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8.エインタート領

 畑が途切れた草地の上に、茨の境界線が伸びていた。

 人差し指の長さほどもある、鋭い棘を生やした暗緑色の蔦が、目の粗い金網の隙間にきつく絡んでいる。中には茶色く枯れているものもあったが、その攻撃的な形状は少しも朽ちていない。葉の姿はなく、薔薇に似た小さな花が、不気味に赤く、棘の隙間に点々と咲いていた。

 昼食後、屋敷から馬車を小一時間ほど走らせた丘の向こうに、ローレン領とエインタート領の物々しい境界線があった。

 馬車を降りたアニエスは、おそるおそる茨に近づく。柵の高さはアニエスの肩の辺りまでで、決して高くはないが、針千本を避けてよじ登ることは不可能だ。

「なにも人間の侵入を防ぐために設置してあるわけではないんですよ」

 アニエスは身を起こし、ラルスのほうを振り返る。

 ルーを屋敷に置いてきたため、彼と三人の従者だけが場にいる。ラルスは棘を避け、手前に突き出た花を一つ摘み取った。

「《魔除けの茨》と言って、この棘を魔物は嫌うそうです」

 赤い花をアニエスに差し出し、微笑みかける。アニエスは軽く右手を挙げ、穏便に拒否した。ついでに、さりげなく一歩距離をあける。

 屋敷を出る前、ルーがこっそり寄って来て、「公爵様には気をつけてくださいっ」となぜか鬼気迫る顔で警告してくれたおかげで、少々過敏になっていた。

「・・・つまり、魔物除けですか」

「非常に効果は高いですよ。五年ほど前にこの柵を設置してから、ローレン領では魔物が一匹も目撃されておりません」

 アニエスは、魔物についてかなり昔から興味を持っており、色々な本を読み学院でも学んできたが、この茨の情報は初めて耳にした。

(新しい研究成果だろうか)

 柵に沿って歩きつつ物思い、アニエスはラルスらと共に検問所の建物へ入る。

 戦時には物見台として使われていた石造りの塔だ。現在、そこは王城から派遣された駐在官がただ一人だけ詰める。

 公爵の従者が鋲の打たれた扉を叩くと、細身の中年男性が顔を出した。

「どーもー、お待ちしておりましたー」

 大分、間延びした調子で王女と公爵を出迎える。砂色のきつい癖毛を気休めに撫でつけ、アルノー・シビルと名乗った駐在官は、アニエスらを塔の中へ招いた。

 入ってすぐにテーブルと椅子があったが、アニエスはここでゆっくりお茶をするつもりはない。

「さっそく領地の案内を頼みたい」

 ラルスがシビルへ言った。

「日暮れ前には殿下を屋敷へお送りせねばならんのでな」

「そうですね、それがよろしいでしょう。では少々お待ちください。今、上にリンケ殿も控えておりましたので、呼んで参ります」

 小走りにシビルが奥へ消える。

 ややあって、彼は銀髪の女性を一人、連れて来た。

「私は魔物の研究をしているマリアナ・リンケと申します。このような格好で、殿下のお目にかかる無礼を何卒お許しください」

 旅装の白っぽいローブの端を軽くつまみ、アニエスに礼を取る。長い銀髪を頭の後ろでまとめ、端を肩に垂らしており、それがサテン生地のような光沢を放つ。丸い眼鏡の奥には菫色の瞳があった。

 アニエスは彼女が名乗り上げた時から、驚愕している。

「・・・魔物学者の、マリアナ・リンケ先生ですか?」

 危うく声が上ずりそうになった。アニエスの反応に、周囲はぽかんとしている。

「そうですが・・・」

「っ、お会いできて光栄です。先生の論文や著書はすべて拝読しております」

「なんと。それは恐悦至極にございます」

 相手も嬉しげに声を弾ませたが、アニエスのほうはもっと興奮していた。

 マリアナ・リンケは子爵家の娘で、国内に数少ない女性学者の一人である。十六で学院を卒業した直後から、実地調査に基づいた緻密な研究が高く評価されており、彼女は謎に包まれていた魔物という生き物を、体系的に分類した論文によって学位を得た。彼女の定めた指標が専門家の間で最もよく用いられ、それによって魔物とそうでない生き物との区別がなされている。

