56.読書会
(疲れた・・・)
陽が赤くなり始める頃、ユカリは館の廊下をとぼとぼ歩いていた。
館に戻った後も、結果的にエントランスの片付けをルーたちに押し付けてしまっていたことに気づいて平謝りし、厨房で芋の皮むきを頼まれては手際が悪くて謝り、皿を片付けようとしては割って謝り、そのうち何を頼んでいいのかわからなくなったルーに、今日のところは早めに休んだほうがいいと言われ、申し訳なく思いながらも抵抗せずその通りにしている。
行動するたびに失敗し、一言ごとに謝罪を繰り返すうち、心も体も疲れ果てた。だが何一つ仕事を満足にこなせていないくせに、疲労を口にすることは憚られる。
まさか、自分がこれほど何もできない人間であるとは思いもしなかった。
「マジで追い出されるのかなぁ」
「ユカリさん」
ちょうど独り言を漏らしたタイミングで背後から呼びかけられ、ユカリは飛び上がった。
「すみません。今、お時間はありますか?」
振り返れば、廊下の影に半分同化しているアニエスがいた。
「私の執務室へ来ていただけませんか」
「え?」
「もしお疲れなら無理はされなくて良いのですが」
「い、いえ、別に」
正直なところ非常に疲れている。だが今のユカリは断れる立場ではない。
(解雇通告?)
悪い想像をしながら、おそるおそる付いて行く。
領主の執務屋には夕陽が柔らかく差していた。書類の積まれている机にリウが伸びており、背中の針が陽に透けている。
机の横に置かれた椅子に勧められて座り、そわそわしているとアニエスから一冊の本を渡された。
以前、求められて貸していたユカリの学校の教科書だった。
「お返しするのが遅くなりまして、すみませんでした」
「あっ・・・いえ全然、忘れてました」
思っていたような話ではなく、ユカリは拍子抜けするとともに安堵した。その様子をアニエスは眠たげな瞳で眺めている。
「せっかくなので、少しゆっくりしていってください。お茶は飲めますか?」
「は、い。ありがとうございます・・・」
アニエスがポットから琥珀色の茶をカップへ注ぎ、ソーサーの端に赤紫色の種を練り込んだクッキーを二枚乗せた。
ユカリは教科書を膝に置いてカップに口を付ける。炒ったような香ばしさが鼻を抜け、ほう、と息を吐いた。
クッキーも齧る。なかなかに硬く、素朴な甘さが懐かしい味だった。
「本日はお疲れ様でした」
アニエスも執務机の前に座り、ゆったりと話した。
「魔物の乳絞りにまで連れて行かれたと聞きましたが、怪我などはしませんでしたか?」
途端にユカリは肩を竦め、小さくなってしまう。
「す、すみません」
「どこか怪我をされたのですか?」
「そうじゃなくて、全然ちゃんと、できなかったので・・・」
「あぁ、いえそれは、無理もないことです。魔物は、怖かったでしょう。すみませんでした。もう、そういうことはないようにファニさんたちには話しておきます」
「いやあの、確かに魔物は無理なんですけど、でも強引に連れて行かれたわけじゃなくて・・・わたしが、他に何もできなかった、からで」
白状しながら、少しずつ視線が下方へ落ちていく。
「水汲みできなかったり、床濡らしちゃったり、お皿割ったり、芋剥きできなかったり・・・なんかもう、迷惑ばっかりかけてて・・・むしろ、わたしいないほうがいいんじゃないか、って、思えて」
下げた視線を二度と上げられない。
申し訳なく、情けなかった。追い出されても仕方がないと、今は自分で思えてしまっていた。
雇用主から慰めの言葉はかけられない。
かわりに、うつむいた視界の中に彼女の白い指が映り込んだ。
「・・・この本には、どういうことが書かれているのですか?」
ユカリは何を訊かれたのかすぐに理解できなかった。
ややあってから、鼻を啜り答える。
「・・・これは、古文の、教科書です。大昔の人が、書いた話? が、載ってます」
「古典文学ですか。ユカリさんは中身を読むことができますか?」
「・・・授業でやったとこなら、たぶん」
「今、読み上げてもらうことはできますか?」
「え?」
顔を上げる。
黒ずくめの領主は変わらぬ眠たげな瞳で、ユカリを静かに見返していた。
「私は、異世界の本にとても興味があります。その本も王都の図書館で解読しようと思ったのですが、残念ながらユカリさんの国の言葉の記録がなく、読むことができませんでした。少しだけでもいいので、読んでみてくれませんか」
「・・・いいです、けど」
促され、ユカリは最初のほうのページを適当に開く。そこはたまたま入門編ということで、古文の横にある程度の現代語訳と、下に用語の解説も載っているページだった。
とりあえず、ユカリは原文のほうを読み上げてみる。
「・・・《児のそら寝。今は昔、比叡の山に児ありけり。僧たち、宵のつれづれに、「いざ、かいもちひせむ」と言いけるを――》」
それは短い説話集で、あっという間に一話を読み終えた。
内容を要約すると、まず寺の僧侶が夜中にぼたもちを食べようとし、小僧が寝たふりをして誘ってもらうのを待っていた。僧たちは一緒に食べようと一度は小僧を起こそうとしたものの、一度で答えては待っていたことがばれると思った小僧は返事をしない。二度目で起きようと思っていると、僧たちは小僧を起こすのを可哀想がって二度は声をかけず食べ始めてしまった。堪えかねた小僧が最後に勝手に返事をし、僧たちに笑われるという話である。
