54.古巣
図書の塔の古い扉を、そっと押し開ける。
幼い頃から通い詰めた場所であるが、久しぶりに訪れるアニエスは緊張していた。
中に入ると、慣れ親しんだ古書の香りに包まれる。目の前に開けた明るいラウンジと、視界の全方向にそびえる本の森。
今は午後の授業が行われている最中であり、学生の姿はあまりなく、一般来場者の姿がちらほら見える程度だ。
静かな空間は過去と何一つ変わらずアニエスを迎えてくれた。
ユカリがコルドゥラにも慣れてきたため、午後の調査には付き合わなくて良くなり、自由時間ができたアニエスは、図書館の師匠方への挨拶にやって来たのである。なお、すっかり魔力の尽きたリウは鞄の中に寝かせ研究室に置いてきた。
ラウンジをゆっくり奥へ進むと、受付カウンターに座る顔馴染みが、驚きと喜びの表情を浮かべていた。
「アニエス様!」
「お、お久しぶりです」
アニエスはついどもってしまった。司書のビアンカの声はよく通り、何人かが受付のほうを振り返った。
「急に、来てしまってすみません」
「そんな、いつでもいらしてくださいな。エインタートではとても大変でしたね。体調はお変わりありませんか?」
「はい、私は大丈夫です。エインタートも、嵐を経て少しずつ、復興が進んでいるところです」
「ご活躍は私どもも拝見させていただいてますよ」
ビアンカはカウンターの下に手を差し入れると、表紙に紺色の革が張られたスクラップブックを取り出した。
中には雑誌や新聞のアナグマ姫に関する記事が丁寧に張られている。アニエスは思わず下唇を噛んだ。
「こんなものを・・・わざわざ作られなくても」
「あら、我らが姫の勇姿ですもの。きちんと保存しておかなければ」
いたずらっぽくビアンカはウインクしてみせた。
そのうち、階上の司書たちも下りて来て、皆でアニエスを囲んで口々に再会を喜んだ。
図書館に勤める者はアニエスを子供の頃からよく知っている。特に学生時代はレギナルトに追われ、あるいは世間の注目に追われ、しょっちゅう図書館に逃げ込んでいた彼女を司書たちはいつも匿ってくれていた。
彼らは本をこよなく愛してくれる王女に、今も昔も格別な情を持っている。
アニエスにとっては恥を掻き集めたような記事の山も、彼らにとっては己らの姫の輝かしい記録に思えるのだ。それがわからないではないため、アニエスも記事を処分してくれとまでは言えなかった。
「――皆様、そろそろ」
司書たちとなかなか話の尽きないところではあったが、良いところでビアンカが区切りを入れた。
「お忙しい御身ですから、あまり長く引き止めてはいけませんよね。書庫のご老体方もアニエス様の来訪を心待ちにしていましたよ」
辺境伯が最も会いたいのが誰であるのかは、司書たちも熟知している。
アニエスは恐縮しながら、カウンター奥の扉の向こうへ潜っていった。
狭い廊下を抜け、短い階段を下り、ノックの後に中へ。そこには黙々と手元の作業を進める古書修復部の懐かしい面々がいた。
糊と革の匂い。かび臭さと陰気臭さが何よりも心落ち着いた。部屋は書庫の穴倉だが、アニエスは見晴らしの良い平原に立った時よりも解放された気分になる。
「お邪魔します」
懐かしい声に皆、一斉に顔を上げた。
中でも同じ顔をし、同じように腰の曲がったアウデンリートの双子の老師匠たちは、目尻の皺を殊更に深くして、傍に来た弟子の手を取った。
「お帰りなさい」
「ご無事でようございました」
先ほどまで鹿角のヘラを握り締めていた師匠らの手は硬く、指が少し変形している。修復士を目指し始めた頃から、いつも理想としていた勤勉な手だ。アニエスは目頭が一瞬熱くなった。
「・・・お久しぶりです。これまでご挨拶にも来れず申し訳ありませんでした」
「いえいえ、お忙しくされていることは聞いておりますよ。御身が健やかであることが何よりです」
「不幸の風にも、よう耐えられましたな」
声も表情もすべてがアニエスを労わっている。
まるで父のようなノーマンとフーゴの両師匠に話したいことは多く、何から言えば良いかアニエスは迷ってしまった。
「さて、白湯でもお出ししましょう。ゆるりとなさいませ。我らにエインタートでの冒険譚をお聞かせください」
ノーマンが言葉に詰まる娘を椅子に座らせ、フーゴが作業台を片付け、湯の用意をさせた。アニエスが匂いや味の付いた飲み物をあまり好まないことを、彼らはもちろん知っている。
(落ち着く・・・)