 最近はあまりその名を見なくなっていたものの、魔物の生態について記された解説図付きの彼女の著書は、アニエスの秘蔵コレクションの一つだ。

 つまるところ、大好きな本の作者と出会えた偶然に、深く感動していたのである。

(サイン、握手・・・いや、今は、さすがに)

 わずかに残った冷静さで、どうにか踏みとどまる。自制のため拳を硬く握り、腿の後ろへ付けた。

「リンケ先生は、魔物の調査にいらっしゃったのですか?」

 あくまで表面上は平静のまま、アニエスは会話を続ける。

「ええ。しばらく前からここでお世話になっております」

「殿下、あの茨の柵を考案したのが彼女なのですよ」

 ラルスが言い添え、アニエスはそれで合点がいった。あれはまだ発表されていない、リンケ最新の研究成果であったのだ。

「素晴らしいことです」

「いえいえそんな。まだ手探りで、わからないことばかりですよ」

 普段より幾分アニエスは饒舌になっているのだが、そうとは知らないリンケは、よくかけられる世辞の一つとして受け流した。

「私はこの土地の者ではございませんが、エインタートは何度も調査で歩いておりますし、多少は魔物を追い払う心得もございます。微力ながら殿下のお役に立てれば幸いに存じます」

「ぜひ、お願いいたします」

 他、シビルも案内役に就き、無人となる見張り塔には一時鍵をかけることとなった。「滅多に誰も来ませんから」とシビルは笑ってアニエスへ弁明していた。だからこそ、駐在官は彼一人であるのだろう。

 シビルとラルスの従者たちが馬に乗り、アニエス、リンケ、ラルスが馬車に乗り込む。正面にリンケが座り、アニエスは少々落ち着かなかったが、これから向かう先を思い出し、努めて心を鎮める。決して浮かれ気分で行ける場所でないことだけは、わかっていた。

 シビルが柄の長い鉤を金網に引っ掛け、馬上から器用に引く。そこを出入り口としているらしく、茨に切り込みを入れた箇所が、きぃ、と高い音を立てて開いた。

 その隙間を二頭立ての馬車がぎりぎり通り抜ける。シビルが先導し、馬車の左右と背後を従者たちが囲む陣形で、野原をしばらく進んで行った。


 どこまでも野原である。

 馬の膝まで届く草が道を隠し、時折、石を踏んで馬車が大きく揺れる。壁の取っ手を掴んでいなければ、車輪が跳ねた拍子に座席から落ちてしまう。

(あ・・・)

 遠く、草陰から鹿が飛び出した。

 車窓から外を覗いていたアニエスは、声を上げそうになった。角のある者とない者が、俊敏に彼方へ逃げ去る。

 ちょうどそこで馬車が停まり、シビルが扉を開けた。

「ここが一番近くの村だった場所です。お降りになりますか?」

 アニエスは頷き、ラルスとリンケの後に続いて外に出た。

(・・・村?)

