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7.領民の今昔

 アニエスの手元に、古い手紙がある。

 薄桃色、淡い紫、若草の色、麦の金色、様々な優しい色に染められた封筒の束が、小箱に隙間なく詰められていた。花の形に透かし彫りされたものもあり、外面を眺めているだけでも目に楽しい。

 箱を膝の上に置き、一枚ずつ、長屋の前のベンチで開いてゆく。封はすでに切られている。

 最も古いものは十九年前の日付から始まり、三年間続いていた。

 いずれも父の手で書かれたものである。いつも書きたいことで溢れているらしい、父の字は線が細く、小さい。それで紙のはじめから終わりまでびっしり綴るものだから、読むほうには迷惑だ。

(何枚かに分ければいいのに)

 アニエスはなんだかおかしかった。

 ニコラス・スヴァニルから、アネット・シェレンベルクへ。宛名と差出人名の後ろに称号は付いていない。

 はじめのほうは、読むも恥ずかしいばかりの甘い愛の告白が連なり、必ず王城へ誘う文言で締めくくられていた。それも半月と間を置かず届けられていたのだから、熱の入れようが並ではない。

(グレーテ姉様はもう生まれていたはず・・・子供が十五人もいた人の手紙とは思えないな)

 呆れもしたが、これだけの情熱を持てることに感心もした。

 しかし翌年から、手紙の内容は様変わりする。

 愛の言葉は欠かさないが、話題の中心は子供――アニエスの名が、頻繁に登場するようになる。

 初めて喋った言葉、初めて歩いた日時まで事細かく、食べたもの、興味を示した事物、お気に入りのおもちゃ、遊び、服など、新種の動物の観察記録だろうかと思える程の情報量が、便せん五枚に渡って書き連ねられており、それらもまた半月ごとに送られていた。

 そして時折、便せんと共に、水彩画が入っていた。毛先の跳ねた柔らかそうな黒髪に、ぼやっとした灰色の瞳を持つ少女の絵だ。産着にくるまれている姿、掴まり立ちを始めた姿、クリーム色のドレスにめかしこんでいる姿、どれも瑞々しい色彩に溢れていた。

 父の絵だ。ほとんどはアニエス一人を描いたものだったが、一枚だけ、二人の絵がある。

 赤ん坊と、それを抱いている女性。女性は長い黒髪に、灰色の瞳。今のアニエスによく似ていたが、眼鏡をかけていない。愛おしげに、腕の中の子を見つめている。二人を花と光が包んでいる絵の世界は、限りのない祝福で満たされていた。


『いつかの未来に』


 絵の右端に、叶わなかった祈りが綴られている。

(この人が私の父でなかったら、一体誰を父と呼べる?)

 どんな証拠も、これらの手紙に勝るものはない。

 これまで費やしてもらった時間を、注がれてきた愛情を、思い返せば疑念を抱く余地もなかったのだ。

 ニコラス・スヴァニルは確かにアニエスの父であり、アネット・シェレンベルクが母だった。

 そして二人が出会った翌年に、ローレン領の片隅にあるこの避難所で、アニエスは生まれたのだ。



◆◇



「殿下、他の者が作業から戻って参るようです」

 不意に影が差す。手紙から顔を上げると、ラルスが立っていた。

 他の長屋の住人は皆、畑仕事に出ており、アニエスはララが後生大事に保管していた母宛ての手紙を読みながら、彼らが休憩に戻ってくるまで待っていた。呼びつけることはしたくなかったのである。

 ラルスのほうは、アニエスがララに長い昔話を聞いている間も、その後に手紙を読み始めてからも傍で適当に待っていた。アニエスとしては彼に先に帰るなり他の仕事へ行くなりしてもらっていても良かったのだが、やはりそういうわけにはいかないらしい。

「私はしばらく他所を見回りしておりますので、ごゆっくりお話しください。護衛の者は物陰に置いて参ります」

「は・・・」

 急に場を離れる宣言をされたことにも、何か含みを持たせたような言い回しに対しても、アニエスは怪訝な顔をしてしまった。

 一方でラルスの笑顔は特段変わりない。

「いえ、なに、私がおりますと彼らも話しにくいことがあるでしょう。今後のためにも、様々なお話をお聞きください。それでは後ほど」

 護衛が乗って来た馬に跨り、一人で行ってしまった。

(・・・あの方も、なかなか大変なんだろうな)

