44.息抜き
早朝。領主館のキッチンには、何か固いものを擦り合わせているような奇怪な音が響いていた。
大所帯の食事をまかされているヨハンとルーが起き出してくると、まず隅で蠢く黒い影を見つけぎょっとした。
「あ、アニエス様? どうされたんですか?」
すぐに影は黒ずくめの領主であることがわかり、ルーは驚きを顔に浮かべつつ寄っていく。
寝ているリウを首に巻いたまま、黒いコートを着込んだアニエスの手元にはごく細いナイフと砥石があった。
「本を修復するための、道具の手入れをしていました」
他にも広げられた革の道具入れの中に、弓鋸の刃を折って作られた幾本かのナイフと、片刃の小ぶりな革すき包丁がある。それらをきめの細かさに違いのある三つの砥石を使い、時折桶に汲んである水で濡らしながら丁寧に研いでいた。
「今日は時間があるので、地下の書庫にある本の修復してみようかと、思いまして」
「そういや王都では本の修理の仕事をされていたんでしたっけ?」
ヨハンが雑誌の内容を思い出して口にする。
アニエスは頷き、桶の中で砥石とナイフを軽くすすいで仕舞いとした。
「朝食の支度をされるのですよね。今、片付けますので」
「ああいや別に急がなくても」
「ちょうど終わったところです」
「あ、桶はわたしが片付けますよっ」
「お気になさらず。それより食事の支度をお願いします」
アニエスはさっさと桶を持ち、水を捨てに勝手口から出て行く。
思わぬ出来事にヨハンもルーもやや調子を狂わされたが、言われた通りに調理を始めた。
「うおっ」
しかし、包丁で肉を切り出したヨハンがおかしな声を上げた。竈に火を入れていたルーがその場で振り返る。
「どうかしました?」
「いや、なんか切れ味が妙に・・・」
そこへ空の桶を持った領主が戻って来たため、ヨハンはもしやと思い尋ねてみた。
「アニエス様、この包丁も研いでくださいました?」
「あ、はい。切れますか?」
「すげー切れます」
「それなら、良かったです。もし、他にも刃物があれば研ぎますよ。さすがに剣などは難しいですが、小さいものならきれいに仕上げられると思います」
「はー。職人みたいっすね?」
「一応、古書修復士は職人の一種なので。道具の手入れの仕方や、そもそもの道具を作るところから、はじめによく教わります」
「道具を? 自分で作るんですか?」
ルーが思わず訊き返した。
「自分の使いやすい道具は自分で作るしかありません。大抵は、一般の大工道具などを加工したり改造して使っています」
「あーわかる気がします、それ。俺らも武器は自分で使いやすいように手直ししますからね」
どの職業でも極めれば自分だけの道具というものができる。ゆえに手入れも自身で行わなければならない。手入れの道具に対してもこだわりは同様にあり、アニエスはこの三つの砥石に出会うまで王都のあらゆる店を巡った。
指先ほどの細さのちゃちなナイフさえも当人にとっては宝物の一つだ。これらがなければ、古書修復はままならない。
本日の領主業は定休日である。夜中にもまとわりつくリウのせいで多少寝不足ではあるが、久方ぶりに本に触れらることにアニエスは密かに高揚していた。
◆◇
朝食の後、アニエスは一階の空き部屋に、地下の本二冊と、作業台や修復道具を運び込んだ。
無論、一日で修復は終わらない。古書修復には水や接着剤を使用するため、必ず途中で数日から数週間の乾燥工程が入る。よって待ち時間が入るところまで今日は作業を進めてしまうつもりだった。
アニエスが最初に手に取ったのは、比較的薄い、手書きの本である。表紙の溝の部分から破れ、背が剥がれかけており、地下の書庫の中で最も状態が悪かった。古いためということもあるが、これがかつて最もよく開かれた本であり、それゆえに状態が他よりひどくなったのかもしれない。であれば、重要な情報が書かれている可能性が高い。
