57.予兆
森の闇は夜よりもなお暗く、冷えた空気が滞留する。エインタートの人々が今日も健気な労働を終えて寝静まった頃、ギギはゆっくりと瞼を上げた。
人の瞳の白目と黒目が逆転した異形の眼には、自らの咆吼で枝葉の天蓋が吹き飛び、ぽっかりあいた丸い夜空が映る。
月は黒く、星の瞬きもない。
虫や獣は息を潜め、魔物だけが嬉々として闇を這う。ギギも鱗の肌にまとわりつく一段と濃くなった瘴気を感じ、いささかの興奮を覚えた。
「煩いぞ」
夜空へ呟く。裂けた口は笑みを描いた。
「何がそんなに気に食わぬのだ」
赤子をあやすように語りかけてやると、空が唸りを上げた。
生意気にも激高している。ギギは声を立てて嗤ってやった。
「わかったわかった。好きにしろ。存分に猛り、この地を満たせ」
周囲の暗がりに赤い瞳が点々と灯る。
猿の顔をした鳥、腹の膨れた大トカゲ、角を持つ青い狼などあらゆる魔物がギギの元に集結し、空へ向かって大口を開けた。
◆◇
きっかけは、トリーネのささやかな報告だった。
「・・・どなたと?」
風渡る初夏の候、昼頃に執務室へやって来た彼女はアニエスの前に立ち、はにかんで言った。
「マリクとです」
「え」
アニエスはうっかり声が漏れてしまった。一瞬、自分の知らないどこかのマリクかと思ったが、やはり領民たちのまとめ役であるディノの暢気な次男坊、マリク・フェルケで間違いないらしい。
同じく話を横で聞いていたレーヴェは眉をひそめた。
「なぜ彼なのですか?」
「好きだからですけど・・・いえあの、言わんとしてることは大体わかりますよ? でも、あれで良いところもたくさんありますから、許してあげてください」
アニエスもトリーネには申し訳なかったが、なぜ彼女のように気立ての良い女性が、あの独特なテンポで生きる不思議な青年と結婚することにしたのだろうかと思ってしまった。
そもそも二人が交際していたことも、こうして報告されるまでアニエスはまったく知らなかった。
さらに、トリーネの報告は続く。
「実は、子供もできたみたいで」
「えっ」
アニエスは反射的に腰を浮かせた。
「そ・・・あ、座ってください。どうぞ」
「そんな、お気遣いなく」
「いえ座ってください」
妊婦の相手など慣れておらず、壁際に寄せていた予備の椅子をトリーネのもとへ自ら持っていく。
恐縮する彼女を座らせてから、改めて、アニエスは言うべき言葉を口にした。
「――おめでとうございます。とても、喜ばしいことだと思います」
表情はまるで変えずにいるが、内心では大いに驚き、そして感嘆していた。
(命が生まれるのか、この土地に)
失われてばかりだった場所に、新たな芽吹きの気配が訪れている。アニエスは、試作の麦が穂を出した時と同じ心地がした。
世にありふれた何の変哲もないはずのことが奇跡のように思える。
「ありがとうございます」
トリーネは幸せそうな桃色の頬をして、祝福を受け取った。
「・・・結婚されるということは、お二人の戸籍を直す必要がありますね。あ、と、結婚証明書も発行しなければならないのでしたか。子供が生まれたらその戸籍と、他に必要な書類は――」
何よりも記録を大事としているアニエスの頭の中には、事務的な処理のことがすぐによぎる。
復興途中のエインタートでそのような事例はまだなく、領主として初めての経験だ。にわかにアニエスは混乱してきた。
「結婚の日付はどうしましょう?」
「それがご相談なんですけど」
と、トリーネは本題に入った。
「ローレン領に避難していた頃は、王都から来ていた駐在官の方の前で証明書にサインをして結婚、という流れだったんです。今はアニエス様がいらっしゃいますから、できれば御前でそれをさせていただければなあ、と思いまして」
「・・・なるほど」
伝統的に婚姻の儀式は集団の長の前で行われる。
長とはすなわち領主である。王領であれば王だ。ゆえにアニエスの姉のグレーテの結婚式では、兄王のカイザーが直々に取り仕切った。
通常の領地であれば、各村の村長などが領主の代理を務める。しかしエインタートにおいてそれはまだいない。ならば、アニエス本人が行うしかないだろう。
「アニエス様。これは良い話題になるのでは?」
黙って話を聞いていたレーヴェがすかさず提案した。
「記者を呼び、館で結婚式をされてはいかがでしょう。復興中の領地の初めての慶事となれば、世間の感動必至、人材募集や化粧水の宣伝にも間接的に効果が見込めるのではないでしょうか」
「・・・それは、お二人に悪いのでは」
レーヴェの言うことはもっともだったが、純粋に祝福すべき事柄を見世物のように利用する罪悪感がアニエスは捨てきれない。
トリーネのほうを窺うと、「さすが」と軽快に笑っていた。
「私は構いませんよ。むしろありがたいです。式なんて言えるほどのことはできないと思ってましたから、きっとマリクも喜びます」
「そう、ですか?」
「私たちでお役に立てるのでしたら、ぜひ。遠慮なく使ってください」
当人たちに抵抗がないのであれば、アニエスもやぶさかではない。
