61話 蘭摧玉折 中
近日投稿予定とか言いながらかなり日が空いてしまいました+長くなったので中編となります。後編こそは疾風迅雷で行きます。
狂乱の中でエリスの心中に浮かんだのは逃げなければ、という思いだった。追手を撒き、逃げ込んだ廃屋の中で自らの手に生々しく残った血と感触に嘔吐した。
直前の激情とは真逆の零下。同時に押し寄せたのは巨大な罪の意識と、愛していた筈の男を無残にも殺した自己への嫌悪。
自首、あるいは自死。すぐにその選択肢が浮かんだ。
だが結局、どちらの選択もエリスは取れなかった。
☆
王都は広い。その上で数万の人々が営みを送り、他都市との交流は途切れず常に流動している。
だからこそ、エリスは事件から数日が経っても捕縛されず王都内を逃げ続けていた。
「……」
複数の家屋が作り出した路地裏の中で、薄汚れた黒い外套を纏ったエリスは足を止める。
曇天。今に雨が降り出したとしてもおかしくない空だった。
「私は……何を」
エリスにとって逃亡は難しくなかった。隠れ潜むのも追手を撒くのも容易く行えた。
「惨めに逃げ続けて」
しかし、空腹だけはどうにもならない。ただでさえ多量の食事が必要な彼女の肉体が絶食に耐えられる筈も無く、目立ちすぎる容貌から調達も出来ない。仕方なく……廃棄物を漁った。
「一体何を……」
「怖いんじゃろうが」
「っ!?」
しゃがれた声。エリスは咄嗟に声の出所へ視線を向ける。
路地の先に居たのは腰の曲がり切った老婆だった。一纏めにした白髪は長く、皺に塗れた双眼の光は薄い。
「いつからそこに……くっ」
「まだ逃げるのかえ。人を殺め、屑を漁り、息を殺して。まだ」
「……私が気取れなかった。なんなのですか貴女は」
「どうでもええじゃろう。今はお前ぞ」
「……」
「何を恐れる?罪と向き合うことか?人々の視線か?死か?」
突如現れた老人の問い。その浮世離れした雰囲気と内心を見透かされるような視線からか、気づけばエリスはそれを口に出していた。
「――皆への恩を返せなくなる」
殺人罪。神が遺し、王が司る法の中でも最も重い罪。加害者の事情が考慮される場合があったとしても、ほぼ例外無く下される刑罰は重い。
死かそれに比肩する刑。どちらが下されるにしても、エリスは二度と日の目を浴びることはないだろう。
そうなれば、エリスの中に残った柱――王への恩を返せず、無為に死ぬ。
「だから私は、逃げ続けて……」
「来んしゃい」
エリスが吐露した答えを聞き、老婆は振り返り音も無く歩み出した。
「……」
少しの逡巡。間も無くして、エリスは吸い込まれるようにその後を追い始めた。
☆
二人は暗闇を歩いていた。
「人の世が最も厭うべきものは何か、分かるか?」
「……崩壊、ですか?」
「それも答えじゃろうな。しかし崩壊があれば再生もある。しからば崩壊によって世が完全に朽ちることはそうないじゃろう」
「では、何だと」
「停滞じゃ」
「停滞……」
「進歩、向上。つまり変化も無い。それは見方によっては完璧とも言えるかもしれんが、いつしか人の心は停滞に膿む。流れを止めた水が濁るように」
「……」
「だが、流れ続ける水とて時に歪みを起こす。その果てにあるのはお前の言う崩壊よ。如何に再生が待っているとはいえ、致命的な崩壊は防ぐに越したことはない」
老婆は立ち止まり、目の前の扉を押し開けた。その先には蝋燭の淡い光に照らされた空間があった。
「王都の地下にこんな場所が……」
「それを成すのが法。王とそれに連なる臣下達が悪徳を咎め罪を罰する為の剣。じゃが……これもまた完璧ではない。商売、思想、芸術、開発。変化の果てに一線を超えかねん者、一線を理解した上で悪辣に益を貪る者。変化を良しとすれば必ず生まれる歪み。時に法はこの歪みの前に無力になる」
話が長くなった。老婆をそう呟きながら空間の脇に置かれた燭台の一つを手に取り、目の前を照らした。
そこには、目を布によって覆い隠された女神の像が祀られた祭壇があった。
「そして――その歪みを見つめ、必要であれば正すのが我らよ」
老婆の宣言の中でエリスは察知し、身構えていた。奥行すら曖昧な闇の中に潜む微かな息遣い達。
「……つまり貴女達は、独断で私的な制裁を人々に加えているのですか」