読み終えてアニエスを窺うと、口角がほんの少し、上がっているように見えた。
「ヒエの山のソウたちというのは、普段どういうことをしている人々なのですか?」
続けてされた質問に、ユカリは目を瞬いた。
「・・・お寺で、修行してる人? です。あの、仏って、神様じゃなくて、なんだろそのー、昔の? 聖人みたいな? 人を? 祀ってる? 崇めてる? みたいな人たち? かな?」
「私たちの国で言う祭司のような人々でしょうか。宗教関係の職業なのですね。チゴというのは、見習いの子供のようなものでしょうか」
「た、ぶん? ・・・あ、教科書の解説には行儀見習いで預けられた少年って書いてあります」
「なるほど、わかりました。――カイモチイとは、どんな食べ物ですか?」
「うぇえ?」
その後もアニエスの細かい質問は続き、何度も答えに窮したユカリは一度自室に戻り、授業ノートや電子辞書を取って来た。
普段はネットで調べるところだが、生憎ここは異世界でスマホの電池はとっくに切れている。
(辞書いらないと思ってたけどあって良かったぁぁ)
必死に調べて答えを考えるうち、いつしか落ち込んでいたことも忘れた。
児のそら寝の話が短かったため、もう少し長いものもと乞われて、授業で取り扱ったページを選び読み上げる。
「《門出。男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年の、十二月の二十日あまり一日の日の戌の時に、門出す。そのよし――》」
はじめに原文でなく現代語訳を読んだほうが良いかアニエスに訊いてみたが、ユカリ自身が意味を把握して読み上げる限り、精霊の耳飾りによって自動的に翻訳されて聞こえるため、原文で構わないと言われた。
もちろん、ユカリには意味がわかってもアニエスにはわからない、独特の概念や習慣については説明をしなければならない。
それでもアニエスはこの《土佐日記》について、《門出》《かしらの雪》《帰京》の三話を読み終えるまで、途中で口を挟まずに聞いていた。
「・・・優しくて悲しい文章ですね」
余韻を噛みしめるようにしばらく沈黙していたため、この隙にユカリは簡単な補足をしておく。
「これ、男の人が女の人のふりして書いた日記なんですよ」
「そうなんですか?」
アニエスは眠たげな瞳をわずかに見開いた。
「・・・ところどころ、自分のことを人のこととして書いているように感じられたのは、そのためでしょうか。あえて性別を偽らねばならない理由があったのですか?」
「えっと・・・タイム。調べます」
辞書を駆使してどうにか時代背景を説明した後には、また単語や解釈に対する質問が押し寄せる。おかげで試験の時よりもかなり深いところまで、ユカリは勉強させられるはめになった。
「――ありがとうございました。よく、わかりました」
満足したところで、アニエスは音読会を打ち切る。
怒涛の質問責めを乗り越えたユカリは額の汗を拭った。かなり疲れたが、妙な達成感が胸に満ちている。
「もしユカリさんさえ良ければ、今後も時々、本の内容を教えていただけないでしょうか。古典でなくとも、なんでも構いませんので」
「まあ・・・別にいいですけど」
「ありがとうございます。ユカリさんがいてくれて良かったです」
そこまで言われて、ユカリはやっと気がついた。
アニエスがはじめから、その言葉を与えてくれようとしていたのだと。
「――すぐに仕事に慣れることは、難しいと思います。今はできないことにどうしても意識が向いてしまうでしょうが、ユカリさんだからこそできることも必ずあります」
「・・・でも、本が読めたからって」
「自分の中ではささいなことが、他人にとても喜ばれることはよくあります。少なくとも私は、ユカリさんのおかげで本の中身を知ることができ嬉しく思いました」
夕方の柔らかな影の中にいる領主は、すべて許すような優しい眼差しをしていた。
「ここはまだ様々なものが足りない土地ですから、何かしてくださろうとする心が非常にありがたいのです。仕事のほうはゆっくりで構いません。どうかあまり気負い過ぎず、ここにいてください」
重ねて言い募る。
ユカリは知る由もないが、居場所のない辛さはエインタートにいる者の多くが心に抱えてきたことだ。
アニエス自身も例外ではない。己の無能さを嘆く日はほとんど毎日のことだ。そのたびに誰かに迷惑をかけ、助けを得ながら、どうにか生きている。
実際、ユカリの犯した失敗など大したものではない。よって少女が安心できるよう何度でも繰り返す。
「――」
ユカリは小さく頷いた。頷くことしかできなかった。胸が何かでいっぱいになり、言葉が出て来なかったのだ。
アニエスはカップに温かな茶を足し、ユカリが立ち直るまで、彼女に説明してもらったページを読み返していた。
こうして異界の少女はメイドの仕事の他に、夕方のわずかな時間、執務室で教科書の内容を領主に教える日々を過ごすようになった。




