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(あーめんどくさ)
あくびを噛み殺しながら、エスター・ファーマンは目の前の茶番劇から目を逸らした。
隣にいるのは、この国の王太子とかいう男。エスターは、この男が大嫌いだった。
「おい!聞いているのか!」
男の荒げた声に、再びエスターは顔を上げた。
(そんな大声出さなくてもそりゃ聞こえてるでしょうよ。まあ、妙にぼうっとしてたみたいだけど)
男の前にいるのは、リーガン・テリーザ・フリードキン。このボンクラ王子の元婚約者である。
「エスター、リーガンには何もされてはいないかい?例えば、嫌味を言われるとか、足を引っかけて転ばされたりとか、大事なものを壊されたりとか」
「何もされておりませんわ」
それより静かにしてくださいませ。
そう言ってやりたいのをぐっと抑え、エスターは手元の『ミッドナイト・ミート・トレイン』を閉じた。どうせ、しばらくぎゃあぎゃあ騒いで読書をさせてはもらえないだろう。いいところだったのに。
それにしても、ここがどこだか、この馬鹿王子はわかっているのだろうか。図書館だ。おまけに、こいつらは揃いも揃って、なぜ皆同じようなことを考えるのだろう。
マルコス学園の図書館。その蔵書量は国内三位だ。そのこともあって、この学園を選んだと言うのに、その貴重な読書の時間を、このぼんくらはいともたやすく奪ってゆく。
(本当に勘弁してほしい)
自分に一目惚れしたとか抜かすこの馬鹿は、婚約者がいる身というにも関わらず、四六時中、のべつまくなしエスターに関わっては、読書の時間を削ってゆく。
断ろうにも、相手はこの国の王太子。遠回しに、やんわりと諫めるくらいしか男爵家出身のエスターには許されない。それを、自分に都合のいいように解釈して、ぐいぐい押してくるのがこの王子様だ。
エスターの対応や、心底うんざりした表情、できるだけ王子を避けようとする態度から、校内のほとんどの生徒はエスターが王太子を誘惑したわけではないと知っている。あの、王太子の婚約者リーガンなど、一度こっそり謝罪に来たくらいだ。
公爵令嬢である彼女が男爵令嬢に頭を下げるなど、本来ありえない。ましてや、この件に関してリーガンには何の咎もないどころか、彼女だってある意味被害者だ。
しかし、それがきっかけで彼女とエスターは割と親しく話す仲になったのだから、何が起こるかわからないものだ。
リーガンは気さくで、傲慢なところが少しもなく、それでいて、いたって普通の少女だった。彼女は彼女で、あの婚約者にはうんざりしていたらしく、彼の心変わりをむしろ歓迎してはいたが、エスターには同情していた。
「本当にねえ。せめて、彼の見てくれと地位に目が眩んだ、したたかな令嬢とかだったら、どれだけよかったか」
ある日、学食で一緒にお茶を飲みながら、彼女がそうこぼした。
「ああ、こう、守ってあげたくなるようなか弱い、小動物みたいな風を装って、それでいて相手の令嬢を陥れたりするような?」
「そうそう。それくらい強かったら、私も喜んで身を引くのだけれど」
「あの馬鹿なら一発で騙されますね」
「まあ、エスターさんったら。馬鹿なんて」
エスターの発言を咎めながらも、リーガンはコロコロと鈴が鳴るような声で笑った。そうやって、二人で幾度か親しくしていると、何を勘違いしたのかこの王子様とその取り巻きは、エスターがリーガンに嫌がらせされているのではと勘ぐってきた。
最初は王子の護衛も務めているフレッドとかいう、脳味噌も筋肉でできているんじゃないだろうかという騎士見習いだった。
「エスター嬢、この前はリーガン様に何やら呼び出されたのだとか」
「呼び出されたと言うより、二人でお茶を頂いただけですわ」
図書館で『恐怖の探求』を読んでいた彼女は、読書を邪魔され内心大いに憤慨した。シェリルがどうなったか、凄く気になっているのに。
「それで、その、な、何かされなかったか?」
「いえ、何も」
スティーブの靴は落ちてしまうのだろうか。それが気になって、返事がついおざなりになってしまった。
