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58.収穫祭

 六月。晴天が続く。

 黄金色に染まった麦の収穫が本格的に始まった頃、エインタートでは畑一枚程度のささやかな麦を領民の皆で収穫し、即席で館の庭に拵えた祭壇へと捧げた。他にも五番目の姉のフィーネから種をもらって育てた葉物野菜、乾燥させたクムクムの実なども隙間を埋めるために置かれている。

 庭師のグスタが日々丹精込めて手入れしている花々は、今日という日に合わせ一斉に咲いた。そこへ、普段よりも少しだけ身綺麗にした領民たちがやって来て、祭壇へかわるがわる祈りを捧げる。

 本日は工事も休みとし、エインタートには騒音のない穏やかな風が吹いている。

 一方で、アニエスは段取りをメモした紙をバインダーに挟んで持ち、朝から忙しく動き回っていた。

「アニエス様、ワイン樽が届きましたが」

 エントランスで全体の進行具合を確認していると、ネリーがやって来る。アニエスは小さく胸をなでおろした。

「あぁ、やっと――庭へ運んでください。来た方が自由に飲めるように、パンの横に並べて置いていただければ」

「はい、了解ですっ」

 はきはきとネリーが走って行った後、横合いからルーがひょっこり顔を出す。

「アニエス様っ、そろそろお料理を庭に出していいですか?」

「あ、はい。お願いします。それとルーさん、トリーネさんたちにも準備をしてもらうよう伝言願えますか」

「かしこまりました! アニエス様もお支度なさいますよね? トリーネさんたちに伝えましたらお部屋に伺いますね!」

 祭りの浮かれた気分に影響され、ルーはいつにも増して声が大きくなっている。アニエスはそれにやや首を引っ込めつつ、頷いた。

「どうもアニエス様!」

「っ、ニーナさん。どうも」

 反対側の死角へいつの間にか回り込んでいた記者に、やや動揺する。ニーナは今日も首にカメラをぶら下げ、早口にまくし立てた。

「お忙しいところ大変恐縮ですがお式の前に取材させていただけます? 結婚される二人の詳細なお話と今回収穫祭を行うことになった経緯について」

「ええっと・・・」

 アニエスは段取りのメモをちらりと確認し、周囲を見渡し、ちょうどレーヴェの姿を見かけて手を振った。

「レーヴェさんっ、すみません対応お願いしますっ」

「アニエス様っ」

「すみません、ちょっと、支度がありまして。後でゆっくりお答えします。すみません」

 ニーナを振り切ったアニエスは、部屋に戻る前に足早に会場となる庭を見て回り、指示通りのレイアウトになっているか、混乱が起きていないか等を確認した。

 クリスタの助言を基本軸に、領民たちと相談し、収穫祭も結婚式も儀式の重要な部分だけを執り行うごくごく簡素なものとした。

 領民たちは自由にやって来てワインとパンをもらい、二十六年ぶりのこの地の実りに感謝する。メインの結婚式は正午から、庭の祭壇の前で行う。その時だけはマリクとトリーネの身内と、同じ避難所で暮らしていた者を優先的に会場に入れ、ささやかな料理を振る舞う。やることは結局それだけだ。それでも、はじめて催しの段取りをしているアニエスは内心で緊張していた。

 今のところ特別問題が起きていないことを確認できたら、部屋に戻って服を着替える。

 衣装は作る暇も買いに行く暇もなく、シャルロッテに頼み王都から送ってもらった。代金だけ先に渡し、予算内で祝い事にふさわしい衣装をと頼んだところ、届いたのは光沢のある錫色のローブだった。

 袖や裾が黒と金色で縁どられており、過度に派手でなく気品がある。地味な服装を好むアニエスに合わせつつ、領主の威厳は出るようにと選ばれたのだろう。上半身にフィットするデザインだったが、きつくもなく動きやすいちょうど良いサイズでもあった。

 胸元に黒いリボンを付けるのがシャルロッテのこだわりらしく、同封された手紙にはイラスト付きでこと細かに着方が説明されており、こんなふうに妹に世話を焼かれることが何やらアニエスはおかしかった。

 ルーの手を借りながら妹の見立て通りに着替えを完了させる。では下へ、と移動しようとすると、すかさず肩にリウが飛び乗った。

「こら! 今日はだめ!」

 ルーがアニエスの部屋に常備されている分厚い手袋を嵌め、背中の針に気を付けながら魔物を引き離そうとしたが、リウは爪を立てて抵抗した。生地を傷めることを考えるとルーも強くは引っ張れない。

