51.学院
異界の少女と魔物を引率し、王都までの道のりをどうにかやり過ごしたアニエスは、姉の経営する王都のホテルで一泊し、翌朝にユカリを学院へ送って行った。
肩から離れないリウを引き剥がすことはすでに諦め、いっそ堂々としていることにした。王都に暮らしている者は魔物に遭遇することなどまずないため、ほとんどの者は珍妙なペットを連れているだけと見なすだろう。
当の魔物も見慣れぬ人間の街が珍しいのか、しきりに鼻を動かし落ち着かない。
異界の少女も、おおむね似たような反応だ。
「これがお城?」
馬車の車窓から見上げ、勘違いするのも無理はない。
広大な学び舎は相変わらず城のようにそびえ立つ。ちょうど鐘が鳴り響き、学生たちが校舎へ駆け込んで行く後ろ姿があった。昨年まで、アニエスはよく見慣れていた光景だ。彼らの背を横目に、馬車は常時開放されている門を通っていった。
「ここは学院です。様々な分野の学問を修める者と、学ぶ者が集う場所です。研究部はこの奥にあります」
「学校ってこと? さっき走っていった人たちは学生?」
「そうです」
「ここはなにを勉強するところなんですか?」
興味津々なユカリに、アニエスは丁寧に説明する。
「色々なことです。歴史、言語、文化、生物、魔物や異世界のことなど、ここで学べないことはほとんどありません。学生たちは自身の学びを深めたい分野の授業を好きに受けることができます」
「ふうん? ダイガクみたいなとこなんですね。やっぱ入るのに試験とか難しいんですか?」
「いえ、試験はありません。年間の学費さえ払えば誰でも入学でき、いつまでも在籍できます」
「マジで!? それって好きな時に入学して好きな時に卒業できるってこと?」
「はい」
「それいいなーっ! うちの世界でもそうならないかなあっ」
「ユカリさんの世界では、学校に入るための試験があるのですか?」
「うん、そう。入試とかほんとムリ。それがあると思うと、元の世界に帰りたくなくなるくらいムリ」
(そんなに嫌なら入学しなければ良いのでは)
アニエスはそう思ってしまうが、ユカリの世界の事情をよく知っているわけではないため、よけいなことは言わずにおいた。
スヴァニルの学院もさほど良い仕組みというわけではない。高額な金でしか入学資格を得られないということは、知を深められる者が富裕層に限られるということである。
ただし、見込みのある若者を支援する貴族や豪商もいれば、一般開放されている学院内の図書館を利用し独学で知識を得て、大成する者もいる。
そんな勤勉な者たちを、アニエスは幾人も前の職場で見てきた。
古書に記された偉大な先人たちの言葉を、未来の英雄にならんとする若人へ繋ぐ、それもまた古書修復士の大きな目的の一つなのだと考えていた。
研究部へ行く途中、噴水のある庭園を通ると、奥に図書館の塔が見える。アニエスは車窓を通し、目がそこへ釘付けになってしまうことを止められなかった。
愛しい古書の香りと、懐かしい同僚。敬愛なる二人の師匠も、書庫の穴ぐらに籠り励んでいることだろう。
(ユカリさんをコルドゥラ姉様に預けたら、少し寄ってみようか)
姉の結婚式で帰って来た時も、本当はここを訪れたかった。未練を完全に断ち切れているわけではないが、それでも今ならいくらか穏やかな心地で、師匠方に向き合える気がする。以前は、下手をすると顔を合わせた途端に泣き出してしまうかもしれないと、己のことながら不安だったのだ。
心の中で再会を楽しみにしつつ、まずは務めをきっちり果たすことを第一とする。
城のような学院の隣に併設されている研究部の入り口で馬車を降り、勝手知ったる顔でアニエスはコルドゥラの研究室を目指す。
階段を上り、右手奥がその部屋だ。護衛は廊下に待たせ、ノックの後に入室すると、頭の片側に剃り込みの入った姉が仲間と待ち構えていた。
「ようこそスヴァニルへ!」
両手をめいっぱい広げ、コルドゥラは異世界人を全力で歓迎した。
昨年の秋に会った時にはポニーテールにしていた長い黒髪が、耳の上まで短くなっている。
特に何があったわけでなくとも、不意に行われる姉の急激な気分転換だ。今回は丸坊主にまでなっていないが、頭の半分だけ髪が残っているというのは、より一層奇抜である。
さらに、これまでも時々つけることがあったピアスを耳と頬に刺しており、目元周りの化粧も濃く、あまりに押しの強い見た目に身内のアニエスですら慄いてしまう。
ましてや初対面のユカリは、路上でならず者に突如からまれたかのように、アニエスのローブを咄嗟に掴んで盾とした。それに合わせて、肩の上のリウまで背中の棘を逆立てる。
「・・・大丈夫です、ユカリさん。彼女は私の姉です」
「タイプ違い過ぎない!?」
「あー、もしかしてびっくりさせちゃってる? 気合入れてオシャレしてみたんだけど」
おかしいなあ、とコルドゥラ自身は至って悪気がない。
(ストレスが溜まって奇抜な格好をするわけじゃなく、やはりこれがコルドゥラ姉様のもともとの感性なんだろうか)
それならば、姉にはなるべく洒落っ気を出さないでいてほしい。アニエスは願うばかりである。
「ごめんなさい。私の名前はコルドゥラ・スヴァニル。ここで異世界について研究しています」