 眉をひそめずにはいられない。そこは、それまでの野原の景色と何も変わらないのだ。

 有象無象の雑草が縦横に生え伸び、農地の痕跡も見当たらない。かろうじて、屋根の落ちた家屋が草の中にあるが、なんとか骨組みを残しているものは視界の内に二、三軒程度である。

 護衛は馬上で周囲を警戒したまま。シビルは剣で軽くアニエスらの周りの草を刈るか、あるいは踏み倒している。

 リンケが、前方を示した。

「北の森から、魔物はこの辺りまで活動範囲を広げております。あの廃墟の中には獣だけでなく、時に魔物が寝ていることもありますので、これ以上はお近づきになりませんように」

「ただでさえ、風が吹くだけで崩れるので危ないのですよ」

 草踏みながらシビルが付け足す。

「王都から作業員が派遣されて工事なども行われていたのですが、夜中のうちに魔物に機材を壊されたり、変な天候で事故が続発したりで、計画が頓挫してしまい、このありさまなのです」

 さすがに王宮も、エインタートをまるきり放置していたわけではなかった。予算を付けて幾度か復興を試みたものの、不運が重なり結局は金と労力を浪費しただけに終わってしまったのだ。

 辺境地であるエインタートは、北の隣国アルズスに接する防衛の最前線でもある。しかし、間に険しい連峰が伸び、しかも麓に魔物の棲む森があるため、実際のところ、そこから攻め入られることは考えにくい。さらに隣国との関係はニコラス王の二代前から極めて良好であるため、エインタートの修復は国家としてあまり緊急性の高い案件ではない。

 よって長く、放置されてしまっていた。

(人がいなくなると、土地はこんなふうになってしまうの?)

 アニエスは、ローレン領や、ここに来るまで見てきた土地の、畑の広がる長閑な風景が、いかに人工的であったかを実感し、愕然とした。

 エインタートでは人間の営みが雑草に呑まれ、朽ち、跡形もなくなろうとしている。そのことに恐怖すら覚える。

 アニエスは母の育った場所を知りたかった。そのために来た。しかし、この土地の景色はもう、過去とは別物である。

(これでは、帰る場所なんか・・・)

 立ち竦むアニエスの心など意に介さず、草たちは楽しげに頭を揺らす。白い蝶が間を縫うように飛び、小鳥がどこかで仲間どうし囀っていた。

 穏やかで無慈悲な、自然の姿がそこにある。

「殿下、領主館もご覧になりますか?」

 アニエスへ、シビルが伺った。

「本館のほうは作業員の休憩所などにも使われていたので、少しは整備されております。他の村を回っても、ここと同じものしかご覧いただけないので、それよりはと思いますが、いかがでしょう」

 そう提案されて、特に反対したいこともなかったため、アニエスは再び馬車に乗り込んだ。

 先程の道に戻り、少し走ったところで、柵に囲われた館が見えてくる。ここでも鉄柵に魔除けの茨が絡んでおり、シビルが金鉤を引っ掛け門を開ける。

(あれ・・・?)

 と、アニエスが思ったのは、館の周りと門を通った後の、本館へ通じる道の脇に広がる庭の草が、きれいに刈られていたためである。庭にはきちんと配置を考え栽培されていると思しき、花々の姿もある。