アニエスはまず、全面的に茶色く汚れた本をそっと開き、まだ字の読めるページの下にタオルを差し入れた。そして最初の文字に、スポイトで一滴、水を垂らす。
「それ何してるんですか?」
作業台に肘を置き、見学しているクルツがその意味を尋ねた。横には当然のようにルーもいる。
肩の上で器用に寝ているリウはこの際仕方がないとしても、本当は一人で黙々と作業したいアニエスだったが、朝食の際に本日の予定を念のため皆に伝えたことで、興味本位の少年少女に付いて来られてしまった。彼らも本日は休業日なのである。
「これは、インクが水溶性であるかを調べています」
「すいようせいって?」
「水に溶ける種類のインクであるかを確認しています。汚れたページは水に浸けて洗うのですが、もし水溶性のインクで書かれていた場合、文字が溶けて消えてしまいます。その場合は別の方法で洗浄することになります」
印刷された文字であれば特別気にすることはないが、手書きの本の場合はこの確認が重要だ。
本の書かれた年代、場所、また経年劣化したインクの色や匂いで、おおまかにその性質を当てることもできるが、それでもやはりこの確認は行う。幸い、今回はアニエスが予想していた通り、インクは水溶性でなかった。
よってその旨を紙に書き出しておく。本の情報や修復前の状態を記録し、施した処置について報告書を作成することは、修復士の仕事をしていた頃に染みついた癖のようなものだ。私的な修復作業の時もこれをしないと、どうも落ち着かない。
「何かお手伝いすることあります?」
ルーの申し出にアニエスは一度ペンを止めた。
「・・・私のことは気にせず、休んでいて良いですよ」
「アニエス様もお気になさらず。わたしが勝手にお手伝いしたいだけなのでっ」
「俺も飽きたら勝手に消えるんで。それまではなんか手伝いますよ」
ありがたいようなそうでもないような、二人の申し出を断る理由が特に思い浮かばず、アニエスはこれからばらばらにする本に、鉛筆でページ番号を書き込む作業を頼むことにした。
その間に記録を終え、道具の準備をする。
先に書き込みの終わったほうをルーから受け取り、背の部分を上にして、王都から持って帰って来た万力に挟む。
ページをばらすにあたり、先ほど研いだ細いナイフを使い、すでに剥がれかけている背革を丁寧に剥がす。多くの場合、修復の必要な本は背の両脇の溝に破れが入り、背革が分離されてしまっている。開閉の際、その部分に最も負担がかかるためだ。
接着に使われていた膠まで剥がせたら、折り丁を繋げている糸を切り、二つに畳んだ折り丁を薄い板の上に一枚ずつ置き、板ごとぬるま湯を溜めたたらいの中に沈めていく。
汚れた水をおよそ三十分ごとに入れ替えながら、この洗浄に数時間をかける。ある程度汚れが浮いたら、最後に薬剤を溶かした水に入れてさらに待つ。
待ち時間に、アニエスは王都で買った褐色の仔牛革を広げ、あらかじめ寸法を測っておいた本の形を革の裏側に転写した。
これが新しい表紙となる。
そもそも古書修復とはその本が作られた時代の型式で、なるべく同じ素材を使い、もとの形を再現することを目的とするのだが、アニエスが直したいエインタートの本はあまり良くないことに、表紙が羊革で作られていた。
羊革は柔らかいため破れやすく、長く保存したい場合には向かない。あえてもとの素材で作り直すよりは、保存性を優先させ、強度のある牛の革を使うほうが適当とアニエスは判断した。
広げた時の本の形よりも一回りほど大きくなるよう革を切断し、同時に修復作業を進行しているもう一冊のものについても切り出しておく。
そのうち洗浄が終わり、気づけばクルツの姿も消えた頃、板ごと取り出して水を切り、網を敷いた部屋の床に並べていった。網は煉瓦を足場にし、少しだけ床から浮かせてある。
「本の修理って時間がかかるんですねえ」