「ギャギャッ!」

 駄々をこねる赤子のように、耳元でうるさく鳴かれるアニエスはたまらなかった。

「ルーさん、いいですよ。もう」

「え? でも」

「今さら、誰も気にしないと思うので」

 新しい服が獣臭くなってしまうことは気になるが、リウは今朝からやけに離れたがらない。人の出入りが普段に増して多いせいかもしれない。下手に引き離し、暴れられることだけは避けたかった。どうせリンケに預けても、ずぼらな彼女は必ず逃がすのだ。

 今日は領民や顔馴染みだけを集めた催しであり、アニエスが連れている魔物を怖がる者はない。

 よって、そのまま庭へ降りた。



 ◆◇



 花と料理の豊かな香りに包まれている。

 祭壇を背にして立つアニエスの前には、参列者の作る道ができ、そこを新郎新婦が二人手を取り合い、足並みを合わせ、やって来る。

 二人は、同じ村の出身の者が協力して今日までに作った婚礼衣装を着ている。己の誕生月の色に合わせ、トリーネは赤、マリクは緑色を衣装に差し、さらにクムクムの八重花を刺繍したサッシュを肩にかけていた。

 アニエスはどういう顔をして待っていれば良いのか直前までわからずにいたが、二人を眺めているうち、一つの想いが心の海から浮かび上がった。

(幸せでいてほしい)

 不幸の土地に生まれ、順風満帆な門出には程遠い。それでも、せめて今この時の笑顔が曇らずに、明日がより豊かなものになれば良い。

 目の前まで来た二人へ、アニエスはペンと結婚証明書を差し出した。

「・・・これから、互いに夫婦になることに同意するのであれば、こちらにサインを」

 台の上で二人は交互に署名した。

 その決意を確認できたアニエスは天に地に願う。

「汝らの、生きる大地がどこまでも続くよう。渇きの日には、柔らかな雨が降り注ぐよう。暗澹たる日には、雲散らす風が吹き渡るよう。そして終ぞ、竈より火が絶えぬよう。精霊の加護のあらんことを」

 続けて胸に手を当て、アニエスは二人を寿いだ。

「本当に、おめでとうございます。それから――ここで生きることを決めてくれて、ありがとうございます」

 祝辞なのか謝辞なのかアニエス自身もわからない。

 これでも祝詞の後に新郎新婦へかける大事な言葉は、王都で大量に読み漁った本の知識を総動員して考えていた。しかし、己の言葉としてこの場で出て来るのはそれが精一杯で、すべてだった。

「アニエス様、泣いてます?」

 半笑いのマリクと、ついでにリウも覗き込む。マリクはトリーネにさっさと引き戻され、アニエスは眼鏡の下の目元を拭った。

 ともあれこれで婚姻の儀式は済み、場がわっと祝いの声に湧く。新郎新婦を寿ぐ者と、領主を労う者が囲み、宴会へと突入した。

 アニエスはしばらく輪の中心にいたが、徐々に離脱し、全体を見渡せるよう庭の端のほうへ移る。

 単に人を避けたいわけではなく、今日はホストとして、料理や酒類が行き渡っているか、警備の者の休憩交代が滞りなく行われているかを管理する仕事があるのだ。

 マリクとトリーネのそれぞれの身内と友人たちは二人の傍で祝い続け、ニーナがその様子を記録している。

 館の者も休憩の合間に料理にありつき、特に役割のないリンケなどはワインも飲んでいる。便乗してクルツがグラスへ手を出そうとし、ジークにはたかれていた。

 また会場には工人ギルドの者もいるが、さすがに今日はセリムらと諍いを起こす気はないらしく、おおむね行儀良く楽しんでおり、ファニやハンネス、またレーヴェらと競うように料理を頬張っていた。