 さらに意外なことに、人の姿まであった。

「あ。もー、また!」

 シビルが突然、馬首を返し、門の横の花壇をいじっていた人影へ駆け寄る。つられて馬車が停まり、アニエスらも降りた。

 人影の正体は老人だった。よく日に焼けている輪郭に沿い、白い髭がちらちら生えている。腰は曲がっておらず、肉付きもよく、それなりに背も高いため、かなり頑強に見える。

 それと比べてしまえば細身の駐在官が、馬を降りて老人を叱っていた。

「だからぁ、勝手に入っちゃいけないんですよ。何度言えばわかってくれるんですか?」

 老人は無言である。そっぽを向いた時、奥のアニエスと目が合った。途端に、顔面に驚きが広がる。

「今日はさすがに見逃せませんからね。調書取って罰金――?」

 シビルをすり抜け、アニエスに向かってずんずん歩いてゆく。護衛が間に入ったため途中で止まり、頭を垂れた。

 そしてそのまま動かなくなってしまったため、アニエスが会話を切り出すしかなかった。

「・・・あなたは?」

「・・・グスタ・ラウ」

 本人からは最小限の答えしか返って来ず、後ろから追いついたシビルが付け足す。

「伯爵家の庭師だった人ですよ。しょっちゅう不法侵入しては、館の手入れなどをしているようです。何度注意しても聞きやしないんですよ。この人も、この人の孫も」

「しかし、クルツ君には私も大いに助けられていますよ」

 フォローのように、リンケが言い添えた。

「なかなか森の中まで案内できる人は少ないですからね。こうして整えられた拠点があるのも調査をする身としては助かります」

「それはそうですが、こちらで依頼していない時にまで入って来られると、警備担当としては困ります。そもそも毎回どこから入り込んでいるのやら・・・」

 どうやら普段は他にも不法侵入者があるようだが、少なくとも今、この場にいるのは老人のみである。手入れの行き届いた館周りを見る限り、頻繁に訪れていることは察せられた。

 同じ伯爵家に仕えていたのであれば、メイドだったメラー一家とも面識はあるはずだ。エインタートについてルーに尋ねた時、妙に慌て出したのはこの常習犯を知っていたためだろう。

 挨拶の済んだグスタは顔を上げ、暗い瞳でアニエスを見据えている。その無言に耐えきれず、アニエスは質問を続けることにした。

「なぜ、今も館の手入れをされているのですか?」

 伯爵家は没落した。ルドガー伯爵もアネット令嬢も世を去っているのだ。法を侵してまで行う、無償の奉仕は一体誰のためのものであるのか。

「・・・怠れば、朽ちてしまいます。それだけは許せんのです」

 重い口を開き、次はグスタのほうがアニエスに問うた。

「貴女様はなぜ、ここへいらしたのですか」

 抑揚がないせいか、それはまるで責めているようにも聞こえる。

(私は、なぜ・・・)

 喉元に刃を突きつけるかのような問いだ。

 王都で何も知らずにのうのうと生き、今更やって来て、歓迎されても領主になる気はない。エインタートの現状を実感すればするほど、興味本位で来てしまったことへの罪悪感が募る。

 アニエスは、彼に何も言えない。

「・・・お帰りください」

 その言葉はいくらか優し気だった。

 グスタは花壇に戻っていく。周囲はうつむくアニエスへ、声をかけることをためらった。


 ――しかし、うち一人は至ってなんでもなく告げる。

「殿下、これはそう深刻に悩まれずとも良い話ですよ」

 ラルスである。アニエスは顔を上げ、そちらを見た。

「エインタートの民を救うだけならば、難しいことはございません。例えば、殿下が王陛下から頂いた復興資金、あれを領民たちに配ってしまえばいい。それなりにまとまった額を一人一人が得るでしょう。他所へ移るなり、我が領で土地を持つなり、選択肢は今よりも広がります。どう使って豊かな生活を送るかは彼ら次第です」

 突然の提案に、アニエスは面食らった。

「・・・ですが、それでは、彼らはエインタートへ帰れません」

「元より無理です。この土地は呪われている」

 ぎょっとするアニエスに構わず、ラルスは遠慮なく話し続ける。

「戦もなしに領主が二度も没落し、作業員まで次々と妙な事故に遭う、などという噂もあった程ですよ。魔物の影響なのかはわかりませんが」

「お待ちください公爵様。魔物は魔力を持ちますが、それはあくまで物理的な力です。呪いなどという迷信とは無縁です」

 本題ではない部分に勢いよくリンケが噛みついてきたため、ラルスは右手で空を払い、それを止めた。

「失敬。専門家の前で憶測を言うものではありませんね。まあ呪い云々うんぬんはともかく、いずれにせよ殿下は領主になられるおつもりはないのでしょう? ですが、このまま領民たちを放り捨てることにもお心を痛めていらっしゃる。そうですね?」

「・・・」

 アニエスはまたうつむいた。

 領主になるつもりがない、というよりは、なれない。なったとしても、何も成せる気がしない。

 そうであるならば、確かに金を配るのが最も良い案であるように思える。しかし、本当にそれで良いのか。

「金を配るだけでは責任を果たせぬとお考えであれば、もう一つ提案がございます」

 アニエスの表情をよく読み、ラルスは人差し指を立ててみせた。

「私の館にお越しください。領民たちの身の振りを共に世話してゆこうではありませんか」

「・・・は?」

 思わず、アニエスは声に出していた。

(公爵の館・・・? 共に・・・? 私が公爵家に仕えるということ?)