場を仕切り直し、コルドゥラははきはきと自己紹介を始めた。
「私があなたの調査をまかされました。ファッションには失敗しちゃったみたいだけど、どうか怖がらないで、ぜひお話しをさせてね。きっとあなたの力になるわ」
「・・・はあ」
話し出せば、姉の良識を備えた人間性が見えてくる。怯えていたユカリも、おずおずとアニエスの後ろから出てきた。肩の上ではリウが、ぎゃうぎゃうと奇妙そうな声で鳴く。
「そういえば、アニエスあなた何乗せてるの?」
ユカリを引き取りがてら、コルドゥラはリウを指した。その指にリウが噛みつこうとし、軽く避けられ前足がずり落ちる。
「・・・魔物です。なぜか付きまとわれてしまって」
迷ったが、姉には素直に白状することにした。なお護衛の兵士たちには珍種の獣ということでごまかしている。
「魔物を連れて歩いてるの? もうあなたが魔王みたいね」
姉はおかしそうに笑うが、アニエスは何もおもしろいことなどなかった。言うことを聞いてくれない魔物など扱いづらいだけである。
「調査で私がお手伝いできることはありますか?」
リウの首を掻いてやってなだめ、アニエスは姉へ確認した。
「いいえ、大丈夫」
「では、私はこれで失礼しても」
「え!?」
声を上げたのは、他の研究員たちに別室へ連れて行かれようとしているユカリだった。
「アニエスさん、いなくなっちゃうの?」
「あ、いえ、調査は時間がかかるでしょうから、知り合いに挨拶をして来ようかと。学院の敷地内にはいますので」
「えぇ・・・でも・・・」
また不安そうな顔をする。捨てられる子犬のような目で見られると、アニエスも困った。
「ここで待っててあげたら? それとも急用?」
「・・・急用ではありませんが」
アニエスの役目はユカリを姉に引き渡すところまでであり、本来は調査の終了まで待つ必要もない。ただ少し心配なため、ユカリの身柄がどうなるのかを確認するためにある程度付き合おうと思っただけなのである。
「まあ、早くこのフロアから出て行きたい気持ちはわかるけどね?」
「え?」
まるで図ったかのようなタイミングだった。
突如扉が蹴破られ、露出した首や腕のいたるところに刺青を彫り込んだ青年が、ポケットに手を突っ込み現れた。
今度は銀色をベースに、濃紺、紫、水色を差した髪に染め上げた六男、レギナルト。扉の前に控えていた護衛も彼のことは止められない。
紋章術を愛するがあまり、学院で教鞭を執るとともに新たな術の開発研究を推し進めている兄の、ここはまさしく縄張りだ。
アニエスもそのことは知っている。しかし今は授業中であり、兄が現れることはないはずだった。
「・・・れ、レギナルト兄様? どうして」
思わずぼやけば、セピア色の瞳に無言で睨まれる。
すると反射的に身構えたアニエスに呼応し、リウが背中の針を打ち鳴らした。
「っ、待って!」
「あぁ?」
叫んだが、魔物は止まらない。
針の先で火花が散る。リウが牙を剥く先にいるのは、レギナルトだ。
「ギャウっ!」
アニエスは急ぎ自身を覆うように風の壁を作るが、迸る青い光はそれを突き抜けた。
光は物に当たると派手に破裂する。この魔物と最初に遭遇した時のことを思い出し、アニエスは身を強張らせたが、過去が再現されることはなかった。
光はレギナルトの手前で、まるで何かに断ち切られたように脈略なく消えた。
続けてリウが放つ光もすべて、同じように消える。
(なに・・・?)
アニエスも知らない術だ。レギナルトはおもむろに片手をポケットから出すと、周囲に水を喚び出した。
水は一塊となって、アニエスの風の壁をこじ開け伸びてきたかと思うと、肩の上のリウを絡め取り、閉じ込めてしまう。
「ギャ、ヴァっ、ゥヴァヴァヴァっ」
鼻先だけかろうじて外に出しながら、リウは水塊の中で溺れている。いくら背中の針を打ち合わせようとしても、水の中ではうまくゆかなかった。
「ンだこれ。魔物か?」
レギナルトは睨む視線をそのままに、口の片端を凶悪に吊り上げる。
「出会い頭に魔物をけしかけるとは恐れ入るぜ。さすがは辺境伯閣下」
「滅相もございませんっ」
アニエスは急ぎリウを回収し、脱いだローブに包み隠した。
回復していない体で魔力を放出し疲れたのか、リウはぐったりしている。
(身構えてしまったのが悪かったのか)
宿主としているアニエスの異常な緊張を感じ取り、反射的に攻撃態勢になってしまったのかもしれない。思えばギギがユカリを連れて来た時も、リウは過剰に反応していた。
(もっと落ち着こう)
胸に手を添え、己に言い聞かせる。相手は天敵だが、兄でもあるのだ。
「・・・レギナルト兄様は、なぜこちらに?」
アニエスから会話を投げかけてみたが、対するレギナルトは顔をそむけ、誰かのデスク前の椅子にどっかと座る。
わざわざアニエスらから最も遠い部屋の隅を選び、妙な距離を取った。
「今朝は授業が入ってないのよ」
無言の兄のかわりにコルドゥラが会話を繋いだ。
「ほらレギー兄、この子が異世界人よ」
紹介しつつ、これ以上ないほど委縮しているユカリのほうへは「ごめんね、怖い人じゃないからね」とフォローを入れる。
レギナルトはユカリを一瞥したものの、小さく鼻を鳴らすだけだった。
(かなり機嫌が悪い?)
