46.黄昏
一日はあっという間に過ぎていった。
「――」
アニエスは鉛を埋め込んだように重い頭を持ち上げる。疲れ果て、夕陽が山影に沈んでゆく様を瓦礫の間でぼんやりと眺めた。
救助は完了した。体の丈夫な男性が多かったためか、死者はなかった。だが自力歩行の困難な重傷者が二十余名。軽傷は他のほぼ全員だ。
人も物もたった一夜の嵐で多大な損害を受けた。この数か月で進んだ工事がほとんど振り出しに戻っただけでなく、そこに費やした労力と資金がふいになり、人と機械を直すための費用が新たに嵩む。
黄昏の大地を前に、アニエスはやるせなさに襲われていた。
やっと形になり始めたものを見えざる手により破壊された無力感。まるで、何もかも無駄だったと言われているようだ。
「ギャゥ」
コートの端を引っ張られ、肩にリウが乗ってきた。せわしく動き回るアニエスは乗り心地が悪かったのか、これまでは周りをうろつくだけだったのが、落ち着いたと見て寄ってきた。
さらに視線を夕陽以外に向ければ、遠く暗がりの中、いつかの赤い瞳の群れが見えた。
ヌボーである。好奇心旺盛で悪戯好きの、牛馬より大きな魔物。なぜか森から出てきていた。近寄っては来ないが、崩れた家屋の様子を遠巻きに窺っている。
(なんだ?)
魔王の制御下を離れて出て来るとは何事か。
アニエスはにわかに緊張して群れを見つめていたが、やがて彼らは森へ帰って行った。
風が吹く。
夜の冷気は昼の名残りの熱を奪い去り、傷を負った人々を凍てつかせんとするのだろう。
アニエスは瓦礫の撤去作業していた皆へ声をかけ、館に戻ることとした。
◆◇
総勢八百人以上がいる館の前には、中に入りきれなかった人々のために天幕が設営された。ラルスからの救援物資の一つである。ローレン領の兵たちも今夜は警備として泊まり込んでくれていた。
公爵自身はアニエスの帰還を受けて、己の領地に戻って行った。彼はこの場でアニエスの指示の及んでいない部分を指揮してくれていたらしい。
本来、そうして全体を見渡し足りない部分を調整する役目は領主たる者の仕事であったが、どうしても現場で動かざるを得なかったアニエスにとって、ラルスが来てくれたことは結果的に助かった。
帰りがけでは十分に感謝を伝えられなかったため、また後日礼をせねばならないだろう。
ともあれ、今日のところは領民たちが優先である。
歩くたびに膝の抜けそうな足を気力だけで動かし、アニエスは食事を摂る間もなくランプを片手に怪我人たちの様子を見回る。
すぐに、看護の者が駆け寄って来た。
医師やその補佐にはローレン領の者、またそちらの避難所にいたエインタートの女性たちが来てくれている。中にはアニエスが領主となってからたびたび世話になっているローレン領の医師ディーター・エッカルトもいた。
「こちらです」
彼は小さな子を抱く母親のもとへアニエスを連れて行った。隣には右腕を吊っている父親もいる。
子供は五歳ほどの男児であった。人工灯の白い光を受けた顔が真っ赤であり、見るからに熱がある。エントランスの隅に作られた仕切りの中にはこの家族だけがいた。
「ただの風邪でしょうが、彼らを隔離できればと」
エントランスには大人数がひしめいている。そこに病気の者がいることは当然好ましくない。ましてやエインタートにおいて、高熱の症状はよけいに不安を煽るのだ。
アニエスも念のため、エッカルトに耳打ちした。
「例の、熱病ではないのですね?」
かつてエインタートの避難民の間で流行り、祖父と母をも殺した病のことだ。
だがエッカルトは「細部の症状が異なる」と明確に否定した。
「あの病が発生した時、私はまだ見習いの医師でしたがよく覚えております。あれは私の知る限りで最も恐ろしい。治療する暇もないほどの短時間で人を死なせてしまう、悪意のような病でした。いえ、病とはどれもそのようなものではあるのですが・・・」
エッカルトは短い髭をしきりに擦って、表現に苦慮していた。