領主になってから気を張り詰める日々が続く中で、久しぶりにアニエスは心から気を抜くことができた。
「本日は、コルドゥラ姉様のもとへ異世界人を連れて来たところでして――」
まずは王都へ来た理由を説明し、アニエスはユカリに頼んで借りてきた彼女の世界の本を師匠方へも見せた。
ユカリによれば、その本は学生用の教材らしい。
紙質の良さや高い製本技術に古書修復部の面々は驚き、手に手に触って装丁の隅々までよく観察していた。この辺りの反応は、アニエスと似たようなものである。
「なるほど、第三世界のものですか。第三世界と言えば、のう」
「うむ。確かあったな」
双子の師匠たちは互いに頷き合うと、壁にずらりと並ぶ古書の棚から、一つ抜き取った。
牛革の装丁の、古書と言っても百年は経っていない比較的新しい本である。
「あったあった。こちらは第三世界の本を翻訳したものですよ」
「そんなものがあったのですか?」
アニエスもさすがに図書館の蔵書のすべてを把握していたわけではないため、いささか驚いた。
本には原文の異世界文字が横書きに記され、その上に見慣れたアニエスらの文字が表記されていた。
だがユカリの持っていた本の文字とよく見比べると、古書の異世界文字とはどうも形が異なるようである。
「国が違うのでしょうか」
「そうやもしれませんな」
「中身が読めぬのは残念ですなあ」
そうは言いながらも、師匠方は色の付いた絵や写真などから内容を想像し、最後のページまで丁寧にめくっていた。
その間、古書修復部の面々はアニエスに記事に書かれた話の詳細を求め、かわりにアニエスのほうも彼らに例の古書の話を求めた。
レギナルトが手に入れた二百年前の大賢者の手記のことである。
貴重な資料の修復はアウデンリート老師匠らが直々に行った。手記はメモ紙の束のようなもので、もともと頑丈な表紙が付けられていたわけでもなく、形を残していたこと自体が奇跡に近かったらしい。
いくらかページは失われているようだったが、幸いにも兄と姉が欲しかった情報が書かれた部分は、修復することで問題なく読むことができた。
他にも手記には異界の大賢者の日々の驚きや発見などの、ささやかな出来事が記されていたようだ。
それらを聞くにつれ、ますますアニエスは修復の場に立ち会えなかったことが悔しくなった。
「私も修復前の状態を見てみたかったです」
つい口にも出てしまい、皆にはそれでこそと笑われた。
「・・・こんなにも本に触れない日々を過ごすのは初めてです」
アニエスは恥掻きついでに、小さな愚痴も漏らす。
「穴倉の暮らしが恋しいですかな?」
「とても。――ただ、エインタートにも穴倉のようなものが一応。地下に書庫がありまして」
「ほう?」
地下書庫という響きに、老師匠まで少年のような瞳になった。
館の古書はまだ一冊も修復を終えていない。嵐の前日にページをばらして染み抜きをしていたものがあったが、その後に館の全部屋が避難所となったため地下へ戻し、それから触れる時間をなかなか取れずにいた。
(そういえば、古書の内容を調べようと思っていたんだった)
忙しさに忘れていた事柄が蘇った。
修復途中の古書には、エインタートでかつて行われていた祭事の手順と思しきことが書かれており、いつかエインタートが復興した際には失われた祭りを復活させようと、あの時修復を手伝ってくれていたルーに約束した。
(確か、『用意するものはペグオフィスム、黄金の酒、咲き始めのクムクムの花を身に飾った乙女二人、バンカロナの楽の音とともに舞わせる。あわせて土地の主がこれを唱える』――と、そこから先はスヴァニル語ではない言葉が続いていたっけ)
目にした文字はおおむね覚えている。学院で古語やその他複数の語学を修めたアニエスでも初見ではすべてを解読できなかった。また読めた部分についても、古語でペグオフィスムと称される供物の内容や、黄金の酒やらバンカロナの楽の音とやらもなんのことか判然としない。
まずは館にある古書の修復を完了し、最初から最後まで読み込まねばならないだろう。それでもわからぬものについては、この一五〇〇万冊の蔵書を誇る図書館に頼ればきっと突き止められよう。
(・・・まあ、しばらくは先の話だ)
修復はすぐに終わらない。復興もまだ道半ば。これから異世界人の世話もある。
よってアニエスはこの場ではそのことについて口にせず、大賢者の手記のさらなる詳細と、同僚たちとの思い出話に花を咲かせて一日を過ごした。




