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「ふう、リーガンの奴、すごすごと立ち去って行ったな。最後に捨て台詞を吐いて行ったが。せいぜい負け犬の遠吠えという奴だろう」
「リーガン様のどこが負け犬なのでしょう。実に堂々としてらしたと思いますが」
不愉快さを隠しもせずに言うエスターに、王子ミシェルの後ろで付き従っていたフレッド・クルガー・クレイブンが小さくため息をついた。そのさらに後ろでは、ミシェルの従者をやっているアッシュ・ウィリアム・スーパーマーケットが、早々に勤めを放棄し、こっそりちょろまかしておいた料理をつまみ食いしている。
(あ、そのローストビーフおいしそう。私の分も残しておいて)
エスターが目くばせしたが、アッシュは一瞬目を合わせたものの、すぐに逸らした。気付かないふりをしたのだと、エスターだけでなく、フレッドも気付いた。
エスターはこっそり舌打ちした。こっちはクソみたいな茶番に付き合わされているのだ。おいしい物でも食べなきゃやってられないというのに。
(そんな綺麗なドレス着てるんだから、そこは耐えておけよ。あと少しでお役御免じゃねーか)
皿に盛ったローストビーフを、その最後の一枚を噛みしめつつ、アッシュは先ほどの茶番を思い出していた。王太子ミシェルが、公爵令嬢リーガンに一方的に婚約破棄をするあの茶番を。
馬鹿馬鹿しくてやってられないのは、アッシュとて同じだった。こっそり隣の二人を見やると、フレッドは諦めたようにため息をついていたし、ダミアンは眼鏡の奥の瞳に怒りを宿しつつも、何かを決意したように拳を握りしめていた。
その時アッシュは悟ったのだ。ああ、終わったのだと。
これで、フレッドやダミアンがお目付け役として王子の尻拭いをすることはない。リーガン嬢が、どちらかというと内向的なあの人が、無理に王宮に出入りして王妃様直々に教育を受けることもない。エスターが、これ以上煩わしい思いをすることもない。
今日のことはすぐに国王の耳に入るだろうし、そもそも誤魔化せるものではない。これだけの人数の前でああも派手に、醜悪に、婚約破棄を突きつけたのだ。今更なかったことにはできない。
「エスター。君は本当に優しいな。あのような心の冷たい女にもそうやって好意的な目を向けてやるとは。そしてこの僕にもはっきりと自分の意見を言える強さ。みんな、僕の地位を恐れてなかなか本当のことを言わない。君だけだ、こうやって僕を一人の人間として扱ってくれるのは」
再三、彼に苦言を呈していたフレッドの肩が、がっくりと下がった。ダミアンがこの場にいたら、さすがに怒っただろうなと、アッシュはよそってきたスモークサーモンを噛みしめつつ思った。エスターの視線が痛いので、顔はフレッドの方へ向けておく。
結局、この王子様は、自分にとって都合のいい言葉しか聞かないし、そもそも理解しようとしないのだろう。
まあ、フレッドも最初の方は酷かった。王太子の護衛だと張り切りすぎるあまり、相手は王家の人間だと妄信するあまり、王子の心がエスターに移った瞬間、リーガンが彼女を害するのではと邪推したことがあったのだ。しつこく確認した後、キレたエスターに室内履きで頭をはたかれ、正気に戻ったようだが。
あの時は肝を冷やした。曲がりなりにも相手は伯爵家の嫡男様なのだ。お父上は騎士団長を務めておられる、将来出世間違いなしのエリート様なのだ。山猿も同然の自分達とは違う。彼の性格がひん曲がっていたら、とんでもないことになったかもしれない。
しかし、根が善人なのか、フレッドは己の所業を反省し、俯瞰するようになった。それでようやく彼は認めた。いや、恐らくは認めたくなくて、自分を必死に騙していただけだったのだろうが。自分が仕える主が、救いようもないアホなのだということを、ようやく認めたのだ。
その後はずっとダミアンと一緒に王太子を諫めたり、エスターが迷惑に思っていることを遠回しに伝えてみたりしたのだが、結果はこの通りだ。
「まあまあフレディ様。こうなったもんはしょうがないっすよ。それよりフレディ様も食べましょう」
落ち込むフレッドに、アッシュはさきほどちゃっかりせしめておいたストロベリーパイを差し出した。フレッドは甘党なのだ。どうせ王子はエスターに自分語りを披露するのに夢中でこちらを見やしない。エスターはこちらを見ている。というよりも、睨みつけている。彼女もまた、甘党だった。
「それよりダミアン様はうまいことやったんですかねえ」
「知らん。というか、やっぱりダミアンはそういうことなのか」
ストロベリーパイに齧りつきながら、フレッドが尋ねる。甘酸っぱい芳香を放つストロベリーパイは、この学園のシェフの自信作だった。
アッシュは、あの美しいダークブロンドの髪をなびかせて、颯爽と歩く公爵令嬢の姿を思い出していた。アッシュは彼女を割と好意的に見ている。異性として見るほど近くにはいなかったが、それでも綺麗で感じのいい人だな、とは思っていた。あと、意外とエスターと気が合いそうだとも。
堅物で融通が利かないものの、身分が低い者にも、その柔和な態度を崩さない、根はお人好しなダミアンのことも、かなり気に入っていた。そのダミアンが王太子を放り出して彼女の後を追ったのだ。これは応援したくなるではないか。
「つか、この状況ならそう考えるもんじゃないっすか」
「そういえばそうか。それにしてもうまいな、このストロベリーパイ」
二個目のパイを頬張っていたフレッドの近くで、とある男子生徒が膝をついた。
「何だ?急に」
「ギルバード!」
彼の近くにいた少女が、すぐさま駆け寄る。
食当たりか?吐いたら治るぞなどと悠長なことを考えていたアッシュだったが、その瞬間、ギルバードと呼ばれた生徒の体から、彼の胸部から、突如として何かが飛び出した。
「きゃあああああ!」
血と、恐らくは肉片をたっぷり浴びた少女が甲高い悲鳴を上げた。あれは確か、キャリエッタ・ブラックだ。彼女のピンクのドレスが、見るも無残な赤に染められていた。その鮮やかな赤は、ちょうど、今食べているストロベリーパイの中身によく似ていた。
弾かれたように会場の至る所から悲鳴が上がった。
「な、何だ!」
その時アッシュは見たのだ。かつてギルバートだった少年の体から、何か黒い、蛇のような奇怪な生物が飛び出たことを。その蛇に、禍々しい印が刻まれていたのを。
「もうストロベリーパイは食べられない……」
自分でも後からなぜと何度も自問することになるのだが、その時、とんでもない状況というのに、最初の感想はそんな、のんびりとしたものだった。