59.綴る
針に通した糸へ、薄く蝋を塗る。
糸は麻よりも丈夫な亜麻を使う。蝋を塗るのは長い糸がもつれないようにするためだ。糸が長すぎると多少やりにくくなるが、かわりに途中で糸継ぎをする手間を省ける。
アニエスの前には、洗浄し乾燥まで終えた折り丁を、ページ番号どおりに重ね直した本文ブロックがある。これから折り丁の背を糸で縫い繋げるのである。
本文ブロックの置かれている台は、この作業のための特別なものだ。端のほうに溝があり、上から五本の鉤が吊るされている。この溝の下から麻紐を通し、鉤にかけ、もう一度溝から出した端を結び、輪を作る。
鉤と同じ数だけ作れたら、本文ブロックの背にあらかじめついていた五本の溝に、ちょうど紐が嵌まるように鉤の位置を動かす。これで本をかがる用意ができた。
アニエスは直角に曲げた刺繍針を使い、本の背の端から端へ、一折ずつかがっていく。先に設置した麻紐の輪とは途中で直角に交わり、それもともに縫い込む。この輪は後で表紙の皮を張ると、背に浮き出るバンドとなる。一折を端までかがったら、隣の折り丁に移り、また反対側の端までかがる。
単調でもあり、複雑でもある。かがり方が頭の中に入りきっていなかった修行時代、アニエスは何度も間違えてはやり直し、この作業に一日かかりきりとなっていた。
今は数時間程度、集中すれば仕上げられる。
(エインタートが開墾されたのは、五百年前)
人工灯に照らされる手元を注視しながらも、アニエスは途切れ途切れに思考を続けている。深夜、半壊した館の地下書庫に籠る彼女の供は、肩の上のリウだけだった。
(その百年後、スヴァニル王国の前身であるヴィシュト王国の軍人ラザファム・エインタートがこの地を征服した。ヴィシュトがスヴァニルに統合された後、子孫は辺境伯に叙された。それが二百年前)
アニエスは本をかがり終えると、次の作業へ移った。
折り丁の背を上に向け、専用の万力に挟み込む。本文ブロックが落ちない程度にネジを調節し、溶いた糊をその背に塗る。紋章術で風を吹かせ、乾かしたら一度万力から外し、背に丸みが出るよう木槌で軽く叩く。
また万力に挟み、背に糊を塗り直したら、今度は乾く前に補修用の薄い紙を貼り、これで背を固定した。
次に、本文ブロックの背の上下を保護する花ぎれを作る。先ほど鉤に吊るしたのと同じ麻紐を芯とし、それに糸を編み込みながら、折り丁に縫い付けていく。
ただ糸を芯にぐるぐる巻き付け、糊で貼るだけでも事足りはするが、折り丁に縫い付けたほうが強度は俄然高くなる。また、ここに美しい色の糸を使い、編み方などを凝って装飾的意味合いを足すこともできる。アニエスは本の修復の中でこの作業が特に好きだった。
様々な色に染められた亜麻糸の入ったケースから、少し悩み、クムクムの花のような赤紫色の糸をまず選んだ。糸は何種類でも編もうと思えば編み込めるが、今回は二色とし、色の相性の良さそうな銀色を二番目に取る。
背の糊が乾いてきたところで、花ぎれを付けやすい角度に本文ブロックを挟み直し、はじめの折り丁の折り目に赤紫と銀色の糸を針で通す。芯となる麻紐は二つ折りにして背の上にあてがい、二本の糸を芯が見えないよう隙間なく交互に編み込んでいく。できたら反対側の下も同じようにする。これで糸と針を使う作業は終了だ。
(エインタート家の直系が途絶えたのは五十年ほど前。その後、遠縁のルドガー・シェレンベルク、私の祖父が領地を継いだ)
続いて表紙となる板紙を本の表と裏、中身よりも一回り大きめに二枚分切り出す。
背から直角にはみ出している麻紐の先を櫛でばらし、本文ブロックにあてがった板紙の内側に糊で貼りつける。この上に紙を数枚重ねて貼り、やすりをかけて紐のふくらみをならす。
こうして板紙二枚で本文ブロックを挟む形に表紙を付けることができたら、数日間重しを置いてこのままにしておく。その後ですでに切り取ってある牛革を張るのだ。
ひとまず、作業はここで区切りとなる。
梯子を登り、地上へ戻ると割れた窓の外が白み始めていた。風が吹き込み、すかさず肩の上のリウが空に噛みつく。
