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その男子生徒は今日をとても楽しみにしていた。
何もかも完璧だった。
マルコス学園の卒業パーティーは、貴族が多いせいか他の学校のパーティーより遥かに洗練されていた。
貴族たちが、自分たちの子供がよりよい環境で勉強できるよう、それと、今後の魔法技術の発展のため、という建前の下、自分たちの富を顕示するために多額の寄付金を惜しみなく差し出す。
ともあれ、おかげさまでパーティーは、彼がそうそうお目にかからないほど豪華な出来栄えになっていた。
あくまで学園のパーティーなので、ドレスはそれほど立派なものじゃなくていいという点も好ましい。彼は典型的な中流家庭の息子だったし、彼のパートナーもまた、そうだ。
彼のパートナーであるティファニー・ティリーは水色のホルターネックのドレスを着こんでいた。その色合いは彼女のプラチナブロンドの髪にはよく似合っていたが、その形は、彼女の豊かな胸を少々過剰に強調していた。
それに、スカート部分の丈も少し短い。短いせいでつい足元に目が行きやすくなってしまうのだ。若い娘に限らず、普段からドレスに慣れていない人間が陥りやすいのだが、ドレスに重点を置きすぎて靴にお金をかけられないことはよくある。そういう時、足元に目が付きやすい格好をするのは、大きな失敗だった。
けれど、それでもティファニーは綺麗だった。
少なくとも、彼が今まで知り合った女子の中では一番だった。惚れた欲目というのはよくわかっている。大体、彼女のドレスに何か意見が言えるほど、彼はお洒落な男というわけではないし、靴にお金をかけられなかったのは、一緒だった。
それに、美人だと言えば公爵令嬢のリーガン・フリードキンとか、男爵令嬢のエスター・ファーマンなんかが真っ先に挙げられるが、ああいう方々は彼とは違う世界の住人であるため、最初から数に入っていない。
ともかく、元カレに未練タラタラの彼女を、この数か月必死で口説き落とし、卒業パーティーのパートナーにまでこぎつけた彼は、この日が、まさに人生最良の日となると信じて疑わなかった。
パーティーはとても盛り上がっていた。始まったばかりのところで、公爵令嬢が婚約者である王子様に婚約破棄を突きつけられているというハプニングはあったが、ティファニーはその一連の騒動に興奮して、数人の女生徒たちとパートナーそこのけで盛り上がってはいたが(みな、揃って公爵令嬢であるリーガンに同情的だった)、何とか彼女たちから引きはがし、ダンスに誘い、不器用ながらもダンスを二人で楽しんだ。
卒業後、彼は家業の鍛冶屋に本格的に弟子入りすることになっている。最初の数年は見習いとして基礎を学ぶため、なかなか時間は取れない。けれど、手紙はこまめに書くし、時間が許せば遠出して彼女に会いに行くこともやぶさかではない。
それらをきちんと伝えて、彼女に、この交際がいいかげんなものではなく、将来も見越しての真剣なものなのだと伝えるのだ。
そう思っていたのに、パーティーを抜けだし、彼女にそれらを真摯かつ情熱的に伝えようとしたというのに、いきなり彼女の元恋人の、あの軽薄でいいかげんなチャールズ・リーレイ・グッドガイが現れたのだ。
おまけに、彼はティファニーの腕を掴んで強引に彼から引き離そうとする。あまりのぶしつけさに憤慨し、彼の胸ぐらをつかんだ途端に、いきなり顎先を殴られた。それは、強烈なアッパーパンチだった。
痛みと驚きで、目の前が真っ暗になり、足元がガクガク揺れ、気が付いたら座り込んでいた。
「何てことするのよ!」
ティファニーが悲鳴に近い声で怒鳴りつけているのが、どこか遠くで聞こえた。
(駄目だ、ティファニー。そいつはおかしい。いきなり殴りかかるなんて。頭がおかしい。誰かを人を呼んで、逃げろ)
何とか逃げろと彼女に伝えたかったが、彼の意識は朦朧とし、瞼が重くなる。
(ティファニー、逃げ……)
そうして、彼は意識を手放した。
次に気が付いたのは、強烈な痛みと、吐き気を催す匂いによってだった。
(な、何だこいつ!?)
そこにいたのは、異形の化け物だった。体の多くは爛れ、ぶよぶよに腫れ上がり、どす黒い粘液を至る所から垂れ流している、薄気味の悪い化け物だった。それが、無理やりに働かされている、元は人間であったものであることを、彼は知らなかった。知らないまま、喉元を食い破られた。
すぐさま彼は魔法を作動させた。それは、意識してではなく、痛みと恐怖から、悲鳴と同じく反射的に出てきた、と言った方が正しかった。
彼の属性は火である。彼の放った火球は異形の生物を燃え上がらせた。
(うう、痛い、熱い)
彼は、あふれ出てくる血を何とか止めようと傷口を抑え、ゆっくりと起き上がった。実を言うと彼が先ほど意識を失ったのは脳震盪を起こしてしまったからで、本当ならまだ立ち上がることはできないはずだった。しかし、自分が立ち上がれた理由に気付かず、彼は辺りを見回した。
「てぃふぁにー」
愛しい彼女の名をたどたどしく口にし、彼は歩き出した。のっそりと、酷く緩慢な動きで。
首元から流れ出る血が、やけにどす黒かった。
視界は悪く、足元はおぼつかない。しかし、彼は愛しい恋人を探して歩いた。
(ティファニー、会いたい。どうか無事でいてくれ。だってそうじゃないと……僕がお前を食べられない!あの柔らかい肉、甘そうな血)
今彼女に会ったら、あの大層美味そうな体に、迷うことなくかぶりつきそうだった。
(ああ、腹が減った。喉が渇いた。体が痒い。ティファニー、喰いたい、うまそうなお前を喰いたい)
彼は白濁した目をぎょろりとさせ、獲物を求めて歩き出した。飢えはあまりに強烈に彼を蝕み、もはや、それしか考えられなかった。
どこか遠くで、誰かの話し声がした。男と女の声。
「てぃ、ふぁ、にー」
食欲を刺激された彼は、そちらに体を向け、ゆっくりと歩きだした。
「あそこにもゾンビが!リーガン、アナベル、下がって」
男の声がした。後ろには、女が二人いる。ティファニーじゃない。だが、そんなことは、もはやどうでもよかった。
柔らかそうな肉。うまそうな肉。
低い、獣じみた声で彼は吠えた。獲物を前にした歓喜の声だったが、しかしそれは、人間離れした、異形のものの声だった。
彼は両手を前に出した。少しでも早く、獲物を掴めるように。だらしなく口を開けた。一刻も早く、獲物に齧りつけるように。
そうして彼は、ゾンビとなった彼は、獲物たちがそれぞれ武器を構えていることにも気づかずに、前に進んだ。