 そこへ追加の皿をルーやユカリが運んでくれ、そんなメイドたちも互いの口に料理を放り込み、つまみ食いをして楽しんでいる。

 それぞれが気ままに過ごしている中で、どこの輪にも入っていないのはアニエスと、無口な庭師のグスタだけだった。

 ほとんど予算をかけず美しい披露宴会場を作り上げてくれた最大の功労者が料理も酒も口にせず、じっと空を見上げているのがアニエスは気になった。

「グスタさん、どうかされましたか」

 話しかけてもグスタの反応はない。アニエスは彼が見上げている北の空へ目を向けた。

「何か、ありますか」

 すると、グスタはゆるく頭を振った。

「・・・年寄りは、不吉なことばかり考えます。お気になさらず」

 祝いの場で一人くすりとも笑わぬ老人は踵を返し、隅の作業場へ向かう。宴に飽きたのか、ハサミを持って剪定などを始めようとしていた。

 止めるべきかアニエスは迷ったが、その前にもう一度北の空を見上げる。

 気づけば雲は止まっており、無風であった。

「ギャウッ!」

 突然リウが鳴いた。

 続いて、ごう、と風が唸る。

 目も開けていられずアニエスは腕で顔を覆う。だが突風はいつまで待っても吹き去らなかった。

 紋章術で風の壁を作るが、それでも防ぎきれない。肩の上にいたリウが離れ、周囲を見渡せば皿や花が飛び、人々は地面に伏せる。

「皆さん館の中へ!」

 アニエスが叫ぶ声など吹き消されてしまう。たとえ聞こえたとしても、誰も立つことすら難しかった。

(どうして)

 アニエスは両手で地面を掴む。

 館の屋根が剥がれ、木片が傍に落ちた。冬の嵐の時と同じ風だ。一つずつ積み上げてきたものが、またも壊されてゆく。

 死も災害も唐突にやって来るものだ。人には制御できない。責められない。だが、思わずにはいられない。

 なぜ今なのか。なぜ、自分たちなのかと。

(やっと人が集まってきた・・・家が建ち、麦を収穫できた。来年には新しい子供が生まれてくる。やっと、この土地は始まろうとしていたのに)

 怒りが湧きそうになっては、泡のように弾けて消える。矛先を向ける相手がないことに気がつくと、残るのは虚無だけだ。

 アニエスは歯を食いしばって顔を上げた。

「皆さんっ!」

 自分の中の何かが折れないように、思考を捨てて動こうとする。

 だが、必死のそれをも掻き消す咆哮が響き渡った。

「――ッ」

 目前に、大きな皮翼を広げたものが現れた。彼女の赤紫色の髪が頬をかすめる。

 魔王の一吼えが館を襲う風をわずか、弱めた。

 そして呆然とするアニエスの襟首を掴み、ギギは空に舞い上がる。

「ま、魔王、様っ、どうしてっ」

「食事の時間だ。しばらく下等種どもにも好きにさせるが、許せよ」

 ギギが正面に抱え直してくれたことで、アニエスにも領地の様子がよく見渡せた。

 館の外に大勢の魔物たちの姿がある。昼は寝惚けているはずの彼らが、その巨躯を跳ねさせ、家屋を破壊し、倒れた重機に乗っている。まるで遊んでいるようだった。

「どうしてっ、魔物たちがっ」

 アニエスはギギの手から逃れようとするが、硬い鱗に覆われた腕はアニエスの首を挟み込み、びくともしない。

 ギギは己の中指を噛むと、アニエスの口の中にそれを入れた。喉の奥まで押し込まれ吐き気を催し、同時に彼女の指から滴る血が刺すような痛みを引き起こす。

 すぐさま吐き出したかったが許されず、たっぷり血を落としてから魔王の指は出て行った。

 アニエスが涙の浮かぶ目を開けると、それまで雲が流れるだけだった空に、黒い塊が見えた。

(なんだ?)

 ペンで乱暴に塗り潰したような影だった。動くたびに形が変わる魚群にも見える。じっと見ていると目鼻口らしきくぼみが無数にあることに気づき、それら一つ一つがアニエスを捉え、猛然と向かい来る。

 だが触れる直前にギギが口を開け、大魚が水ごと小魚を吸い込むように、黒い何かの半分ほどを飲み込んだ。

 残りは散り散りとなり、地上や上空にいる魔物たちが即座に飛び付き喰らっていた。

「あ、えは・・・なんっ、で」

 舌が痺れてうまく回らないが、アニエスは黒いものの正体を問わずにいられなかった。

 ギギは待っていたかのように声を弾ませる。

「久しくアレを表す言葉がわからずにいたが、お前らと遊んでやるうちにわかった。要するに、アレはお前らだろう」

「え・・・?」

「人間だ。あるいは精霊の下等種と言えるか? お前らと精霊が混ざってできたものだ。いわば魔物のようなものか」

 魔物はこの地上の生物と、魔界の生物が交わったことでできた生き物とされている。

 目の前の黒いものが、それと似通った成り立ちだとギギは言うのだ。

「アレらはこの土地を我が物と考えている。ゆえに、アレらは我と、お前に怒っている。この地の主を自称する我らになっ」

 ギギはそのことが心底おかしいようだった。

「いやお前には感謝している。お前が我を王としたがために、食料が自ら口に飛び込んでくるようになった。魔物どもも我のおこぼれにあずかりたくて森にいるのだぞ? 知っていたか?」