 手紙を箱の中にしまっていると、間もなく領民たちが汗を拭いながらやって来た。

 すかさずルーが駆け出し、アニエスが長屋の前で待っていることを伝えたらしい。彼らは目の色を変え、猛然と走り寄る。その場から動く間もなく、アニエスは取り囲まれた。


「――お帰りなさいませ!」


 歓迎の言葉は、汗の匂いと暑苦しさも伴っていた。

 アニエスを知る、年配の者は涙さえ浮かべながら口々に絶え間なく何かを語り出し、若者はその後ろでそわそわしている。手を握ってくる者もあり、アニエスはどうして良いかわからなかった。

 ただ一つ、すぐにわかったのは、母がとても彼らに愛されていたということ。

(・・・だからこそ、母様はここを離れられなかったんだろう)

 爪が黒く、マメの多い、固いこの手たちを、放すことができなかった。領地は国に返還されてしまったが、それでも再興を目指し、アネットは領民たちと生活を共にしながら奔走していた。

 その中で、アニエスを育てることはできなかったのである。

 またその頃、この地方で熱病が流行っていた。今でも原因は判然としておらず、アニエスの祖父もそれによって亡くなり、アネットもまた同じ病に倒れた。まだ二十七歳の時だった。

 それがアニエスに伝えられなかったのは、あまりにむごい話であったためか、あるいは、領主の血を引く者としての、責任を負わせないためか。

 アニエスは日に焼けた顔たちを見回した。

「皆さん、どうぞお休みください。その横で少し話を聞かせていただければと思います」

 そこで、急きょ通りに布を敷き、皆でアニエスを囲みながら、茶を飲むことになったのである。

「――いや本当、まるでお嬢様にまたお会いできたかのような心地ですよ」

 ベンチの傍に座り、先ほどから笑みの止まらぬ初老の男は、この長屋のまとめ役をしているディノといった。アニエスの位置からは、彼の日に焼けた頭頂部がよく見える。

「・・・そんなに私と母様は似ていますか?」

「似ていらしゃいますとも。あぁでも、お嬢様はお声がもっと高かったですかね」

「そうそう、お嬢様が笑うと畑まで聞こえたもんな」

 この話題に周囲の者も盛り上がる。

「思い切り怒鳴られるとなあ、頭の中がしばらくじんじんしてなあ」

「そりゃお前が酔って暴れた時の話だろ。自業自得さ」

「目覚ましにはお嬢様の声が一等効いたな。ついでに頬でも引っぱたかれりゃあ、次の日まで痛くて眠れなかった」

「そんなこともあったねえ! ああそれとほら、料理の腕がひどかったよねえ!」

「あぁ、何回やってもケーキが消し炭になってたな」

「挙句、竈をぶっ壊したりな」

「仕方ないでしょ。いくらその辺を走り回ろうが木登りしようが、あれで伯爵令嬢だったんだから、調理場に立たれたこともなかったのよ。当たり前」

「・・・」

 どうやらアネットは相当、彼らの中に馴染んで生活していたらしい。そして彼女は「少々活発」の範疇に収まる令嬢ではなかったらしい。

「好き勝手言っておりますがね、我々はお嬢様にも旦那様にも、心から感謝しておるんですよ」

 思わず閉口してしまっているアニエスに気づき、ディノがフォローを入れた。

「旦那様は家財を売り払って、借金してでも飢饉の時に俺らを食わせてくださいました。エインタートを出ることになった後はお嬢様が、旦那様のかわりに掛け合ってくださったおかげで、路頭に迷わずに済みました。伯爵家には感謝しかないのです。それだけは今生のうちに変わりません」

 強く言い切った、灰青の瞳をアニエスは無言でしばらく受け、やがてそっと尋ねた。

「今の生活は、どうですか?」

 男の目が伏せられる。思い出話で温まった空気が、静かに入れ替わってゆく。

「・・・正直、幸せとは言えません」

 膝に拳を当て、ディノはうつむき加減で話し出す。

「感謝はしておるのです。家があって、仕事があって、少なくとも飢えはしない。家族そろって生かしてもらってるのに、文句なんぞ言える立場じゃないのはわかっております。ですが・・・」