 咄嗟にそう解釈したが、あまりに話がおかしい。

「つまりは、私と結婚いたしませんか?」

 改めて、非常にわかりやすくラルスが言い直した。

 それまでの苦悩を一挙に吹き飛ばされ、アニエスはただただ愕然として、公爵の笑顔を凝視する。

(この状況で、この人・・・)

 出会った翌日に、廃墟で、しかも従者やリンケたちの面前である。冗談ですら言うにふさわしい場ではない。

 ラルスの意図をはかりかね、困惑だけが頭中に満ちる。

「なぜ・・・?」

 口を突いて出るのは疑問ばかりだ。

「なぜ? これほど高貴で愛らしいお方をお迎えできるかもしれぬ機会を、なぜ逃す手がございましょう」

 微笑みは爽やかに、しかしその心のうちは、潔白ではなさそうだ。

 アニエスも、まったくこの手の経験がないわけではない。

 どんなに地味でアナグマのようであろうと、アニエスは王女である。カイザーが即位すればその呼称は消えるが、王妹の持つ一級のコネクションは変わらず人を惹きつける。

 貴族の中で二番目に高い位にあるラルスと、家柄の釣り合う娘はさして多くない。愛人は別として、限られた結婚相手の選択肢を吟味すれば、次期王の妹は第一希望となり得る。

 加えて、アニエスの気弱な性格も、男にとっては都合が良い。

 驚きが通り過ぎた後、アニエスは脱力した。その様子にまたラルスが笑う。

「一つの方策として、真剣にお考えいただければ幸いです。私は本気ですので」

(確かに、本気ではあるのだろうけど)

 良策であると同時に、愚策であると感じられる。少なくとも、父が生きていればさぞ激怒したことだろう。


(・・・結婚まではしなくていいとしても)

 帰りの馬車に揺られながら、アニエスは思案する。グスタもあれから回収され、今は御者の横に座らされていた。

(実際問題、私にできるのは資金援助くらいなんだろうな)

 父の遺産はエインタートを相続するしないにかかわらず、すでにアニエスの手元に入っている。莫大な金の使い道など他にない。それを配ることは何一つ惜しくないのだ。

(私は構わない・・・けれど)

 馬車は一旦見張り塔で停まり、リンケとシビル、グスタも取り調べのためここで離脱する。リンケは見張り塔の一室を仕事場として借用しており、日没まで作業をしていくようだ。

 アニエスはもう館へ戻る予定であったが、一旦馬車を降り、改めて茨の向こう側を見つめていた。

 誰も急かすことがなかったため、しばらくそうしていたが、そのうち無性に、もう一度先程の景色を、今度は一人で見てみたくなった。

 迷惑をかけるとはわかっていたが、それが心を決めるために必要な行為に思えた。

「・・・すみません。ちょっとだけ、行ってきます」

 ラルスらが反応する前に、アニエスは無音で紋章術を発動させる。

 取り巻く空気が変容し、体が上昇を始める。

 見張り塔の先と同じ高度まで上がると、静かに宙を滑って移動した。上空からは、草地に点々と残る廃墟や、時折獣の影が見える。中には魔物もいたかもしれない。

 間もなく、アニエスは領主館の屋根に降り立った。

 今朝よりぬるい風が頬の横を過ぎ、黒髪を背後へ流す。ローレン領より少しばかり風が強い。

 そこからも遠くまで領地が見渡せる。北に霞む森が魔王の棲みか、その背後の山が、隣国との境界となるパルヴァラ連峰。西の領線では豊かなトナディア湾にわずかばかり接している。そこにかつては漁港もあった。