アニエスの目にはもう何も見えなくなっていたが、あの嵐を起こした影の残滓がまだいくらか館周辺を漂っているようなのだ。あれからリウは起きている時間のほうが長くなり、魔物たちも昼夜問わず柵の外をうろついている。
去年はじめて館を訪れた時とほとんど同じ状況に戻っていた。
(それでも、これまでのすべてが無駄だったわけじゃない)
地下室を閉じ、アニエスはゆっくり立ち上がる。
一日中起きていてもあまり疲労を感じない。もっと自分は打ちひしがれるかと思ったが、領民たちが去る時でさえ不思議と動揺は小さかった。
今の心境は一冊の本を読み終えた直後にも似ている。
文中で著者が最も伝えたかったことの正体を思索するように、アニエスはこの一年の示唆に富んだ体験を最初から振り返っていた。
エントランスに差し込む朝日が、黒ずくめの領主の影を伸ばす。
アニエスはしばらく光を浴びて眠気を飛ばし、今度は壊れた執務室に代わる空き部屋で、手紙をいくつも書き上げた。
◆◇
昼に食堂に集まっている面々の前へ、アニエスはのっそり現れた。
現在、館に残っているのは初期からのメンバーであるルー、クルツ、ジーク、リンケと、レーヴェ、ユカリの六名。そして元血眼狼の十名だ。グスタも一日中荒れた庭を片付けており、まだ戻って来ない。
彼らの今の主な仕事は瓦礫の撤去と館の修復だ。だがアニエスだけはここ数日、一人で別の作業をしており、不意に現れた青白い顔の領主を家来たちは一瞬、亡霊と勘違いしかけた。
「大丈夫ですか?」
ジークが慌てて骨付き肉を置き、主のために椅子を引く。
「クマひどいっすね」
「・・・気にしないでください」
遠慮なく指摘してくるクルツに、アニエスは無気力に返した。かわりにルーが少年の頭を叩く。
「地下で調べ物をされているとのことでしたが、何かお手伝いできることはございませんか」
レーヴェが気を使って申し出た。
アニエスは従士の勧める椅子にも座らなかったが、その言葉にだけは頷いた。
「はい。皆さんにご協力いただきたいことがあります。ただ、そのためにはこれから私の言うことを信じていただかねば、ならないのですが・・・」
どうしても口ごもってしまうのは、まだ己の中でもはっきりしていないことが多いためだ。
前置きを入れてから、アニエスは語り始めた。
「先日、魔王と話をしました。どうやら、これまでエインタートで起きていた数々の災害は、多くがこの土地に宿る精霊らしきものの仕業だったようです」
「精霊・・・?」
ほとんどの者がぽかんと口を開ける。その中ではリンケだけが興味を示し、フォークを置いて身を乗り出していた。
「精霊記という、百年前に異界から来た人物が書き残した本には、この世界には私たちが信仰している八大精霊の他に、多くの種類の精霊が存在していると記述されています。その土地土地にも固有の精霊が在るのだそうです。それを記した人物は、精霊を見ることができました。魔王も同様です。彼女は精霊を通じて人の言葉を覚えたと言っていました」
それからアニエスは少し迷ったが、嵐の時に見たものについても話しておくことにした。
「・・・私もこの間の嵐の中で、魔王に血を飲まされ、精霊らしきものを見ました」
瞬時にリンケが立ち上がる。
「魔力を取り込んだ影響で!?」
「それは、わかりませんが。今はもう見えません」
「なぜその時におっしゃってくださらないのです! 今すぐ御身の血液を調べさせてください!」
「いえ、あの」
リンケがアニエスに詰め寄ろうとしたところ、すかさずレーヴェが足を引っ掛け転ばせた。「ふぐぅっ!?」と倒れたその背を踏み付け、無表情を主へ向ける。
「続きをどうぞ」
「・・・はい」
アニエスも今は話を進めることを優先とした。
「私の見た精霊らしきものは、この土地を自分たちのものだと思い、領主や領民たちを亡き者にする、あるいは追い出すことを目的としているようです。それらは正確には、純粋な精霊ではないそうです。魔物たちにとっては魔力を作り出すための食糧であり、魔王は人間と精霊が混ざったものだと言っていました。が、その意味が私はまだ十分に理解できていません」
