたものでした。もっとも、私は神話や伝承の物語を、彼は兵法や内政の実用書を読んでいるという、違いはあるのですが。
書庫に置かれた大きな机の、あちらとこちらの端でそれぞれのお目当てをめくっていると、ベルトラン様がふと思い出したように言いました。
「ところで、最近婚約したんだって?」
「は、はい……」
わたくしは婚約者の顔を思い出して、思わず目じりを下げました。抑えきれない笑みが口元に浮かび、頬が熱くなっていくようです。
艷やかな黄金の髪を持ち女性的な魅力にあふれた双子の姉に対し、色あせた金髪に薄い身体を持つわたくしは、口さがない人たちから「地味な方の王女」と呼ばれているようです。しかしわたくしは、そんな噂は特に気にはしませんでした。どうせ政略で嫁ぐ身なのですから、多くの殿方の興味を引く必要もないでしょう。
そんなわたくしにもいくつか合理的な縁談が持ち上がり始めたころの、半年ほど前の初夏の夜会でのことです。――ニクラスから、熱烈な愛の告白を受けたのは。
星の降る庭園をのぞむテラスで跪きながら、彼はわたくしの淡い髪色を月に喩えて言いました。
『月の光のように儚げな貴女に、一目惚れしてしまいました。どうか、数多の求婚者たちの中から、僕を選んでくださいませんか?』
それ以来、私はまるで大好きな恋物語の主人公になったかのように、行く先々で彼からの求愛を受けるようになりました。恥ずかしい話なのですが、これまでそのような経験がなかったわたくしは……すっかり舞い上がってしまったのです。
わたくしはとうとう勇気を出して、ニクラスからの求婚を受けたいと、お父様に頼み込みました。本来なら侯爵令息といえど爵位を継げないニクラスは、王女の降嫁先に適した相手とは言えません。しかしわたくしがどうしてもとお願いすると、困ったように笑いながらもお父様はニクラスとの婚約を許してくださったのでした。
「君が幸せそうで良かったよ。もし不幸そうならば、我が国に攫って帰ってしまおうかと思っていたんだが」
そうベルトラン様の声が聞こえて、わたくしはハッとして我に返りました。ついニクラスのことを思い出して、ポワッとしてしまっていたようです。
「ごめんなさい! わたくしったら、お恥ずかしい姿を……」
「いや……ちょっと、妬けてしまうな。でも――おめでとう」
彼の口角は上がっているのに、その整った眉根は複雑に歪んでいます。バカみたいに舞い上がっている姿を見せたから、呆れられてしまったのでしょうか。
「ありがとうございます……」
小さくなりながらもなんとかお礼だけは言うと、ベルトラン様は今度は少しだけ寂しそうに微笑んで言いました。
「次に来たときには、ここでこうして会うこともなくなるのか……」
「そう、ですね……」
でも、ニクラスの元へ嫁いでゆくまで、あと一年近く時間があるのです。お世継ぎとしてお忙しい身のベルトラン様ですが、あと一度くらい――。
そこまで考えてしまってから、わたくしは内心かぶりを振りました。もうすぐ嫁ぐ身だというのに、そういう考えはよくないことでしょう。わたくしは本に目を落とすと、黙々と文字を追い始めました。
するとすぐに物語に没頭して行ったわたくしは、その描写からまだ見ぬ光景に思いを馳せて……ふと呟きました。
「『カフェ』って、どんなところなのかしら……」
「行ってみる?」
ごく気軽なことのように発せられた提案に、わたくしは慌てて首を振りました。
「何をおっしゃいます、『カフェ』といえば紳士の社交場ではございませんか。女人禁制なのでしょう? それにわたくしが街に出かけるなんて、ありえませんわ」
最近この国にも初めてできたばかりの『カフェ』は、殿方たちが集まり昼は珈琲を、夜はお酒を嗜みながら、政治や経済について自由に語り合う場所なのだそうです。そんな『カフェ』には、たとえ男性同伴でも女性は入店できないという決まりがありました。もっとも、王女であるわたくしには、市井のお店で飲食をする機会などないのですが。
「そんなもの、男のフリをして行けばいいんだよ。私もこの国のカフェには、一度行ってみたかったんだ。君の安全は必ず守ると約束するから……結婚して自由がなくなってしまう前に、せっかくだから最後に羽を伸ばしておかないか?」