「例えば、嫌味を言われたり」
「何も言われておりませんわ」
「例えば、足を引っかけて転ばされたり」
「されておりませんわ」
そんなことより、スティーブがどうなってしまうのか気になって仕方がない。
「例えば、何か物を隠されたり」
「されておりませんわ」
いいかげんイライラしてきた。物語は佳境を迎えているというのに、何だってこんなありもしないことをいちいち確認されているのか。
「ほ、本当に何もされていないのか?エスター嬢。本当は何かされているんじゃないのか。言い辛いなら殿下にだって……」
「うるさい!お前もクウェードみたいな結末にしてやろうか!?」
パコーンといい音が図書館に響き渡った。
今思えば、あれこそがフレッドが変わる、いいきっかけだったのだ。殿下もあんな風に対応すれば、血迷ってこんなことをしないで済んだのだろうか。しかし、さすがに王太子の頭を室内履きで叩くわけにはいかないか。
そうやって回想に浸るエスターの横では、ミシェルが嬉々としてリーガンに婚約破棄を突きつけている。それにしたって、なんだってこうも正義は我にありとでも言わんばかりの態度なのだろう、この男は。
要は、他に好きな女ができたから婚約破棄をすると宣言しているというのに。
(ただの尻軽な最低男じゃない)
本来なら、リーガンの粗を探して、そこを突きつつ、リーガンが悪い風に話を持って行きたかったのだろうが、エスターがそれを全否定したのでそれは適わない。
何かしらでっち上げようとした形跡はあるものの、護衛であるフレッドも、側近であるダミアンも必死で止めた上に協力を拒んだため、結果として「真実の愛の前には、何物にも勝るものなし」と、鼻で笑ってしまいたくなるような理屈を、恥ずかしげもなく衆人環視の下言いのけたのだ。
真実の愛とやらはどうでもいいけど、自分を巻き込まないでほしい。
しかし悲しいかなエスターは男爵令嬢であり、この場で王太子に意見できる身分ではない。ましてや、自分が真実を口にすれば、どうあっても王太子が恥をかく。こいつが赤っ恥をかくのは構わないが、実家にどんなとばっちりがくるかわかったもんじゃない。
せめてもの救いは、リーガンが前日に、ある程度の予想をつけていたこと。
彼女は時期王太子妃として、王妃様直々に王妃教育を受けている。そして、王家の監視がどうしても緩くなるこの学園生活において、王太子の監視役も担っているのだ。おそらく、あの宰相の息子であるダミアンもまたそうだろう。
リーガンは定期的に王家に王太子の様子を報告しているが、その中に、エスターのことも書かれているらしい。王太子が彼女に一目惚れして追いかけまわしていること、彼女はそれを非常に迷惑に思っていること、しかし、彼女の身分ではそれをきっぱり拒絶できないでいること。
それらの報告によって、この先馬鹿王子が廃嫡されたとしても、エスターの身に罰が下ることはないだろうとのことだった。当然と言えば当然だ。エスターは何一つ望んでいないし、何もしていないのだから。とはいえ、リーガンには頭が上がらない。
そのリーガンは、何やらぼうっとしていた。大方、ある程度予測していたとはいえ、己の婚約者のあまりの馬鹿っぷりに気が遠くなったのだろうが、それも一瞬のことだった。彼女はすぐに気を取り直し、公爵令嬢にふさわしい、毅然とした態度に戻った。このきりりとした姿に、エスターはこっそり憧れていた。中身は少しだけ頼りないごく普通の少女ではあるが、さすが生まれながらに身についた所作は気品がある。
男爵令嬢とは名ばかりで、貧乏貴族であるエスターの実家は、ほとんど庶民と変わらない。事実、友人も庶民が多いエスターは、子供の頃から街の子供たちと入り混じって遊んでいた。時折、言葉遣いが荒くなるのは、彼らの影響だ。
そのリーガンが退出してゆく。颯爽としたその姿は、気品があり、しかしどことなく強張っていた。
彼女の様子が心配だったが、ダミアンが急いで彼女を追ったので、彼に任せた方がいいとエスターは思った。
そして、すぐにそれどころじゃない事態に、彼女は陥るのだった。