62話 蘭摧玉折 後
フリアエに保護されて以降、アラストリアは暗闇で育つことになる。
奇妙な関係だった。寝食を共にし、時には対話を重ね、自らが蓄えてきた知識を教育する。
決して親子のそれではない。師と弟子のそれでもない。しかし、既にある程度自立した精神を備え、自らと同じ深い傷を持つアラストリアとの触れ合いの中で、フリアエは言いようのない繋がりを感じていた。
二人が共に暮らすようになってから三年が経ち、王の代替わりが行われた頃。フリアエはその事実を告げた。
「貴女の母親が亡くなりました」
アラストリアを保護した後、フリアエはすぐに彼女の来歴を探りその過去を知った。
ある商会のリーダーである男の一人娘として生まれたこと。その男が自死したこと。遺された商会員と妻である女の羽振りが男の自死の後から良くなったこと。男の商会が潰れたことで大きな利益を得た商会があること。
フリアエは悟った。新たな名を得てから幾度となく嗅いできた策謀の匂い。アラストリアはそれに巻き込まれ、父を失い、母に裏切られてあの場所に居たのだと。
「患っていた病気が悪化したのが原因だそうです」
「……そうですか」
食事の手を止め、アラストリアは感慨の薄い声で応えた。成長期の最中、どこかフリアエにも似た美しさを伴いつつある全身がロウソクの火に揺れる。
「貴女は帰る場所を失った」
「元から、あの家に帰るつもりなんてありませんよ」
母親が出していた捜索届け。フリアエは何度かその存在をアラストリアに伝えたが、彼女は母親のもとへ戻るのを拒み続けていた。
「それに良い契機でしょう」
「……それは」
「貴女がしている仕事を手伝わせてください。何をやっているのか、具体的には分かりませんが」
「駄目だ」
フリアエは自らの立場や仕事を伝えていなかった。何の罪も犯していないアラストリアを裏に関わらせるつもりはなかった。
「アラストリア、貴女には武の才能がある。理知的な判断も出来る。聡明な思考も。だから……王城に行きなさい。名を変えれば成長した貴女を知る者は居ない。来歴は適当に誤魔化せば良い。それでも貴女なら末端の兵士にはなれる。それを居場所にしなさい」
「……」
「それに……貴女は復讐に囚われている」
教育の一つとして行われた戦闘技術の会得にアラストリアは熱心だった。口数が少なく表情の変化も鈍い彼女だったが、何を理由にそれを求めたのかをフリアエは察していた。
「捨てなさい。捨てきれずとも抑え込みなさい。復讐の……激情の果てには、何もない。貴女に教えた技術はこれから先、貴女が真っ当に生きる為に教えたのです」
「なら」
強張った表情。感情の籠った声。机に置かれた手は強く握られ、その両眼はフリアエを真正面から射抜いている。
「お父さんの仇は……神と、法とは。あの日の私を、誰が救って――」
「アラストリア!」
気づけばフリアエは手を伸ばしていた。その先の握られた手に沿わせ、触れる。
「理解してくだざい。貴女の為です」
アラストリアは顔を伏せ、沈黙した。そして顔を上げた頃には。
「――分かりました」
微笑が浮かんでいた。
「貴女から学ぶべきことを学んだら、ここを出て王城を訪ねてみます」
「! そう、そうしなさい」
少なくとも、フリアエの目にはアラストリアが復讐心を飲み込んだように見えた。自分とは違い、間違えを犯さずともそれが出来る人間だと信じ、自分には出来ない真っ当な人生を送ってほしいと強く願った。
しかし、アラストリアの嘆きだけは忘れられなかった。
☆
「かの商会とその頭領である女は、法を欺き自らの障害となる商会に不当な圧力をかけ成長を遂げた。ここに、制裁を提言します」
賛成少数。反対多数。
「っ悪辣な手腕です。死者も出ている。放っておけば確かな歪みになる可能性が――」
「対象への警告は既に済ませている。以来、それを踏まえた身の振り方が続いている。現時点では制裁が必要なまでの存在とは言えん。監視を続行するのが妥当だ」
賛成多数。反対少数。
「しかし」
「我々が防ぐべきは大局的な崩壊の原因。死者の有無、数は要点ではない。……我が視えるぞフリアエ。不要な私欲が混ざっていないと誓えるか」
「……提言を、撤回します」
☆
母親の死を伝えた日から更に三年が経ったある日のことだった。アラストリアが多くを学び、成長を重ねてフリアエの提案が現実的な年頃へと成った時。
「アラストリア?」
二人の住居からアラストリアが姿を消した。その日の責務を終えて帰還したフリアエはすぐさま異変に気が付いた。