腕まくりをした手でルーが額を拭う。途中抜けることもあったが、結局ほとんど一日中、彼女はアニエスに付き合っていた。
「これは何が書いてあるんですか?」
洗浄したことで本の染みが抜け、文字が明瞭になった。しかし現代とは異なる字体と言い回しで書かれている古語であり、ルーには読めない。
アニエスは手元のページのはじめを軽く読み上げてみた。
「・・・用意するものはペグオフィスム、黄金の酒、咲き始めのクムクムの花を身に飾った乙女二人、バンカロナの楽の音とともに舞わせる。あわせて土地の主がこれを唱える。アウェ――?」
そこで読み上げを止めた。途中から不可解な言葉が連なっていたためだ。音として文字を読むことはできるのだが、単語になっておらず意味がわからないのだ。
「つまり、どういうことですか?」
ルーに重ねて問われるも、アニエスも十分に解説できない。
「・・・よくわかりませんが、何かの手順が書かれているようです。おそらく、宗教儀式のような。この、ペグオフィスムとは古語で供物という意味です。具体的に何を供物とするのかはわかりませんが」
例えば王都で毎年早春に行われる精霊祭というものでは、スヴァニル国民の信仰する自然界の精霊たちに、雌雄一対の馬を捧げる慣習がある。ただこの供物の内容は地方によって変化するものだ。
ルーに心当たりがないのであれば、これは現代で失われた祭り行事であるのかもしれない。
こうした伝統的な催しが消えてしまった地域も少なくはない。人々の信仰心の減退ということも一つあるが、五十年ほど前まで世界はまだ戦争を続けており、その影響であらゆる行事や催しが長く廃止になっていた時代に、小さな村などではやり方を覚えている者がいなくなってしまった、というのが大きな理由である。
しかし古い者はいざ知らず、若者はそこまで伝統的な行事とやらに執着はない。
「あんまり大したことは書いてないんですね」
要するに昔の祭りのやり方が書かれているのだと思ったルーは、その程度の反応だった。
アニエスとしても、もっと重要な情報が書かれていれば助かったのだが、これはこれで地域の文化を知れる貴重な資料となるだろう。
「・・・エインタートが復興したら、この内容を解読して、お祭りを復活させましょうか」
「それ良いですね!」
思いつきを口走ると、ルーからも賛同を得られ、明るい目標がまた一つできた。
板を並べ終え、ひとまず今日の作業は終了とする。と、それを見計らったかのように窓の外からひょっこりクルツが現れた。
「終わった?」
窓には鍵がかかっていなかった。クルツが両窓を思いきり開けて中に頭を突き出すと、同時に木枯らしが部屋に吹き込んだ。
「ギャッ!」
途端に、肩の上で寝ていたリウが鳴き出した。
そのけたたましさに急かされるように、アニエスは反射的に紋章術を発動させ、せっかく並べた折り丁が飛ばされぬように風を押し返す。ついでにクルツも「ぅおわっ!?」と外に押し戻された。
「あ、すみません!」
駆け寄ると、幸いクルツは窓枠に掴まり、転びはしていなかった。
「すみません、思わず。大丈夫ですか?」
「まあ、大丈夫っす。びっくりしたぁ」
「クルツが悪いんでしょ。早くどいて、窓閉めるから」
「はいはい。でもさっきまで全然、風吹いてなかったんだけどなあ」
おかしいなあと首を捻りながらクルツが離れると、ルーがさっさと窓を閉めた。
しかし風が止んでもリウだけはなぜか落ちつかず、左右の肩をぐるぐる移動する。
「・・・どうしたの」
と訊いてみたところで、魔物が説明してくれるわけでもない。しきりに空間の匂いを嗅ぎ、口を開けたり閉じたりするだけだ。
(なんなんだろう)
わけがわからず、アニエスはなんとはなしに窓の外を見上げた。
日は暮れ始めている。
クルツの言う通り、今日は一日風のない薄曇りの天気だったのだが、暗い雲がにわかに早く、空を流れていくようだった。




