9
陽の射さない廊下は思ったよりも広く、複雑で、視界が悪かった。追いかけているチャールズの背中も、絶対に逃がしてはいけないバブ・ゾンビの背中も見えず、彼らがどこへ行ったかもわからない。
リーガンはとうとう走るのを止め、辺りを見回した。ダミアンが追いかけてきてくれている足音を確かに聞いたのに、後ろに彼の姿は見えない。彼やアナベルの身に何かあったのだろうかと、リーガンは一瞬浮かんだ不吉な予感に背筋をゾッとさせた。
もう一度振り返ろうとしたところで、口を塞がれた。思わずもがこうとするも、そのまま横ざまにさらい、空き教室の一つに連れ込まれた。その誰かはそっと扉を閉め、しばらくした後、深いため息とともにようやっとリーガンを解放してくれた。
「だ、誰!?」
「しーっゾンビに見つかると困るんですよ。今から追いかけなきゃいけないんだから。それより、一体何だって追いかけてきたりしたんすかねえ」
声の主は追いかけていたはずのチャールズだった。彼は先ほどの魂の抜けきったような顔とは一変して、正気の戻った、いつもと変わらない軽薄な顔つきに戻っていた。まるで憑き物が落ちたように。
「だって、あなたが無茶なことをしてゾンビに噛まれたら、さらに被害は拡大するわ」
「……俺を心配してたとか、無理にでも出てこないところが正直でいいっすね」
チャールズは肩をすくめ、「あのゾンビはどこか行って見失っちまったんですよ」と忌々しそうに、悔しそうに呟くと、しばらくした後「さっきはすんませんでした」とリーガンに頭を下げた。
「俺、さっきは頭に血が昇っちまって。本当は気付いてたのに。ティファニーが死んだのも、俺のせいなんです。あいつも、俺のせいで死んだってのに」
急激なチャールズの変化に、リーガンは目をぱちぱちさせた。確かにその通りだが、先ほどまで呆けて何の役にも立たなかった状態から、あまりにも変わり過ぎていた。まるで、さっきの彼は悪い魔法にでも掛けられていたと言わんばかりだ。
「あなた、さっきとはまるで別人ね」
「走ってたら、何か正気に戻りました。あと、一人でうろつくあなたを見てたら、この人がここにいるのって、俺のせいじゃんやべーって思って。それで、俺何やってんだろって」
彼はそう言うと、自分の赤毛をくしゃっと崩した。
「それにしても、リーガン様は何だってこんな無茶してるんすか。ダミアン様が止めてたってのに」
あれこれ考えているところで、チャールズの質問にリーガンはふと、なぜだろうと首を傾げた。
確かに、自分は少々無茶が過ぎた。こんなゾンビがどこに潜んでいるかもわからない状況で、チャールズを追いかけたりすべきじゃなかった。おまけに、一緒にいてくれたダミアンやアナベルと離れてまで。
(ひょっとして、ゲームでこういう展開だったとか?私は、ひょっとしてこの世界をまだゲームの世界とでも思っているのだろうか。確かにここはあの「ROLE」の世界だけど、もうそれだけじゃない)
人が実際に死ぬ場面を見た。そのことに悲しむ人の慟哭を聞いた。あの、心を突き刺すような鮮やかな血の赤も、鉄臭い血の匂いも、悲しい死者の匂いも、全てが五感に叩きつけられた。これはゲームじゃない、もう既にリーガンの中では、何よりも確かな現実だ。
それなのに、自分は無鉄砲な行動に出た。それは、速攻で死に繋がる。
(死……。私は、なぜ死んだんだっけ。以前の私は日本人だった。このゲームをやりこんでいた。私はどうやって死んだっけ。覚えているのは、リメイク版「ROLE」をやってて……そうだ。リメイク版はまだ発売されていない。だけど私はこのゲームを知ってる。何でだっけ……)
(うわ、キャラ凄い増えてる。あ、これが前作でコメントが多かったリーガンってキャラ?お嬢様なんだ。王子様の婚約者なんだから当然か)
(いやあ、まさかあのコメントであんな反響があるとはね。でもおかげでいろいろエピソードも増えてよかったよ。王子様大好きキャラになるとは思うけど)
(ええ?それじゃあ面白くないじゃん。それに、せっかく人気キャラなんだから、馬鹿王子を徹底的に嫌ってる方が面白いって)
(絶対そっちの方がいい。その方がリアルだって)
(そういうもんかあ。じゃあさ、●●、リーガンテストプレイで使ってよ。彼女は火属性だから、序盤は使いやすいと思う)
(それなら私は……)
「リーガン様?」
チャールズの声に、リーガンは顔を上げた。
(今のは何だったんだろう。前世の記憶?そうだ、仲が良かった友達と三人で、このゲームについてよく話してたけど、あれは……あの人は、開発者の一人?会話はそんな感じだった)
「いろいろ考えてるみたいだけど、誰か来たみたいっすよ。足音からして、ゾンビじゃなく人間です。たぶん、ダミアン様じゃないっすか?」
チャールズはそう言うと、リーガンにぺこりと頭を下げた。
「チャールズ?」
「すんませんでした。俺のせいでリーガン様を危険な目に遭わせてしまいました」
「リーガン?」
遠くでダミアンの声が聞こえた。
「こっちっす」
チャールズがドアを開けそう言うと、リーガンにもう一度頭を下げる。
「やっぱり俺、あのゾンビを追いかけます。リーガン様達は早いとこ逃げてください。俺、あなたとあの王子様は釣り合わないなと思ってました。あなたは綺麗だし。顔だけってことじゃなく、その立ち居振る舞いとか、みんなへの態度とか。そういうとこ、あの王子様にはもったいないって思ってたんす。何かいろいろあったみたいだし、こんな状況なら、もっといろいろ自由に選べるんじゃないですかね)
それだけ言うと、チャールズはさっさと廊下に出た。
「チャールズ!」
そうして、すっかり陽が落ちてさらに暗くなった闇に溶け込み、すぐに見当たらなくなった。
「リーガン!」
代わりに飛び込んできたダミアンに強く抱きしめられた。
「リーガンよかった!何であんな無茶をしたんですか!ここがどれだけ危ない状況か、あなたはわかっているんですか!?」
安堵と怒りが混在する、切羽詰まった声だった。いつも冷静なはずの彼は、自分が公爵令嬢に、王太子の婚約者に何をしているか、恐らく気付いていない。
戸惑いつつも、不快な気分はかけらも感じずに、リーガンは素直に謝った。謝罪しつつ、先ほどのチャールズの言葉を、彼女は何となしに思い出していたのだった。