元々アラストリアが外へ出る機会など滅多になく、あるとしても事前の連絡を欠かしたことはなかった。ただ一つ、残されていたのは簡素な謝罪の文が記された一枚の紙。
「まさか」
その答えに辿り着くのは容易だった。フリアエは思考を巡らせながら闇の中から飛び出す。
アラストリアがあの商会の頭領の居場所を知るのは可能か?――可能だ。あの女は用心深い性質のようだが、商会の頭領が来るかも分からない刺客の為に一々身を隠す筈も無い。多少の取引を辿れば特定出来る。
特定した場所に侵入することは可能か?――あの子の身のこなしなら。
警備を潜り抜けるのは?――あの子なら。
偶然にも、その日のフリアエの仕事にはあの商会が関わっていた。自らが把握している頭領の居場所へと夜の街を駆け抜け、建物へ侵入し、警備の網を抜け、広間へ。
その先で見たのは。
「………………」
首元から血を流し僅かすら動かず倒れ伏す女と、窓辺から漏れる月明かりに濡れたナイフを片手に佇むアラストリアの姿だった。
「っなんて、ことを」
「……来たんですか」
「何故……何故っ!?」
「色々と考えて、決めました。私は私なりに不平等に抗おうと思います。法と神が及ばない悪人が居るのなら、それに泣く人が居るのなら」
静かに、そして有無を言わさない声音。フリアエが最後に見たその眼にあの激情は無く、冷え切った熱だけが宿っていた。
「出来れば追わないでくれると助かります。貴女は恐ろしい」
「! 待っ――」
呆然とするフリアエを尻目にアラストリアは窓を開け、足をかけた。
「ありがとう、そしてごめんなさい。私は大儀に生きます。……さようなら」
☆
あの女を加えた六人。それがアラストリアが殺した人間の数。そのどれもが数多くの民衆を喜ばせた死だった。
フリアエはアラストリアを追わなかった。彼女自身が選び取ってしまった、明らかな犯罪行為の追求。それは裏の仕事ではないと心を抑えつけた。
「違う。常に揺らぐ個人の裁量で下す裁きに意義は無い。慎重に、明確な基準を敷いて、多様な視点から下さなければならない」
度重なる殺人に業を煮やし多くの人出を投入した王家によって、アラストリアが捕らえられるのは時間の問題だった。下されるであろう罰は、最も重い衆目に晒されての処刑。
「それは大儀ではない。貴女はただ、激情を解放した後の虚無を埋める理由を探しただけだ」
抑えつける。
「もっと貴女に伝えるべきだったのか。干渉するべきだったのか。激情に意味は無い。貴女は私と同じ。ならば解る筈なのに」
抑えつける。
――どうして貴女も、私を裏切ったのですか!
☆
しかし、何時になろうとも処刑は行われなかった。やがて人々は噂する。今年は百年と百年の境目、あの罪人は……裁かれるべき悪人達を殺した女は、勇者として選ばれたのではないかと。
数百年の平和の維持によって、神々への信仰が厚い者や王家のように事情を詳しく知る者以外には、時に勇者は半ば御伽話のように語られる。
だがフリアエはその来歴からある程度の真実を知っている。だからこそ、その噂を耳にした時、彼女の中に天啓とも言える発想が芽生えた。
心を殺し仕事を全うする自分。重なる裏切りに喘ぐ自分。
深い思考の末に、フリアエは笑う。自らも気づかぬ内に。
☆
「貴女が居るとすれば此処だと思っていました。この事態の最中で貴女を自由にさせたくない、しかし牢に放り込むことも出来ない。罪人と勇者、立場の板挟み。そんな貴女にここは適している」
王城の敷地内に設置されたそこは、人一人を軟禁するのに適した場所だった。
否神派が足を伸ばす可能性が少なく、本来の用途から極端な閉鎖性を持ち、しかし牢屋という訳でもない。
中央には罪人を立たせ、それを取り囲むように傍聴人が座り、真正面には正当な裁きを与える者が立つ。
裁判所。この夜、そこで争いは起きない筈だった。
「なん、で……貴女がここに……今……」
立ち上がり、青ざめた表情でアラストリアは瞠目する。自らの為に警備を行っていた兵士達が倒れる音、開かれない筈だった扉が開け放たれる光景。
それらを作り出した者に。
「貴女は私と同じ。なら……私と同じ罰を。それが貴女に相応しい償いの形です。さあ、帰りましょうアラストリア。私達の潜むべき場所に」
夜を背に立つ、薄黒い装束を纏った片眼の女。両の手を枷に囚われ、ただ呆然とする女。
所内正面の壁に埋め込まれた神の胸像。その見開かれた両眼が高みから放つ、遮るものの無い視線が静謐に二人を覗いている。




