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「リーガン・テリーザ・フリードキン。今日を持って、お前との婚約は破棄する。私は真に愛する女性とめぐりあえたのだ。お前のような、私の地位や権力しか見ていない女性とは違う、私を愛してくれる人だ」
そう告げられた瞬間、リーガンの心は酷く動揺した。
唐突に押し寄せてくる何かの存在に、立っていられないほどのめまいを覚えたのだ。
奔流のようにあふれてくる記憶、ある映像。これは自分ではない、自分の形が消えていく、足元がおぼつかない、奇妙で不快な感覚。
この時、唐突に彼女は気付いた。
これは、私じゃない。
ここは、私がいる場所じゃない。
「おい、聞いているのか!」
おのれの存在に揺らぐ彼女の意識を繋ぎとめたのは、皮肉なことに彼女に最初にショックを与えた、元婚約者だった。
(婚約者……)
そういえば、この男は婚約者だった。確かに、そうだ。
彼女は思い出す。
真新しい金貨のような輝く金髪に深く青い瞳。白磁のような肌を持つ端正な顔は、まさに王子様という表現がぴったりだ。実際彼は王子様だった。
この国の王太子ミシェル・マイヤーズは、彼女の婚約者だった男は、今まさに、その婚約を破棄しようとしていた。
衆人環視の中、一方的に。
その事実を、淡々と受け止めた後、リーガンは目の前の男の横にいる少女、エスター・ファーマンに視線を移した。白い肌に、清楚さと優しさを印象付ける柔らかい金髪。菫色の大きな瞳が、不安げに揺れている。どうやら、彼女が、このバカバカしい茶番の要因でもあるようだ。
ここにきてようやくリーガンは、自分の立つ状況を理解した。
(そうだ、私はリーガン・テリーザ・フリードキン。この国の公爵令嬢。そして彼は私の元婚約者。今日は学園の卒業パーティーで、私は学園中の生徒たちの前で、一方的に婚約破棄を突きつけられている)
なぜ、こうも状況を理解していなかったかというと、今この瞬間、膨大な情報に襲われ、混乱したからだ。
目の前にいる元婚約者が、最近自分に対してやたらとそっけなく接していたことは知っていた。その原因が、このエスターという少女であることも。
彼女はファーマン男爵の令嬢で、身分こそ低いがとびきりの美少女で、おまけに天真爛漫な、何とも魅力的な令嬢だった。
ミシェルが彼女に惹かれていることは知っていた。リーガンとしては、それはもう仕方がないことだと割り切っていた。もともと愛情のない政略結婚だ。こんなことは何も珍しいことではない。王太子は、リーガンを正妃とし、エスターを側妃として、それぞれ公務と私用、役割を持って扱うことにするのだろう。結婚前に決まってしまうのは何とも寂しいが、それは仕方がないことなのだと、リーガンは理解してもいた。
だが、どうやら王太子は自分の立場より、私情を優先したくなったらしい。
王太子は、身分も、王妃に足るべき教養も持たない、かろうじて貴族と名乗れるこの小娘を、正妃にしたくなったのだ。しかし、王家が決めた正式な婚約を簡単に破棄することはできない。だからこそ、多くの証人がいるこの場で、この婚約破棄劇を公開したわけだ。婚約破棄を既成事実にしてしまおうという腹である。これほどの人間が見てしまえば、後からなかったことにはできない。
(何とも短慮なこと。おまけに、今この場には学園の生徒たちとその従者、学園関係者たちしかいない)
彼らもまた、それなりに身分のある者は多いが、王家に連なる者はいない。つまり、王太子の行動を諫める者も、事前に止める者もいないわけだ。おそらく、国王の耳に入るのも数日後だろう。
(それにしたって、私への配慮は一切ないのね)
王太子に他に愛する女性ができた。だからこそ、心のない婚約は破棄したい。その心情はわかるが、元婚約者に対して、こんな攻撃をする必要があるのか。
最初にミシェルが述べた「地位と権力しか見ていない」にどこまでの根拠があるのかは知らないが、仮にそうだとして、それを責められる謂れがあるだろうか?
地位や権力をいかにスムーズに結び付けるか、政治的な思惑が絡み合ってなしえた「契約」である。リーガンは、それでもこの数年将来の伴侶をきちんと敬い、尊重し、自分の立場をきちんとわきまえていた。
正式な手続きをすることなく、隠しようもない好奇と嘲笑の中の一方的な婚約破棄をされる。そんな侮辱を受ける理由はどこにもなかった。
目の前には、彼曰く真に愛する女性。要するに、お前では愛するに足り得ないということだ。それを衆人環視の元叩き付けられた自分がどれほど傷つくかなど、目の前のお綺麗な男は欠片たりとも考慮しない。
まあ、こうなることはちょっと予測はしていた。何しろ、学園行事とはいえ、公式な場でありながら、彼がエスコートすることはなかったのだから。
ずっと黙りこくっていたリーガンにしびれを切らしたのか、ミシェルは再び「聞いているのか」と低く冷たい声を上げた。
「聞いてはおりません。聞く価値もありませんから」
反射的にそう返し、彼女は唖然とする目の前の男を睨みつけた。
「わたくし、それどころではございませんので」
なにしろ、リーガンの脳内には、急速に様々な情報が流れ込んできたのだ。一生懸命整理しているというのに、余計な声かけをして集中を削がないでほしい。
「なっ!」
「婚約破棄ですね、わかりましたわ。謹んでお受けしますわ。正式な手続きはめんど……いえ、殿下から陛下に直接お伝えくださいませ」
さっさとこの面倒な茶番は終えてしまおう。なにしろ、それどころじゃないのだから。
(そうよ、それどころじゃないわ)
さして愛してもいない男の真実の愛とやらの行方もどうでもいいことこの上ない。
リーガンは思い出した。かつて、自分がここではない世界の、日本という国で生きていたことを。
そして今いるこの世界は、かつて自分が日本でさんざんやりこんだゲーム「ROLE」の世界なのだ。
(前世っていうの?こういうの。その割には、以前の自分の名前も覚えていないのだけれど)
彼女が覚えていること。それは、どういう原理でそうなったのか知らないが、この世界がかつて日本と呼ばれた国で流行っていたゲームに出てくる世界と、世界観や登場人物が全く同じであるということ。自分はこのゲームを散々やりこんだこと。今現在、自分はそのゲームの登場キャラクターの一人であるということ。身分は公爵令嬢で、名前はリーガンであるということ。
そして最も大事なのは。
この世界は、乙女ゲームではなく、ホラーゲームであるということだ。
そして、ゲームはもうすでに始まっているはずだ。
遠くで、闇に蠢く者たちの産声が上がった。