良いいたずらを思いついた子どものような顔で笑う彼に、わたくしは軽く非難を込めた目を向けて言いました。
「まあ! 殿方はよくそういったことをお考えになるらしいですけれど、あまり良いことのようには思えませんわ」
「だがそれが、王国紳士の社交の一環ってものさ。実際にどんなものなのか、結婚生活を上手くやっていくためにも男心を理解しておくのは悪くないだろう?」
そう言われてみると、ニクラスは件のカフェにはよくお友だちと行っているそうなのです。詳しくははぐらかされて聞けませんでしたが、とても興味があります。ニクラスがそれほど楽しいと言うお店は、一体どんなところなのでしょう。
しばらくの葛藤の末、とうとう好奇心に負けてしまったわたくしは……悪魔の誘いに乗りました。
「では、す、少しだけ……」
「よし、では準備をしようか!」
――翌朝。どこから調達したのか、お約束通りベルトラン様から男性服が贈られて参りました。すっかり面白がった侍女たちは、よってたかってわたくしの男装を仕上げてゆきます。
贈られた服は目立たない色味ながら、とても仕立ての良いものでした。鏡を見ると丈もぴったりで、薄い身体つきも手伝い、すっかり少年のようです。簡素な紐で一括りにされた髪は男性にしては長いものですが、全くいないわけではないでしょう。
「よく似合ってるじゃないかアウロラ、いや、アーロンかな」
わたくしを迎えに来たベルトラン様も、そう言って面白そうに笑っています。その反応に、わたくしは軽く不満を込めて言いました。
「それって、褒め言葉ですの?」
「ああ。とっても可愛い男の子だよ」
「こんなとき、ニクラスならちゃんと誰よりも可愛いよって夢を見せてくれるのに……。現実を見せてくださるなんて、ベルトラン様はいじわるですわ」
「ごめんごめん、私は正直者なんだ」
「もう! 早く行きましょう!」
わたくしは少しだけ怒って見せましたが、ベルトラン様はまだ笑いながら言いました。
「ああ、行こう行こう!」
緊張しつつベルトラン様の馬車に乗り込んで出発すると、お城の門兵たちは車内をちらりと見ただけで、すんなり通してくれました。遊学中である同盟国の王族がお忍びで街に出かけられるということで、確認は形ばかりとされているようです。
しばらくして馬車が止まったのは、王都の目抜き通りにある立派な建物の前でした。街なかのお店と言っても、カフェを利用できるのは貴族階級の者たちばかりなのです。入口の左右を守る警備の一人にベルトラン様の従者が紹介状を渡すと、すぐに店内に招き入れられました。
店内には十数台の高脚のテーブルが置かれているだけで、ほとんど椅子はありません。どうやら立ち飲みが主となっているようで、殿方たちがそれぞれ数名ずつの集団で、テーブルを囲みながら談笑しています。
店の奥に空いているテーブルを見つけて陣取ると、わたくしは辺りを見回しました。やがて珈琲が運ばれてきても、ついソワソワとし続けていると……ベルトラン様が苦笑しながら言いました。
「そんなに面白いか?」
「ええ! ……いや、うん。どこを見ても新鮮だなと思ってさ」
こんなの不良の行いだとは分かっているのですが、だからこそ、より楽しく感じてしまうのでしょうか。いつもならばあやに怒られてしまうような言葉遣いも、崩れたお作法も、ここでは誰にも咎められることはないのです。
「そりゃあ良かった。せっかくだから、思いっきり楽しむといい」
「うん!」
そう、わたくしが満面の笑みで答えた、その時。店内に新たに入ってきた四人組の中に婚約者の顔を見つけて、わたくしは慌てて入口の方から隠すように顔をそむけました。
ニクラスと共に現れたのは、確か以前に仲の良いお友だちなのだと紹介された方々です。彼らのテーブルから楽しげに会話する声がここまで届き、わたくしは強い後ろめたさを感じて青ざめました。
女人禁制の場所に出入りしているなんて知れたら、はしたない女だと思われて、嫌われてしまうかもしれません。それも婚約者がいる身で、護衛も同伴とはいえ他の殿方と……。
――こんなところ、来るのではなかった!
