10
リュリュがストールで佳蓮を包み終えたその時、少し離れた場所からザッザッと規則正しい足音が聞こえてきた。どんどんこちらに近づいてくる。
さっきの怒鳴り声を聞いて、衛兵がこちらに向かってきているのだ。
このことは間違いなくアルビスに報告される。あの男のことだから、今以上に監視を厳しくするはずだ。そうなったら、もう二度と離宮の外に出ることは叶わないかもしれない。
佳蓮が最悪の事態を想像したその時、リュリュが突然、にっこりと笑った。そしてこれまで通りの声を張り上げた。
「まぁカレン様、今すぐ陛下の元に行きたいだなんて……リュリュはそんなワガママを言われて、困ってしまいますわ。でも、そんなに陛下のことが心配なんですね!わかります。といっても、大丈夫でございますよ。陛下が視察に向かうのは、今すぐではございません。まだ半月後なんですから」
突拍子もないリュリュの言葉に、佳蓮は目を丸くする。彼女の言葉の中に、気になる単語があったのだ。
「……視察?」
思わず口に出して問うた佳蓮に、リュリュは超が付くほどの小声でしっと嗜めた。
(なるほど)
これは機転を利かしてくれたリュリュの演技だ。
それにしてもかなり無理がある内容だし、色々物申したいことはある。だが佳蓮は、打算から素直に口を噤む。
そうすればリュリュは、再び夢見る乙女口調で声を張り上げる。
「そりゃあ2ヶ月も北のリフィドーロという領地に視察に行かれるなら、ご心配でしょうけれど。でも、こんな夜更けに庭を横切って陛下に会いにいかれたら、逆に陛下が心配してしまいますわ」
要するにリュリュは遠回しにあと半月、我慢しろと言っている。
明確な期間を提示してくれて嬉しい。辛いけれど耐えられないことはない期間だ。でもこの言葉を信じていいのだろうか。リュリュを信じたい気持ちはあるが、騙されるのは怖い。
だが今はここで、子供みたいにぐずっているべきではないことはわかる。
心の中で何度も葛藤した佳蓮は「わかった」と呟いた。すぐにホッとした空気が辺りに漂う。
そんな中、場違いなほど明るい声でリュリュがこう言った。
「さぁ離宮に行きましょう、カレン様」
「……うん」
立ち上がって佳蓮に手を差し伸べるリュリュは、戻るとも、帰るとも言わなかった。
あえて言わないでくれた。だから佳蓮は、今度は素直に頷き、リュリュの手を借りて立ち上がった。そして一歩踏み出そうとしたその時、
「あ、ちょっとお待ちください」
リュリュは自身の靴を脱ぐと、地面に膝をついて佳蓮に履かせた。
「少し大きくて歩きにくいかもしれませんが、どうぞお許しくださいませ」
再び立ち上がったリュリュは、佳蓮を支えるように背に手を当てて、ゆっくりと歩き出す。衛兵達は慇懃に礼を執り、佳蓮達の為に道を開ける。
──かっぽ、かっぽ。
子供がお母さんの靴を履いているような音が、辺りに響く。
懐かしい音だ。佳蓮はつまづかぬよう、慎重に歩を進めながらそんなことを思う。
背に回されたリュリュの手の暖かさが服越しに伝わって、遠い世界となってしまった元の世界の日常を鮮明に思い出す。
三者面談の後、『あんたは、あんたの好きなことをしなさいと』と母親に言われながら歩いた商店街を。
移動教室で『実験なんてマジたるいよね』と言いながら理科室まで級友と連れ立って歩いた校舎の廊下を。
野球部の練習試合で負けて、悔し泣きする冬馬を慰めながら歩いた線路沿いの道を。
海がある地方で生まれ育った佳蓮は、皆が当たり前に持っていた都会への憧れはなかった。中途半端に便利で不便なそこが大好きだった。
ずっとずっと同じ景色を眺めながら大人になっていくんだと思っていた。そうしていきたいと願っていた。
この願いは、遥か遠い場所にいても消えてなんかいない。大切な場所を過去の事にしたくなんかない。手の届かない場所にしたくない。
「カレン様……今はわたくしのことが信じられなくても、構いません。ですが、ヴァーリが陛下の為だけの騎士ならば、わたくしは貴女様の為だけの侍女でございます。どうかそれを記憶の隅に置いていただきとうございます」
唄うように囁かれたリュリュのその言葉は、揺るぎない何かを秘めたものだった。
「……うん」
なんの躊躇もなく自分の靴を差し出してくれたリュリュを、今は無条件に信じたいと思う佳蓮は小さく頷いた。




