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アルビスに抱きかかえられたまま庭園に出た佳蓮は、生理的嫌悪から本気で吐き気を催してしまった。
車酔いとか船酔いなどといった、じわりじわりと来るものではない。自分を犯した男の腕に抱かれていると意識した途端にガツンと来たのだ。
「お……お願い……降ろして」
弱々しい声で訴える佳蓮に、アルビスは首を横に振る。
「靴を履いてない君をに歩かせるわけにはいかない。急ぐから、それまで我慢しろ」
アルビスは早足から駆け足に変わったが、佳蓮はこれ以上口を開けば、違うものが出てしまう直前だった。
大っ嫌いな男の肩を自分の吐しゃ物で汚して「ざまあみろ」と言うのも悪くないが、年頃の女の子としてはさすがに抵抗がある。
己の挟持を守るために、なけなしの気合と根性で目を閉じて両手で口を押える佳蓮だが、視界が闇に包まれたところで状況が変わるわけがない。
すぐに酸っぱい何かが喉からせり上がってくる。もう無理、止められないと思った瞬間、今度はザブンと真冬の水に浸かり──アルビスに担がれて、水堀を移動する羽目になったのだ。
踏んだり蹴ったりとはまさにこのこと。吐き気は治まったが、体の芯まで冷えてしまった佳蓮は、城からほど近い林の木の根元に降ろされ凍死寸前だ。
震えながら見上げた夜空は、星々が輝いているのに雪が舞っている。
木立が密生しているここに、真冬の月が細い絹糸のような光を差し込む。それが地面に積もった雪に反射して辺りは不思議なほど明るいが、暖かさは感じられない。
「ま、真冬に泳ぐとか……マジありえない」
大きな木の下で座り込んでいる佳蓮は、奥歯をカチカチさせながら不満を口にする。傍で立つずぶ濡れ状態のアルビスは、視線を下に向けた。
「君の世界では、当たり前ではないのか?」
「そんなわけないでしょ!」
噛みつくように叫べは、アルビスは納得したように頷いた。
「だろうな」
「……なっ」
馬鹿みたいなことを訊いて、人をおちょくっているのだろうか。佳蓮は半目になって、アルビスを睨みつける。
藍銀色の髪を夜風に遊ばせているが、水気を含んでいるせいで若干重たそうだ。水も滴るナントカのようで腹が立つ。
佳蓮といえば、胸の辺りまである髪を頬や額に張り付けている。唇も真っ青だから、さぞかし不細工だろう。
(片やイケメン……片やゾンビもどき)
同じことをしたはずなのに、この差は一体何なのだろう。本当に世の中は理不尽に満ちている。
「ほんとマジ、ムカつく」
佳蓮は次から次へと湧き出る苛立つ気持ちを、こうなった元凶であるアルビスにぶつけたが、その声はガタガタと震えるせいで弱々しい。
「加減がわからず、防寒魔法を弱めにしたのが失敗だったな……すまない。もう少し強くしよう」
そう提案して手を伸ばすアルビスに、佳蓮はギロリと睨む。
「触んないで」
「だが、震えている」
「あんたに怒ってるから震えてるのよ!」
「……そうか」
悪態が吐ける程度の気力は残っているし、アルビスに触られるぐらいならこのまま凍死したほうがマシだ。
そんな気持ちが伝わったのか、アルビスは体の向きを変えて自ら風除けとなりだした。でも寒いものは寒い。
「……ちっ」
佳蓮は小さく舌打ちをして、両腕で自身の身体を包み込んだ。
腕も服もしっかり濡れて冷え切っているので、返って寒さが倍増する。やっぱりこの世界は最悪だ。
頼んでもないのに嫌いな男の不幸話を聞かされるし、暗殺されそうになるし、寒中水泳しなきゃいけないし、ロクなことがない。
(帰りたいなぁ)
せめて心だけでも元の世界に繋がることができたなら。そこまで考えて、佳蓮は無意識に呟いた。
「死んだら、元の世界に戻れるかなぁ」
不吉な言葉ではあるけれど、佳蓮にとって、死ぬというそれは、元の世界では気軽に口にしていたもの。
お腹空いて死にそう。暇すぎて死んじゃう。嬉しすぎて、今すぐ死んでもいい。そんなふうに気軽に言葉にできるもの。
けれどアルビスは、冗談だと聞き流すことができなかったようだ。
「無理だ」
冷たく言い放たれて佳蓮の眉がピクリと跳ねるが、アルビスはそれを無視して再び口を開いた。
「お前は、魂ごとこの世界と堅く結ばれている。死んだところで元の世界に戻ることはできない」
「はぁ?やってみなくっちゃわからないじゃない」
「無駄だ。やめておけ」
「なに勝手に決めつけてくれるの?なにか証拠でも──」
「ある」
アルビスはきっぱりと言って、口元を引き締めると空を見上げた。
それからすぐに顔を下に向けたけれど、佳蓮の目に映るアルビスはこの世の光を全て拒絶するような、罪人のような姿だった。
嫌な予感がした。今にも口を開こうとするアルビスから、逃げ出したい。
けれども立ち去る間も与えずに、美しい罪人はひどく落ち着いた口調で、佳蓮に自分の罪を告げた。
「私が君を抱いたから。だからカレン、もう君は元の世界に戻れない」