いまだに原因不明である、かの熱病はおそろしい致死率を誇っていた一方で、感染力はあまりなく、はじめに発症した複数のエインタートの民以外には他へ広がらなかった。ゆえに原因も治療法も十分に検討することができなかった。あっという間に人を殺し、消えてしまったのである。
「・・・わかりました。少々お待ちください。空き部屋を確認します」
「申し訳ございません。お願いいたします」
「いえ」
アニエスはいったん場を離れた。部屋はどこでも自由に使うようにと皆に指示をしていたが、試しに己の部屋を確認してみると、ベッドが空いていた。さすがにそこに入ることはためらわれたのだろう。
アニエスはすぐに親子のもとへ戻り、自室へ案内した。
「ここはアニエス様のお部屋なのでは・・・?」
特に説明せずに連れて行ったのだが、母親のほうは部屋の位置や家具等の様子から察したらしい。
「落ちつきませんか」
父親のほうもまたそわそわしている。
「落ちつかないと言うか、アニエス様のお休みになるところは」
「私などは、どこででも。皆さんのほうが大事です。どうぞゆっくりお休みください」
アニエスは彼らのことを医師にまかせ、足りない寝具の調達へ赴く。
部屋を出る前に背後から大げさな感謝の声が聞こえたため、頷きだけを返しておいた。
それからも夕食のスープを飲む怪我人たちの間を回ったが、いずれもアニエスには暗い顔を見せなかった。アニエスが彼らを安心させたいように、彼らも年若い領主を安心させたいのだ。
だが傷だらけの笑みは痛ましく、また、笑いかけることもできず怪我の熱に浮かされている者の前では言葉も出て来ない。
「大丈夫、まだ、大丈夫です」
ロルフという、両足の折れた壮年の男性が、アニエスの手を強く握って同じ言葉を繰り返していた。
まだ、まだ、まだ、と。
アニエスは無言でそれを握り返し、最後にレーヴェの部屋へ向かった。
頭に包帯を巻いた彼女はベッドの上であぐらをかき、計算尺とノートや資料を広げていた。
アニエスの来訪には特に驚かず、姿勢だけ正す。
「具合はいかがですか」
「いくらか良くなりました。アニエス様は相当お疲れと見えますが」
さっそく言い当てられ、アニエスはやや気まずくなった。
「・・・それほど疲れて見えますか」
「いつにも増してお声に力がありませんので。どうぞお座りください」
主に椅子を勧め、己は立とうとするレーヴェをベッドの上に留めて、アニエスはやっと腰を落ちつけた。
足を休めたことで気が抜け、うっかりそのまま目を閉じてしまいそうになり、頭を振る。
レーヴェはその様子に何も言わず、主へノートを見せた。そこには被害額と修理費用の概算が早くも算出されていた。
彼女も怪我人ながら情報を集めて整理していたらしい。さらに費用の補完案も走り書きされていた。
「まずは国王陛下へ援助を乞うべきでしょうね。同時にニーナ記者を早いところ呼びつけて記事を書かせましょう。天災は避けられぬこと、ゆえに人々の同情を買うには良いネタです。世間の同情を煽れば国からの支援も多少は手厚くなるかもしれません。――魔乳の製品化もお姉様に急いでいただく必要があるでしょう。話題になっているうちに売り切ることができればこっちのものです。どうせ不幸を嘆くのならば、大衆の前で大々的に嘆いたほうが得かと思われますが、いかがでしょうか」
転べどもレーヴェはレーヴェだった。
このやるせない状況もすぐさま勘定に変えて考える。頼もしい限りの図太さだ。
アニエスも思わず頬が緩んだ。疲れ果てていたため、笑顔にはならなかったが。
「――はい。手札は有効に、ですね」
手段は複数思いつく。積み上げたものを崩されたとて、人があり、機械があり、資金も尽きたわけではない。完全にすべてが振り出しに戻されたわけではないのだ。
(まだ大丈夫)
諦めず、進み続ける。つまるところ、アニエスのやるべきことは何一つ変わっていない。
夜の間にレーヴェとの打ち合わせを済ませ、明日からの行動を頭の中で整理しながら、その日は浅い眠りに就いたのだった。