しかし今慌てて席を離れては、逆に目立ってしまうでしょう。わたくしはなるだけ目立たないように、店の奥で息を殺しました。
しばらくして飲み物が到着したらしいニクラスたちの話が、さらに盛り上がりを見せ始めたころ。この隙にそっと店を出ようとテーブルを離れかけた、その時でした。――大声で話す彼らの会話が、図らずして耳に入ってきたのです。
「お前、本当に上手くやったよなぁ! 結婚と同時に叙爵が決まったんだろ!? いくら王女殿下といってもあんな地味な鶏ガラ姫相手に熱心に愛を囁くなんてよくやるなぁと思ったが、爵位付きなら話は別だよ。あーあ、嫡男じゃないってだけで爵位の継げない俺らは不遇だよなぁ」
そう大声で嘆く友人らしき男に向かい、ニクラスは勝ち誇ったような声で答えます。
「まぁあんな鶏ガラ姫のお相手も、王家の血を引く次代が確保できるまでの我慢だからな。後はいくらでも、好みの女を連れてくればいい」
「でも、曲がりなりにも相手は王女サマだぞ? 夫が浮気してるって陛下に泣きつかれたら、マズいんじゃないか!?」
「そんなもの、結婚してしまえば夫に文句なんて言わせないさ。それが地味でおとなしい女の唯一の利点だろ? お前の婚約者、美人だけど気が強そうだもんな!」
「ああー、早まったかな。お前が叙爵するって噂を聞いて、彼女が早く出世しろってこの頃うるさいんだよ。贈り物の要求も年々高額になってくしさぁ」
「その点、王女サマはいいぞ? 日頃から贅沢品には満足していらっしゃるから、一輪の花に甘い言葉を添えて渡すだけでいい。俺から貰えるなら何でも嬉しいんだってさ」
「マジかよ!? 逆だと思ってた……」
「ま、俺はお前等とはココの出来が違うからな」
頭の横を指差しながらニクラスが笑うと、友人は悔しそうに麦酒の杯を振り上げて言いました。
「ああクソ、いい気になりやがってよぉ! 俺も今の女さっさと捨てて、どっかの醜女の逆玉狙おうかなぁ」
そのままゲラゲラと笑い合う声が聞こえて……その間、わたくしが手に持ったままのカップを、カタカタと小刻みに鳴らしていると――まるでその震えを止めようとするかのように、そっと温かい手が重ねられました。血の気が引き、冷え切っていた指先に……じんわりと熱が戻って来るようです。
「すまない、こんなところに連れてくるべきではなかった。――行こう」
ベルトラン様の静かな声に促され、店を出てゆくわたくしに……婚約者は最後まで、気づくことはありませんでした。
それからの日々は、まるでこの世が終わってしまったかのようでした。あのとき囁かれた愛の言葉も、夢のような甘い時間も、全て偽りだったのです。『鶏ガラ姫』と心の中では嘲笑いながら、表面上だけ取り繕われた……全ては爵位を得るためだけの、お芝居だったのです。
憔悴して部屋に閉じこもってしまったわたくしを心配し、ベルトラン様は毎日訪ねて来てくださっているようでした。自分がカフェなんかに誘ったせいで辛い思いをさせたと、責任を感じていらっしゃるようなのです。
しかしその訪問も、十日もお断りし続けているとさすがに申し訳なく感じてしまいます。とうとうお会いすることにした、その日。ベルトラン様はわたくしの顔を見るなり言いました。
「すまない、本当に、すまなかった! あんなにも幸せそうだった君を、それほどやつれるまで悲しませてしまうことになるなんて、なんということをしてしまったんだ。詫びと言ってはなんだが、あの男と友人共には私から――」
ですがわたくしは彼が皆まで言う前に、その言葉を遮るようにして首を振りました。
「いいえ、ベルトラン様の責任などではありませんわ。もし今は気づかずに済んでいたとしても、数年後に最悪の形で露見してしまっていたでしょう。ならばむしろ、貴方には感謝しかないのです」
「アウロラ……」
「それでもお気になさるようなら、この栞の処理をお願いします。わたくしにはどうにも、荷が重くって」
わたくしがあの初めてもらった花で作った栞を差し出すと、ベルトラン様はそっと受け取ってくださいながら言いました。
「確かに、請け負った。だが、それだけでよいのか? ひと言この私に全てを任せると言ってくれたなら、喜んで全ての処理を請け負うのだが」
「……あとはわたくしが自分で、全てを終わらせて参ります。ベルトラン様、どうぞ見張っていてくださいませ。わたくしが、挫けてしまわないように」
「……わかった。確かに見守っていよう」
*****
あれからわたくしは父に平謝りし、婚約破棄の了承を得ることができました。しかしすぐにニクラスの実家であるアールベック家に書状を送ろうとする父を、わたくしは引き止めるようにして言いました。
――わたくしの口から彼に伝えたいのです、と。
「待ってください、誤解があるんだ! 僕は本当にアウロラ様のことを愛しているんです。婚約を破棄するなんて、どうかおっしゃらないでください!」
