16話 次の揺籃
頬に落ちた水滴が、傷の熱を和らげる。
雨が降り出している。さっきまで何の前兆も無かった、緩やかな雨。通り雨というやつだろうか。聖堂の中を盛大に燃やしてしまった事を思い出した。
「ふぅぅぅぅ……」
身に余る活力と衝動を抑え、今すべき事を何度も思い浮かべる。
アイムを捕まえ、何とかして暴走を止める。
「アアッ!」
「止ま、れっ!」
力任せに振るわれた右手を避け、身体に掴みかかろうとする。
沸き上がる力を適度に抑えながら。
「っ!つぅ、いったいなあ!」
左手で払いのけるように殴られ、自分でも驚くぐらいに吹き飛ぶ。吹き飛んだ先にはベンチがあり頭を強く打ったが、身体は動く。この程度のダメージで済んでるのは異能のおかげだろう。
殴られて切れた口の血を拭いながら、捕まえる事の難しさを感じる。
「こん、のっ!」
「!っぁ」
力任せにベンチを持ち上げ、アイムに向かって投げる。
不意を突けたのか飛んで来たベンチを受け流しきれず体勢を崩したアイムを見て、一気に距離を詰める。
殴られないよう両手を掴み、抵抗しようと凄まじい力で押し返そうとするのに僕も対抗する。
「アイム!異能を抑えるんだ!君の敵はどこにも居ない!」
「……」
「君に何があったのかは知らない!でもあんな狂人の言葉、聞き入れる必要なんて無いって!」
「ッアア!」
「ッ!」
真下から顎を蹴り上げられた。これは流石に効く。
思考が揺れる。両手を離しそうになる。
視界が揺れる中、フォルスの始末をアラストリアに押し付けた事を思い出した。
「--ふんっ!」
「ッ!?」
鈍い衝突音と不快な感覚と痛み。
手を引っ張る勢いのまま、アイムに頭突きをした。
相変わらず思考は揺れるが、ある意味明瞭にもなった。
アイムの顔が間近にある。彼女の目の下に雨粒が垂れた。
「アイムはちゃんと、神を信仰出来てると思うよ。そもそもそれは他人が決める事じゃ――」
「……お父さん、お母さん」
「!意識が――」
「セーレ様、私を、圏域の外に……。あ、う」
押し返す力が戻り始める。
一瞬正気を取り戻した後、すぐにはまたアイムは狂気に呑まれた。
圏域の外。僕の異能の急成長。神の残滓。
色々な言葉が思い浮かび、一つの仮説が思い浮かんだ。
「――アアッ!」
それと同時に迫るのは膝蹴り。腹を狙ったそれが迫るのと同時に、僕は彼女の手を離さないように強く握る。
外に。膝蹴りが当たると同時に、思い切り後方へと跳んだ。
☆
「……はっ!や、やば。げほっ、死んだかと、思った」
目を覚ますと同時に背中に感じるのは、固い石の感触。腹と頭には痛みがジンジンと響いている。
あの瞬間、膝蹴りの威力を殺すのとその場を離れる為に全力で後ろへ跳んだ。それはもう手加減無しで。
結果、手を離さなかったアイムごと僕は盛大に吹き飛び、こうして民家の屋根へと叩き付けられた。
暴力が無ければ確実に死んでいただろう。
「アイム、大丈夫?」
「……ごめん、なさい」
膝蹴りの際そのまま抱え込む形で吹き飛んだからか、アイムは僕の懐に居た。
受け答えが出来ている。頭の角が消えてるし、様子もおかしくない。異能の影響はもう無いようだった。
安心して力が抜けるのと同時に、暴力の影響が完全に消えたのを感じた。
「アイムの異能……多分神を降ろすのと同時に、その場所を神と繋がりやすくする、みたいな効果があるんだよね」
「……はい」
「だから僕の異能も急激に馴染んだ。そこから離れたからアイムの異能も収まった。……それはそれとしてさ、教えてくれない?アイムの事」
色々と気になっていた。
両親の事、アイムの変容の事、フォルスの言葉。それらがアイムが暴走した原因なのだろう。
顔を伏せたまま、アイムは覇気の無い声で語り始めた。
「……私の両親はこの都市を追放されたんです。私は、それを止めなかった。止めようと思えば止められたのに」
懺悔。というのを見た事がある。
教会を通して神々へ、自分がした罪を告白する事だ。
過去に見たその光景と、今のアイムが重なったように思えた。
「それ以来、その行為を肯定する為に、私はより神々へと信仰を捧げました。……それを否定する自分が居ると知りながら」
「演技だった、って事?」
「分かりません。もうどっちの自分が本当なのかも。私の信仰は本物なのでしょうか。偽物なのでしょうか。……ああ、でも」
――お父さんとお母さんに、謝りたい。
ずっと心の奥にしまっていたであろう本音。
あの夜見た服に付いていた花の刺繍を、何故か思い出した。
「謝りに行けばいいんじゃない?」
「へ?」
僕の素直な気持ちを口に出すと、アイムは気の抜けた表情で顔を上げた。
「追放されたんでしょ?じゃあどこかに住んでると思うし、旅の中で探せば良いよ。探すなら僕は手伝う」
「え、いや、今更どんな顔をして会えば……」
「謝りたいのならそうすべきだと思う。相手がどう思っていようが、君の救いにはそれが必要だ」
「私の……」
アイムの両親がどんな人物なのか分からないが、どうであれ必要な事だと思った。
謝罪を望むなら僕はそれを手伝うだろう。それくらいには、僕は彼女の事情を知ってしまった。
それはそうとして、僕は少し苛立っていた。
「アイムはさ、まだ聖女でいたい?」
「分かりません。……でももう、疲れました」
「そっか。じゃあもう辞めよう」
「え?」
アイムを置いて立ち上がる。
ここは屋根の上だ。縁に立ち下を見下ろす。
聖堂での火災と、屋根に突っ込んだ僕達。一連の騒動でここの住人達が集まっていた。
男。女。偉そうにヒゲを伸ばした老人達。白。白。白。アラストリアと手を振っているヴィネが見えた。
皆一様に僕を見ている。困惑したように。誰かの指示を待つかのように。片膝を付けて。
――気持ち悪い。その思いと、ヴィネの話を聞いて感じ、痛みで増した苛立ちを込め、僕は声を張り上げた。
「勇者セーレが宣言する!今この時より、アイムは聖女では無くなったっ!勇者として魔王を討った後も、彼女が聖女としてここに戻る事は、無い!」
出来るだけ多くに聞こえるように、全力で声を張り上げた。おかげで全身が痛い。
下の反応を見ずにアイムへと向き直る。立ち上がった状態で口をぽかんと開けた、ちょっと間抜けな顔だった。
手を伸ばす。そういえば、あの弱々しい雨が止んでいた。
「よろしく、勇者アイム。……勝手に言っちゃってごめんね?」
今更気恥ずかしくなった。
☆
「--彼女が聖女としてここに戻る事は、無い!」
目の前で彼がそんな事を言った。私の何年もの日々を軽々と否定してしまった。
私が暴れたせいで所々に血が滲み、少しふらついた様子で。
「よろしく、勇者アイム。……勝手に言っちゃってごめんね?」
呆気に取られている私に手を伸ばし、彼は恥ずかしそうに言った。
日が彼を照らしている。眼下では信徒達が跪いている。
彼の背に見えていた神々との繋がり。それが何故だか見えない。
でもその光景が、あまりにも眩しくて。
「かみさま?」
私は思わずそう呟いていた。