「人間と精霊が混ざる? て、どういう状態です?」
アニエスと同じように紋章術を身に描いているセリムやリーンといった者たちも、一様に首を傾げていた。彼らは精霊の力を借りて使うことができるにしても、それらと同化することなどあり得ない。互いに存在の仕方が異なるのだ。
「詳細については、王都で紋章術や精霊を研究している私の兄へ手紙で問い合わせています。――それよりも私が気になって地下で調べていたのは、この事象がいつから起きていたのかということです」
地下書庫には初代のラザファム・エインタートがこの地を征服した時からの記録が残されていた。古いものは汚れて読めない部分も多かったが、読めるところを拾い上げて解読するうち、アニエスはあることに気が付いた。
「私が領主となってから一年で嵐が二回。祖父が治めていた時には毎年日照りや豪雨などの天候不順、そして熱病が起きています。その一つ前の最後のエインタート辺境伯家の代でも、同じような災害に毎年見舞われ、領主は短命が続きました。ですが、これほどよく不幸が起きるようになったのは、ここ五十年ほどの間なのです。しかも、エインタートに人がいなかった二十五年間は、王都から工事の人員が派遣されていた年を除いて、ほとんど災害と呼べるほどのことは起きていません」
エインタート領が王領になってからの記録は、駐在官たちがまめに取り続けていた。これもやはり精霊らしきものが、エインタートから人を追い払うために暴れていたことを示唆する。
さらにアニエスが気になったのは、五十年より以前のことだ。
「エインタート領がスヴァニル王国に併合されてから二百年以上経っています。ヴィシュト王国の軍人がこの地を制圧した時から数えれば四百年です。今でこそこのようなありさまとなっていますが、それ以前は普通に住むことができる土地だったと言えます。五十年前から、この地は急速に衰退し始めたのです」
「・・・五十年前に何があったんですか?」
ルーが神妙な顔で尋ねた。
「そのことで、気になる記録を見つけました。冬の嵐の前に、ルーさんとクルツさんにも修復を手伝っていたいだ本の内容です。そこには《レアーマ族を鎮める儀》として、祭りというか、儀式の手順が書かれていました」
「レアーマ?」
もとよりエインタートの出身ではない者と、若者しかいないこの場では、誰もがその音に聞き馴染みがなかった。
「レアーマ族とは、ここがエインタート領となる前、五百年前のはじめにこの地を拓いた豪族のことです。彼らはヴィシュト王国に征服された時に多くが殺され、わずかに生き残った者は奴隷として果てました」
アニエスが王都の歴史書から学んだ事実を伝えると、一堂は黙り込む。
「五十年前というと、スヴァニル全体がメルクト大陸で起きた大戦の余波で経済危機に陥っていた時代です。その時は国中であらゆる祭りや儀式が自粛されていました。よって、この儀式はその頃から行われなくなったと考えられます。・・・現実味のない考えだとは思いますが、あの精霊らしきものは、もしかすると、その、この地を奪われたレアーマ族の怨念のようなもので、しばらく鎮めの儀式が行われなくなったことで復活したのではないか、と・・・」
そう考えると、あの悪意の塊のような姿にも納得できる気がした。
だが頭の半分では、やはり空想じみたことだと思っている。お前は本の読みすぎだと叱る姉の声が聞こえてきそうだ。よって皆の前で口に出すことは、なんとも言えない気まずさと羞恥心があった。
そもそも天災など決まって起きるものではないのだ。すべては単なる偶然かもしれない。アニエスが見たものも、魔王の言っていることも、エインタートの衰退と何一つ関係のない事象であるかもしれない。
アニエスはその不安まで正直に彼らに伝えた。
「――証拠は、ありません。私はただ、記録から憶測しているだけで、真実は何も。それでも、同じことをまた繰り返す前に、これまでしてこなかったことをまず試してみたいと、思うのですが・・・いかがでしょうか」