 アニエスは知らない。そんなことはこれまで、露ほどにも知らされていなかった。

「あ、アレ、ら、は――っ、アレらが、これまで何度も、エインタートを破壊してきたのですかっ?」

「そうだ。これまで何度もお前を殺そうとしていた」

 アニエスが身を強張らせると、ギギは愉快そうに嗤う。

「お前が精霊の力を宿しておらねば、とっくに死んでいただろう。奴らは相当腹に据えかねている。そろそろお前だけでも殺さねば鎮まらん。まあ結局、此度も我に喰われるのだがな」

 ギギが大きく皮翼を動かす。

 前から後ろへ吹き抜ける風に耐えながら、アニエスは問い続けた。

「魔物たちが食べればっ、この風はやみますかっ?」

「やむ! だがまた生じる! この地に奴らは根付いているからなあ!」

 エインタートは呪われている。その言葉が再びアニエスの脳裏に蘇った。

 この地の主を名乗る者を襲う何か。魔人の血を飲まされ、はじめて視界に映ったもの。

 人間に精霊は視認できない。紋章術で精霊の力を使うアニエスにも本来は見えないものだ。

(あれが、この土地の精霊だと言うの・・・?)

 世界には紋章術に組み込まれる八つの属性の他に多くの精霊が存在し、その全容も性質もまだ大部分が謎に包まれている。

 この場でアニエスが一つきりの頭でいくら考えたとて、何も判然としない。

 ただ、襲い来るものが見えるのであれば、できることはあった。

「魔王様っ、放してくださいっ」

「じっとしていろ。お前もいれば奴らが寄って来て喰いやすい」

「――であればっ、私の言うほうへ飛んでください! 早く下へ! 皆のところに!」

 怯まずアニエスは地上を指し示す。

 ギギは白い眼を人のように瞬かせた。

「王に命じるとは良い度胸だな?」

「同じ地を治める盟友として、お頼みしているのですっ。私は彼らをなんとしても守らねばならなりませんっ。どうか、お願いしますっ」

 拘束されている体勢でも構わず懇願し続けると、ギギは舌打ちした。

「――面倒な。王とは食って寝るのが仕事であろうに」

 文句を垂れながら下降してくれる。ギギや魔物らが精霊を食べたことで、館の周辺の風はどうにか人が立てる程度には弱まっており、警備兵たちが暴れる魔物と戦おうとしていた。

「魔物に手を出さないで!」

 アニエスが腹から張り上げた声は、今度こそ届いた。彼らは魔王に抱えられている領主に驚愕の顔を向ける。

「ジークさん! セリムさん!」

 すかさずリーダー格の二人を名指し、アニエスは早口に指示を与えた。

「皆さんを館の中へ避難させてください! この風を弱めるためには魔物たちが必要なんです! 今はっ、私を信じてください!」

「アニエス様!?」

「事情は後で! 頼みます!」

 拠点は前回と同じく館で良い。続けてアニエスは工人たちの仮設住宅のほうを指した。

「魔王様、他の皆を館へ誘導します。魔物たちへ命じて道をあけるようにしてください。道中の護衛も願います」

「図々しい。お前そんな奴だったか?」

「お礼は後で必ずいたします。どうか」

 不満げなギギをなだめすかし、アニエスはいち早く領民たちの救助に向かう。幸い、住居が崩壊する前に彼らを迎えに行くことができた。

 自分がいることで風に襲われる危険も大きかったが、ギギとともに平原に散った魔物たちも夢中で黒い影を食べており、風は着実に弱まっている。

 領民たちを全員避難させられれば、アニエスはもう館から動く必要がない。残りを食べるには館の前で待ち構えていれば良いだろうとギギを説得して放してもらい、アニエスは現状の確認に走った。

 奇しくも二度目となれば対応にも慣れている。だが、今回は前回とは別の問題が新たに生じていた。

 玄関付近で、倒れている者たちがあった。その傍にいる他の領民たちが青い顔をしている。アニエスが近づいて行くと、場にいたディノがすかさず彼女を後方へ押しやった。

「近づいてはいけませんっ。熱病ですっ」

 すぐさま、祖父と母を殺した病が思い浮かぶ。

「それは・・・確かなのですか?」

「はい。急に気を失って倒れたんです。このまま朝には死んじまう」

 息を呑む。

 かつてその病を目の当たりにした医師は、まるで悪意のようだったと言っていた。

(あの精霊たちの姿もまるで、悪意そのものだ)