十中八九、己が原因であることを知っているアニエスは非常に気まずい。
コルドゥラは仕方のない兄に苦笑いを浮かべ、恐縮する妹に向かって言った。
「あのね、アニエス。レギー兄は紋章術を使って異世界にコンタクトを取る研究を手伝ってくれてるのよ」
「え・・・?」
アニエスは初耳だった。
以前はコルドゥラが横暴な兄の命令で、新たな紋章術開発の研究を強制されていたことは知っている。しかしその逆に、レギナルトがコルドゥラを助けているというのは意外過ぎた。
「レギー兄が空間を操る新しい精霊を見つけてくれたの。紋章術として人間もその力を限定的ながら使うことができる。これをもっと研究していけば、異世界と繋がる道を作れるかもしれないの」
コルドゥラたちの研究の最終目標は、異世界との自由な交流である。
そしてそれができるということになれば、うっかり落ちてきた異世界人を元の世界に帰すことも、おそらくできるようになるのだろう。
「それは・・・すばらしいことですね」
素直に、アニエスは感じたことを口にした。
「でしょう? ほらレギー兄、良かったわね。アニエスが褒めてくれたわ」
「・・・けっ」
レギナルト舌打ちを漏らし、やはり何も言わない。アニエスのほうも見ない。
長年、彼の世話係を務めているコルドゥラは埒が明かないと判断し、これ以上の口出しはやめることにした。
「――じゃ、私は仕事があるから、あとは二人で仲直りしてね。さあ行きましょう」
「あ、はい・・・」
内扉から隣の部屋に連れて行かれるユカリと研究員たちを見送った後、二人きりで残されたアニエスは、とりあえず来客用のソファに腰を下ろした。膝に置いたローブを広げ、そよ風でリウの濡れた毛皮を乾かしてやる。やはり魔力が尽きたのか、死んだように動かなかった。
兄もまた、部屋の隅から動かない。立ち去る気配はないが、かと言っていつもの調子でからんでくるでもない。
(仲直りしろと言われても)
レギナルトとは互いに価値観が合わないだけで、もとより喧嘩をしているわけではない。
ただこの不機嫌の一つのきっかけとしては、彼の敬愛するファルコの件を黙っていることが大きく関係しているのだろう。
せめてそのことだけでも謝罪したほうが誠実であろうかと、アニエスは思った。
「あの・・・ファルコ兄様の件については、詳細をお話しできず、申し訳ございません」
これにはレギナルトも反応を示した。
「――べっつに気にしてねえよ? どぉぉせ俺は嫌われてるし? お前が嫌がることしか、昔っからしてねえもんなあ? そりゃ、魔物だの従者だのけしかけられても仕方ねえし? 大事なことも教えてもらえねえよなあ」
「・・・」
アニエスは閉口してしまった。
(これ、不機嫌というか、拗ねてるのか)
いっそ懐かしくすらある。
レギナルトは気に入らないことがあると不機嫌になり、イライラが一定値に達すると怒鳴り散らす。そしてそれを周囲に非難され、結局思い通りにならない時間が長引くと、拗ね出すのだ。大人しくはなるが、実はこれが一番面倒くさい。学院にいた頃、アニエスが頑なに兄の仲間を集めた遊びやら飲み会やらを断り続けた時も、よくこうなった。
いつまでも子供のような情緒の兄である。子供の頃から感情乏しく生きているアニエスとは、どこまでも正反対だ。
しかしアニエスは、この兄の心をまったく理解できないわけでもない。
奇抜過ぎるファッションセンスは度し難いが、なぜ昔からアニエスの嫌がることばかりしてくるのか、理由はおおよそわかっているつもりだった。
「――兄様は、私の本に紅茶を零された時のことを覚えていらっしゃいますか?」
ファルコに会った時、呼び起こされた記憶だ。
十年も前のことで忘れてしまっただろうかと思ったが、レギナルトは鼻に皺を寄せ、
「忘れるか。あの時が最っ高にお前に苛ついたんだ」
心底不愉快そうに、吐き捨てた。