「我ら……裏、とでも呼ぼうか。裏の本分は監視と警告。制裁、とまでいくのは余程のことが有らぬ限り起こらん」
「同じようなモノでしょう。仮にそんなことが本当に行われていたとしても王家が、王が許す筈が無い」
「じゃが、裏は遥か昔から今に至るまで存続している。歴史の流れの中で王城が裏の存在を感知していない筈が無いというのに」
「それは……王が暗にそのような存在を認めていると?」
「そうとしか考えられんよ。何せ――裏の中にはお前のように罪を犯しここへ辿り着いた、本来なら裁かれなければならない者も過去には居た形跡があるのだから」
「……」
「分かるか?罰するべき罪人を取り込んでなお王は裏を野放しにしている。それは裏の存在を利と捉えているからか、もしくは裏の創始が関係しているのか。どちらにせよ、我らは連綿と継がれてきたこの役目を果たし続けるのみ」
「……そんな、ことが」
「信じられんか。まあ良い、直に理解する。本題はここからだ」
老婆の話はエリスにとって理解しがたいモノだった。兵士として生きてきた十八年の月日の中でそんな話は噂程度ですら耳にしたことが無い。
「エリス。その名を捨て、新たな名と共に我らが一部となれ。その至高の体躯と王への忠義には相応しい罪の償い方がある。形は違えど我らの理念はこの地の秩序の維持。その結果を以って恩を返すが良い」
しかし、エリスに残された選択肢は少なく。
「それとも、公正な裁きの下で死ぬることを選ぶか?」
両目を塞がれた女神像が彼女を見つめていた。
「……私は――」
☆
我らは裏。影に潜み、ただ歪みを正す。
そこに賞賛は無く名誉も無い。咎められれば霧散するであろう薄き実体。
――フリアエよ、銘ずるのだ。
自我を殺し目を閉じよ。お前には激情が潜んでいる。
心無き刃となれ。それでこそお前の望みは叶うだろう。
☆
それから、フリアエの永い贖罪の日々が始まった。
裏の監視、警告の対象は主に利権を求め拡大を目論む商会達とそれらと繋がりを持つ権力者達。
フリアエは自らの無知を知る。盤石に保たれていた筈の王の治世には老婆が語った歪みの側面が確かにあった。
合議によって決められた権力者の住居に侵入し、自らの来歴と目的を告げる。するとその人物は目に見えて態度を変え低頭し始めた。
ただただ裏とだけ呼ばれる者達が権力者に恐れられている事実を目の当たりにし、フリアエは老婆の言葉が真実だと悟った。
他の裏の面々との繋がりは極僅かで名を交わすことすらも稀。淡々と指令された役割をこなし、それ以外の時間は地下へ潜み兵士の頃のような鍛錬を黙々と続ける。
流れる月日の中で灰色の髪が日に輝いたのは数えるほどしかなかった。
指令の遂行と鍛錬に没頭する禁欲的な生活。自我が掠れていく感覚と治世の崩壊を未然に防いでいるという実感がフリアエにとっての償いであり、慰めだった。
そうして五年が経ち、かつて居たエリスという名の兵士を皆が忘れ去った頃。
フリアエは彼女と出会った。
☆
裏路地の行き止まり。そこに彼女は蹲っていた。
「そんなところで何をしているのですか」
「……」
昼であってもその場は暗い。景色に溶け込むような黒い髪。その隙間から赤い光が覗いていた。
「子供が居て良い場所ではありません。今すぐに家へ帰りなさい」
言い聞かせる為に語気を強めた言葉にも彼女は微動だにしない。フリアエはその無言を聞き届けた後、彼女のもとへと歩み寄った。
バラついた前髪を恐る恐るに払う。十歳かそこらの子供。建物の隙間から差し込む僅かな光源が、両眼の色を写していた。
「帰る場所が無いのですか」
傷ついている。フリアエは確かにそう感じ取った。この子は大切な何かに裏切られたのだと。
物々しい眼帯をしたフリアエに正面から見つめられても、彼女は変わらずぼんやりと中空を見ていた。
「……食べ物と、寝床と、気兼ね無く身体を洗える場所が貴女には必要です。帰る場所が無いのなら私と行きましょう。あそこは少し、暗いですが」
フリアエは彼女を抱き抱え、自らが帰えるべき場所へと向かい始めた。その身体の軽さに覚えた危機感から歩を早めながら。
「良ければ名前を教えてください。私はフリアエ」
二人の姿が暗闇に溶ける頃、彼女はぽつりと呟いた。
「アラス、トリア」