領外に幸福な話題を知らしめることで、まだ帰って来ない領民たちへの呼び水とできるかもしれず、そうでなくとも領内の人々を元気づけられるだろう。
「では、そのように準備をしましょう。全体の取り仕切りは、領主として私が行いますので」
そういうことになり、二人を退室させたアニエスは肘を突いて悩む。机に降りていたリウが肘の隙間に頭を突っ込み、そこで寝始めた。
(結婚式・・・去年、グレーテ姉様の結婚式には出たけれど)
芸術家夫婦のインスピレーションが爆発した会場の飾りつけはなんの参考にもならず、そもそも王城で行われたものでは規模が違い過ぎる。
また、アニエスは式を最後まで見ていない。他に出席したものでは六番目の姉シンディの結婚式があるが、すでに五年前のことで、やはりその時もアニエスは途中で自室に引っ込んだ。
式の段取りもさることながら、考えてみれば最も重要な結婚証明書に記載すべき項目等のこともよく知らない。
(・・・これは結構、大変なのでは)
書類の類はシビル駐在官の残した引き継ぎ書を確認する。式の段取りはエインタート独自の風習がある可能性を考慮し、領民たちへ情報収集を行う。
それとともに一般的な式の段取り、会場準備に必要なもの、招待人数、食事の量、服装、もろもろ細かく決める点が多く、さらに混迷が深まってきた。
何か忘れていることが必ずありそうで、できれば手引書などが欲しかった。皆に指示を出すにしても、まずはアニエス自身が頭の中にあらかたの骨組みをイメージしておかねばならない。
(誰かに助言を――)
と考え真っ先に思い浮かんだのは、去年の結婚式で妹に頼られなかったことを大いに拗ねていた、一番目の姉の横顔だった。
詰め込めるだけの質問を詰め込んだ手紙の返信は、一週間を待たず早々に届けられた。
分厚い封筒を開くと、クリスタという人物を表したような隙のない美しい文字が連なっている。本人がいなくとも文章からそこはかとない威圧感がにじみ出ており、アニエスは執務室で姿勢良くそれを読んだ。
長年、子育ての傍らに王城で働く夫の領地経営を代行している彼女は、アニエスの質問にすべて回答し、さらに考えの及ばなかったところにまで助言を与えてくれていた。
結婚式については、時期的に麦の収穫を祝う祭りとして扱えば、領主が主催することに違和感がなく領地としての一体感も出て良い、式には館の庭に収まる程度の人数を集めるに留め、入りきらぬ者には祝いのパンを渡すなどの配慮をする、無理に派手なことはしなくて良い、何よりもその土地の伝統を尊重するようにとのことだ。
また、『くれぐれも喪服で新郎新婦に祝詞を授けることのなきよう』と文中で釘もついでに刺されている。
(やはりそうか)
グレーテの結婚式で、カイザーの衣装には白と金色が入っていた。この場合は白が祝事を表し、金色が気高き王家を表す。
黒は決して悪い色でないにせよ、それ一色ではさすがに弔いの匂いが強すぎた。アニエスは白っぽい衣装を新たに調達することとし、手紙の残りの部分を読み込む。
だが、不思議と読み進めるごとに、いつの間にか助言は小言にすり替わり、最後の一枚になるとまったく別のことが書かれていた。
(これは・・・化粧水の感想?)
刺激はなく使いやすいが、ややべたつく。量は使い切るにちょうど良い。だが瓶の中身が時折沈殿しており不愉快、子供が匂いにつられて口にしようとする等、細かい指摘が連なっている。
魔物の乳の化粧水については、今年の春先から売り出され、看板娘のシャルロッテが精力的に宣伝してくれたおかげもあり、王都の貴婦人たちの間で順調に売れ行きを伸ばしている。
さらには姉たちや兄の妻たち、そしてディートリンデを含む亡き父の妻たちの一部が率先して購入し、そこから口コミがさらに広がり――と、こうした多すぎる親族の予期せぬ後押しが、成果を底上げしてくれたのだ。
しかし、まさかクリスタまでが購入しているとは、アニエスは夢にも思っていなかった。
なにせ化粧水の販売元はクリスタの宿敵たるエリノアの会社が担っているのだ。いくら彼女がアニエスを支援したがっていたとしても、その壁を乗り越えるとは意外だった。
(それとも、心の底ではエリノア姉様のことをもう、認めているんだろうか)
アニエスは今まで交流の少なかった上の姉二人と関わるうち、彼女たちの性質は、実はとても似ているのではないかと思えてきていた。
どちらも己の信念にまっすぐで、有能だ。何をすべきかを常に把握しており、周りに流されることがない。むしろ流れを己で作り出す。
それが正反対の流れであるために衝突せずにはいられないが、その喧嘩もコミュニケーションの一種ではある。
毎回、感情を剥き出しぶつかり合うクリスタとエリノアは、他者の及ばない独自の関係を築いていると言える。
(こうして私を助けてくれるように、きっと互いの窮地には文句を言いながらも手を差し伸べるんだろう)
これまで二人そろって罵り合う様には胃が痛むばかりだったが、次に家族が集まる時には、いくらか平気でいられるかもしれない。
手紙を読み終えると、アニエスはさっそく筆を執り、クリスタへの礼状をしたためた。