おずおずと伺う。こういうところは、やはり己で成長できていないと思う。
尋ねられ顔を見合わせる一堂を代表し、レーヴェが簡潔に話をまとめた。
「要するに、その儀式を試してみるということですか」
「は、はい。そうです」
「良いのではないですか」
あっさり言うので、アニエスはかえって拍子抜けしてしまった。
「・・・このような話を、信じていただけるのですか?」
「ここには魔王がおり、巨大な魚が空から降り、異世界人まで落ちて来るのです。今さら悪霊が憑いているくらいでは驚きません」
レーヴェの言い様には、他の者も苦笑を見せていた。
アニエスだけでなく、エインタートの者はもはやイレギュラーに慣れきっている。
「その儀式だけで災害を防げるのであれば儲けものでしょう。仮に効果がなかったとしても、アニエス様は復興を続けるおつもりなのですよね? 私は無職になりませんね?」
そこだけを念入りに確認してくるので、アニエスは素早く首肯した。
「はい、もちろん。最後まで、できる限り続けるつもりです」
躊躇いは欠片もない。本当の絶望はまだこんなものではないことをアニエスはもう知っている。
その後、ルーやクルツも賛同の声を上げた。
「私も賛成です! アニエス様のおっしゃることなら間違いないと思います!」
「まー、話はよくわかんねーけど、厄払いにお祭りやりたいってことっすよね? 俺はご馳走食えるならなんでもいいでーす!」
「その儀式には何か特別な準備が必要なのですか?」
ジークなどはすでに行うものとして、詳細を尋ねた。
皆、乗り気である。誰も領主を信用していない者はいなかった。それを面映ゆく思いつつ、アニエスはようやく本題に入る。
「本の内容はおおむね解読できましたが、あまり詳細な記述がなく、準備物の多くがよくわからないものなのです」
アニエスは、本の該当箇所を諳んじた。
『用意するものはペグオフィスム、黄金の酒、咲き始めのクムクムの花を身に飾った乙女二人、バンカロナの楽の音とともに舞わせる』
また、この後にスヴァニル語ではない謎の呪文が続き、それを唱えるようにと書いてある。
「ペグオ・・・? なんだそれ」
「黄金の酒って?」
「クムクムはいいとして、バンカロナ? ってなんですかね。楽器?」
たった一文の中にも土地の外の者にとっては謎の単語が多くある。それを調べないことには何もできない。
「その本の内容は書き写して、私が以前勤めていた王都図書館の司書の方々に送り、意味を調べていただいています。それとあわせて、皆さんには領民たちへの聞き込み調査をお手伝いいただきたいのです。私の憶測が合っていれば、この儀式は五十年より前までは行われていたはずです。年配の方のどなたかは覚えているかもしれません」
「では、そちらは俺たちにおまかせください」
セリムが己の胸を叩く。
ちょうど頼もうと思っていたアニエスは頷いた。
「お願いします。他の方は、地下の本の洗浄を手伝っていただけますか? まだ読めない部分が多いので、もしかしたらそこに手がかりが隠れているかもしれません」
「そういうことなら、私は前にアニエス様のお手伝いをしたことがありますから、おまかせください! 一気に洗うなら道具がたくさん必要ですよね! すぐに探して参ります! クルツとユカリさんも来て!」
「あ、しょ、食事が終わってからで大丈夫ですっ」
さっそく走り出そうとするルーたちをアニエスは慌てて押しとどめた。そして、ようやくレーヴェの足をどかしたリンケへも仕事を頼む。
「先生は、魔物たちの調査結果をまとめておいてください。精霊らしきものを食べて実際に魔力が増えているのか、またその精霊の性質等ももし掴めれば」
「承知いたしました。アニエス様も後ほど採血のご協力をお願いしますね」
「・・・はい。あの、諸々が済んだ後で」
さりげなくレーヴェやジークを間に挟んでリンケから距離を置く。
ひとまず話を終えたアニエスは椅子に腰を下ろし、これからのために、まずは腹ごしらえをすることにした。