 もしや、と思う。

(私の祖父と、母を死なせたものは――)

 心臓に冷たい刃が入り込むような感覚が生じ、アニエスは思わず胸を押さえた。

(――違う。今考えることはそれじゃない)

 息を整え、顔を上げる。

「病人は一か所に集めます。エラさん、先に中へ行って、病床の用意を館の者に頼んでください」

「は、はい」

「ディノさんは他に具合の悪い方がいないか早急に確認してください」

「は、わかりましたっ」

「他の方はエッカルト医師を探して連れて来てください。敷地内にいるはずです」

 元はローレン領の医師は、たびたびエインタートに呼び出されるうち、使命感を帯びて冬の嵐の時からこちらに移り住むようになっていた。

 まだ風が収まらないうちはギギの近くから離れられないアニエスは、せめて病床が整うまでの介護を手伝う。

 そこでやっとまともに病人たちを目にし、違和感に気づいた。

(なにか、黒い靄が・・・?)

 空で荒ぶっている黒い影を薄くしたようなものが、倒れている患者の体に重なって見える。それが内部で渦巻いていた。

「ギャゥ」

 そんな時に、アニエスのローブの裾をくぐり、風に飛ばされたはずの青い魔物が現れた。

「リウ?」

 思わず声に出たアニエスを無視し、リウは横になっている病人たちの匂いを嗅ぐ。そしていきなり、その肩へ噛みついた。

「なんだお前!?」

 慌てた他の者がリウの頭を咄嗟に叩いたが、離れない。じゅう、と何かを吸っている音がする。

(あ、れ?)

 黒い靄が、見る間にリウの中に吸われてゆく。すべて吸いきると、リウは口を離し、隣の患者の上へ移った。

「あっ、くそ!」

「待って!」

 アニエスはリウを追い払おうとする人の手を止め、先に噛みつかれた患者の様子を窺った。

 熱した鉄のような顔色から、徐々に赤みが抜けていく。浅い呼吸が落ちつき深くなってきている。

「アニエス様? あの・・・」

 戸惑う領民の手を放し、アニエスはなるべく冷静に告げた。

「これは、普通の病ではないようです。魔物に噛ませることで治せるかもしれません」

「はあ・・・?」

 黒い靄はアニエスだけが見えているものであり、誰もが納得する説明などできない。しかし、領民たちも魔物に噛まれた者の容態が落ちついてきていることには気がついた。

(熱病は、あの精霊が人の体内に入り込むことでかかる?)

 記録には、熱病ははじめに発症した者から広まることはなかったとされている。それは感染が広がる前にあっという間に患者が死んでしまったためかと思われていたが、違うのかもしれない。

 魔人の血はまだアニエスの口内に残り、刺すような痛みが続いている。実は喋ることもやっとである。だがこの痛みが、これまで見えていなかったものを見せてくれていた。

(魔力の影響、なんだろうか・・・魔物たちにとって、あの精霊のようなものは、食料で・・・ということは、あれが魔力の源? それが豊富にあるこの地に魔物たちは集まった?)

 一人、黙考する。

(嵐も、熱病も、他の様々な災害もほとんど、あるいはすべてが精霊の仕業だったのだとしたら――彼らがこの土地から人を追い払おうとする理由は)

 間もなく病床が整い、リウに熱を取り去られた患者たちを運んだ。念のため、経過は観察する必要がある。

 ――やがて、風が止んだ。

 今度は一晩も続かず、日暮れの前には収まった。だが魔物たちは興奮冷めやらず平原に居座り、赤い瞳の牛より大きなヌボーが、崩れた家屋を踏み砕いて遊んでいた。

 アニエスの足元には、土に汚れた麦の穂が散らばっている。昨晩から館の者が総出で焼いたパンも、クムクムをふんだんに使った料理も残骸と成り果てた。

 グスタが丹精込めて世話した花々と、精霊を祀るための祭壇は消えた。領主館のはがれた屋根を工人ギルドが繋げた毛布で覆い、応急処置としていた。

 花嫁と花婿の衣装には泥がつき、炊き出しを受け取る領民たちの顔には生気がない。

 冬の嵐の時のように、まだ大丈夫だと、アニエスに声をかけられる者は一人とていなかった。



 建国歴二一三年六月三日。

 重機破壊、および魔物の活発化により工事は中断を余儀なくされた。

 領民はローレン領の避難所へ戻り、その他に領外からやって来た者たちも悉く去り、エインタートには半壊の領主館だけが取り残された。

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― 新着の感想 ―
[良い点] わあああアニエスまだ大丈夫だよーーーー!
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