芝居がかった仕草でひざまずき、ニクラスはこちらに縋るように手を差し伸べました。しかしこうなってしまっては、全てが偽りの言葉だとしか思えません。
「我慢して鶏ガラの相手をしてくれなくても、もういいの」
そう言ってわたくしが自嘲するように笑うと、ニクラスは小声で言いわけを始めました。
「そ、その件は……悪友に、見栄を張りたかっただけなんです。貴女に本気だと思われるのが、格好悪いと思って、それで……」
「貴方にとって、わたくしのことが好きなのは……格好悪いことなのね」
「あ、ちが……」
「信じていた貴方に裏切られて、わたくしはとても悲しかったの。あのとき贈ってくれた花も、愛の言葉も、全部ウソだったんだって」
「ウソじゃ……ない……ウソじゃ……」
「もしウソじゃなかったのだとしても、貴方の心無い言葉を聞いて、わたくしは本当に辛かった。もう何を言われようと、貴方を信じることはできないの。アールベック家には後ほど正式に通達を出すわ。短い間だったけど、楽しい夢をありがとう。……さようなら」
「いっ、嫌だ! 待って、話を聞いてくれっ!」
そのまま彼の横を通り過ぎ、無言のまま扉のない入口を出た、その瞬間。慌てて立ち上がったニクラスが追い縋るように手を伸ばし、わたくしの肩を掴もうと――
「そのぐらいにしておけ」
――寸前で。横から伸ばされた手が、ニクラスの手首を掴んで止めました。
「なっ、誰だ!」
「ベルトラン様!」
わたくしが彼の名を呼ぶと、元婚約者が憎らしげに顔をしかめて言いました。
「こいつ……いや、この方が、あの!」
「あの?」
苛立つように片眉を上げたベルトラン様に、ニクラスは苦々しい顔をして言いました。
「あの……アウロラ様のお話によく出てくる男……」
「それは光栄だ。良いことを教えてくれた礼に、数々の不敬は不問に処そう。――下がれ」
ニクラスはベルトラン様へと向かい、悔しげに顔を歪めて見せたあと。なぜかわたくしへと向き直り、一瞬だけ何か言いたげな顔を見せてから……そのまま黙って一礼し、廊下の向こうへと走り去って行きました。
「終わったのですね……」
「ああ。お疲れさま」
「ベルトラン様には随分とお見苦しいところをお見せしてしまいました」
「いや、毅然としていて格好良かったよ」
「それは……光栄ですわ」
わたくしが力なく笑って見せると、ベルトラン様は顔から一切の笑みを消して、言いました。
「ところで婚約者がいなくなったようだから、私にも再び申し込む権利ができただろうか」
「再び……?」
「実は私も縁談を打診していたんだが、君の意向で他の男に決まったと言われてしまってね。でも諦めきれなくて、勉強を名目にここまで来てしまった。……傷心のところに付け込むのは卑怯じゃないかとも思ったが、うかうかしていたらまた別の男に掻っ攫われてしまうかもしれないし」
理解が追いつかないわたくしに、彼は真剣な眼差しで続けました。
「アウロラ、私と結婚してくれないか? 以前は焦らなくてもどうせ私が第一候補だろうと自分の立場に己惚れていたが、もうやめる。私はやっぱり、君が好きなんだと気付いたんだ」
「ごめんなさい……今は、そう言われても信じることができないのです。どうせわたくし自身ではなく、わたくしの立場が目当てなんだろうって……。貴方はそんな偽りをおっしゃる方ではないと、よく分かっているはずなのに」
「……君は自分が思っているより、ずっと魅力的だよ」
「……」
何も答えられないまま俯く私に、ベルトラン様は困ったように笑って言いました。
「私はあまり言葉が上手ではなくすまないが……こう考えてはどうだろう。政略の相手としては、私はこの上ない存在なんじゃないかな?」
「そう、ですわね……」
「ならば、初めは政略からでもいい。私と結婚しよう。――夫婦になってからじっくりと、時間をかけて分からせてあげるから」
*****
「ちちうえ、ははうえ、おやすみなさいませ!」
「ああ、おやすみ」
乳母に連れられた息子を扉の向こうに見送ると。夫は後ろからわたくしを抱きしめて、言いました。
「ようやく二人の時間が来たな。まったく、息子ばかりじゃなくたまには私にも構ってくれよ」
「またそんなことをおっしゃって……あなたこそ、ずっとお膝の上から離さなかったではありませんか」
「そりゃあ息子は可愛いさ。だが一番は、ずっと君のままなんだが……そろそろ信じてくれただろうか」
「もう、とっくに信じておりますわ。――愛しています、ベルトラン様」
「アウロラ……私も、愛してる!」
いつにもまして強い力で抱きしめられて、わたくしは思わず笑みをこぼしました。ベルトラン様、人を信じる喜びを――貴方が思い出させてくれたのです。
終
お読みいただきありがとうございました。
評価などいただけますと嬉しいです。
同シリーズの長編に、その後のアウロラが登場します。