 ディノは、ちらと丘の畑を見やった。

「・・・いくら耕しても、あれらの畑は俺たちのものにはなりません。精魂込めて世話をしたって、小作人の分け前はささやかなもんです。新しく開墾できる土地なんぞ、このご時世に残っちゃいない。そもそも自分の土地を持とうと思ったらローレン領の戸籍を買わなきゃなりません。正式にローレンの民になれば、税金を納めなきゃならんようになる。そんな余裕はここにいる誰にもございません。・・・辛抱たまらず王都に移って商売を始めた者もおりますが、農民しかできない者がほとんどです。飢えはしませんが、我々は、貧しいままです」

 アニエスは、彼らの土にくすんだ服や、靴にそれぞれ目をやる。見るからに生地が傷み、袖の薄くなったところは爪でも裂けてしまいそうである。野良着にしても、もう少し丈夫な服はないものかと、何も知らなければ思ってしまう。

「・・・我らはローレンの民にはなれません。金の問題もありますが、何よりも、エインタートへ帰りたいのです。畑も、家も、先祖の墓も、何もかもがあそこにあります。自分たちの育った場所で、子を育ててゆきたいのです。あの地で実ったものを食べさせてやりたいのです」

 ディノは顔を上げ、切実に訴えた。

「アニエス様がエインタートを相続されるとお聞きしました。我々は、今度こそ自分の家に帰れるのでしょうか」

 それに対する答えをアニエスは用意していない。

 はじめにルーに向けられた期待の眼差しの意味が、よくわかった。

「・・・すみません」

 結局、謝ることしかできない。

「相続の話は、まだ決定事項ではありません。それを決断するには、私は・・・あまりにも、何も知らずに生きてきてしまいました」

 吐き出す言葉の一つ一つが心苦しい。向けられている期待を摘み取ってゆくのが実感できるためだ。

 領主にはなれないと明言しないことだけが、せめてもの慰めだった。

 落胆する者はあったが、誰も責める者はいなかった。彼らは不遇を誰のせいにしたいわけでも、ましてやたった十八歳の娘にすべてを負わせたいわけでもない。ただ、彼らの『お嬢様』の血を引くアニエスに、希望を見出してしまうことを止められなかった。だが現実は彼らの希望に沿わない。それを思い知っただけなのだ。

 休憩は一時間足らずで終わり、また彼らは自分たちのものではない畑へ戻ってゆく。

「しばらくご滞在されるのでしょう? 次はクムクムのケーキを焼いてお待ちしておりますね!」

 愛嬌のある農婦が明るく言い残していった。

 アニエスは立ち上がって彼らを見送り、ややあってから、残っているルーに尋ねた。

「・・・クムクムとは、なんですか?」

「へ? き、木の実のことです」

 ちょうどアニエスの横顔を見つめていたルーは、驚いた拍子に気をつけの姿勢になる。

「こう、地面を這って伸びたツタの節々に、赤紫色の小さな実をつけるんです。果肉が少ないかわりに種まで食べられます。甘酸っぱくておいしいんですよ。ローレンにはあんまり生えてないんですけど、エインタートにはいっぱいあったそうです」

「そうですか」

 最後が伝聞調なのは、彼女が実際に見て知ったことではないからだろう。

「・・・ルーさんは、エインタートに行ったことは」

「わたしはありませんっ!」

 予想外にレスポンスが強く、アニエスはたじろいだ。思わず声を張ってしまったルーも、バツが悪そうに言い直す。

「魔物がいて危ないですから、普通の人は入領の申請を出してもほとんど通らないんですよ」

「そう、ですか。そうですよね」

 たとえ領民と言えど、王領となった場所には許可なく立ち入れない。ルーもアニエスと同様、この避難所で生まれ、本来の故郷の地を一度も踏めずに生きてきたのだ。

(・・・エインタートはどんな場所だろう)

 王都では聞いたこともない木の実が群生する場所。二十数年経っても帰りたいと願う者がいる場所。

 母が生まれ、育った場所。

(領地を継ぐことはできない・・・できない、けれど)

 アニエスはまだ迷いながら、間もなく戻って来たラルスにおずおずと告げた。

「エインタートへ、行ってみたいのですが・・・」

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