 領地面積はごく小さく、最盛期でも八十五村程度しかない。国全体としては微々たる数であるが、それだけの数の村が消えてしまったことは、アニエスにはとても大きなことに思えた。


(・・・《己が誰か》という問いの答えが、《己がどこから来たのか》ということならば、故郷を失うということは、己を失うことに等しいんだろうか)

 屋根の上で、思案を続ける。

 命にかわりがないように、故郷もまた唯一無二である。新しい仕事や住処や食べ物が、必ずしもそのかわりとなれるわけではない。

(豊かに暮らしたいとは誰も言っていなかった・・・どんなに廃れてしまっていても、彼らの居場所はここで、ここに《自己》があるのならば、お金を渡されて簡単に諦められるものでは、ない? どうだろう)

 思考は同じところをぐるぐる回り、結論が出ない。

 アニエスは少々疲れを感じて、息を吐いた。


(・・・たとえ私が何もしなくとも、いずれエインタートはカイザー兄様が復興してくださる)

 それは確実なことだ。兄はそういう人物である。

(けど、いつになるだろう)

 すでに二十五年、エインタートの民は彷徨っている。現在もまだ復興の目途は立っておらず、王城からは駐在官が一人派遣されているのみだ。

 ここからまた十年、二十年かかるのであれば、年老いた者たちは最期に故郷の地を踏むことすら許されずに、世を去るのかもしれない。

(私が何をしても、しなくても、変わらないのならば・・・少しでも、変わる可能性があるのならば・・・)

 すべては無意味に終わるかもしれない。結局、兄を頼ることになるかもしれない。不安は拭い切れず、躊躇ばかりしてしまう。しかし。

(ここは母様の、そして私の、故郷でもある・・・)

 今のアニエスは純粋に、見てみたいと思っていた。

 母や領民たちが愛した場所。

 自分が帰ることのできる場所の、在りし日の姿を。



◆◇



 翌日、アニエスはローレン領にある祖父と母の墓標を訪れた。

 今度は、急きょ仕事が入ってしまったラルスのかわりに、ルーに付き添ってもらい、屋敷の庭からもらった白い夏の花を、台形の石に供える。

 祖父と母の墓標は隣どうしで、心地よい風の吹く丘の上には他にもいくつか、エインタートの領民たちの墓が二人を慕うように囲んでいる。

 そこでアニエスは長い祈りを済ませると、その足で昼前にルーたちの村へ向かった。

 ちょうど、長屋の前に集って休憩しているディノたちの姿があり、今日はララも外のベンチで日に当たっていた。グスタの姿はない。

 アニエスは赤紫色のソースがかけられたケーキを一旦断り、彼らの間に腰降ろす。

 そして怪訝そうな彼らに、まだだいぶ躊躇しながら、告げた。

 それは、昨日ラルスに提案された資金を皆に配るという話と、領主館の屋根の上で悩んだもう一つの提案のこと。

「もし、私が領主になると言ったら、皆さんは力を貸してくださいますか?」

 お喋りは完全に止み、それぞれがアニエスを見つめていた。

「私にはなんの経験もなく、おそらく母様のような力もありません。私一人では何もできないのです。・・・ただ、せっかく力をお借りしても、無意味な結果に終わってしまうかもしれません。しかし、その結果に私が困るわけではありません。ですから、当事者の皆さんに決めていただきたいのです」

 放った言葉は、もう戻せない。

 後悔はすでに大きく襲い来ているが、それでもアニエスは、こうすることが最も己で納得できた。

 

「豊かに暮らすための資金を得ることを望みますか? それとも、エインタートを自らの手で復興することを望みますか?」


 彼らの回答は、休憩時間のうちに得られた。

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