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4.母の影

 弔いの宴も閉じた夜。

 家族団らんの広間より幾分狭い、二つの本棚と暖炉のあるカイザーの書斎に、アニエスは初めて呼び出された。

 場には四人の兄と、二人の姉、そしてディートリンデがいる。各々喪服のまま、立っていたり座っていたり好きな場所に身を落ち着けるも、いずれも視線は長椅子でじっと固まるアニエスに向けられていた。

 アニエスの目前の机に、問題の権利証などが入った箱が置かれている。

「確認しておくが、お前はこの話を父上に聞いていたか」

 正面の長椅子にカイザーが座る。アニエスはぼんやりした目で兄を見返した。

「・・・いいえ」

「一言もなかったのか?」

「はい」

「そうか・・・」

 カイザーは額に手を当てる。きれいに消えたと見せかけ、まんまと面倒を残してくれた父に、頭を痛めているようだ。

「・・・エインタートは」

 ゴードンが王国の地図をテーブルに置いた。死角から急に差し出されたため、アニエスは一瞬息が止まったが、気を取り直しその簡易地図を見る。

 ゴードンはぼそぼそ声で説明を続けた。

「五百年前、この地の豪族が開墾した土地だ」

 地図の北西の端を指先で叩く。スヴァニル王国が支配する地は西を向いた牛の横顔に似ており、エインタートは牛の額辺りの位置にあった。

「王国に併合された後は、エインタート辺境伯が統治していた。だが、度重なる飢饉から没落し、遠縁のシェレンベルク伯爵が跡を継いだ。しかしこちらも二十五年前に没落した。よって現在は王領となっている」

「ただし、領民は一人もいない」

 マントルピースに寄りかかり、イェルクが先を付け足した。

「日照り、地震、疫病と、色々な災難が重なって、暮らしていけなくなったそうだ。また運の悪いことに、領内の森に魔物が棲みついていたらしくてなあ」

「魔物?」

 アニエスは思わず聞き返していた。

 再びゴードンが口を開く。

「人が消えたことで魔物が森から出て来るようになり、領民の帰還ができなくなった」

「そう、確か《魔王》だとかいうものが占拠しているらしいなっ」

 カイザーの背もたれに腕をかけ、デュオニスが大声で話す。

「途轍もなく強い魔物だそうだ。なあ兄上、アニエスにやる前にまずは俺が討伐に行くが良いのじゃないか?」

「口を閉じろデュオニス。まだ議論する段階ではない」

「おっと失敬。話を急くは俺の悪癖だ」

 すまんとアニエスにも謝り、デュオニスは身を引いた。

 三度、ゴードンが説明を再開する。

「これまで二度、調査団をエインタートに派遣してきた。結果、領内を徘徊しているのは知能の低い魔物が多く、《魔王》なる者は森の奥に籠り滅多に出て来ぬことがわかった。いずれにせよ、領民が帰還困難な地であることに変わりはない。以上がエインタートの現状だ」

「・・・そうですか」

 アニエスはひとまず頷くしかなかった。

 災難に見舞われ続け、人の住めなくなった辺境の地。そんなとんでもない不良物件を十八歳の娘に相続させようという、父の真意に兄たちは首を傾げているのである。

「父上が、お前にエインタートを遺した理由に心当たりはあるか?」

「・・・」

 カイザーの問いに黙し、アニエスは箱の手鏡をおもむろに取る。

 明確な根拠はなく、自信もない、推測に過ぎないことを、まともに兄たちへ伝えるべきかを迷っていた。

「その手鏡にも意味があるのかしら?」

 するといきなり、エリノアの顔が真横に飛び出してきた。

「・・・っ!」

「何よ?」

 怪訝そうな眼差しに、アニエスは半身後ろによじった体勢のまま萎縮してしまう。この姉の目はどんな表情の時でもいやに力強いのだ。

 その怯えはエリノアにも伝わり、彼女は呆れたように、わずかばかり瞼を下ろした。

「大丈夫。何を言ったって誰も怒らないし、余計なことだとも思わないから」

「・・・いえ、でも・・・あまり、はっきりした話ではなくて・・・」

「それでいい。あなたの考えを聞きたいの」

 促され、アニエスはおずおずと十年前のことを話した。

「・・・もしかすると、母のいた場所なのでは、ないかと」

 これまで一度たりとも会ったことのない生みの母。アニエスは王都以外の場所を知らず、自我が芽生えた時にはもう王城にあった。

 どこで生まれたのか、誰から生まれたのか、母の名すら、何も知らない。

 そのことまで話すと、兄姉たちは呆気に取られ、しばらく誰も言葉を紡げずにいた。

 やがて、エリノアが腰に手を当て盛大な溜め息を吐く。

「なぜ、訊かなかったの」

 当然の問いだ。しかしアニエスは答えることができずに、うつむいた。

「そんなこと父様に訊けばすぐわかったでしょうに。父様もなんでこの子に教えてあげなかったんだか・・・」

 エリノアの口調に苛立ちを感じ取り、アニエスはほんの少しだけ顎を上げた。

「・・・おそらく、私が避けていたからだと思います」

「は? なに?」

 アニエスはぎゅっと唇を噛む。

 何度も誰かに言おうとして、どうしても言えなかった、ある推測が喉まで出かかり、やはり落ちていく。

 ところが、

「――知ってしまったら、出て行かなくてはならなくなるとでも思ったの?」

 暖炉の前に座る、ディートリンデが静かに言った。

 アニエスはそちらを凝視した。王妃は目を閉じたまま、腿にブランケットをかけ直す。

 何も話していないのに、賢母は何もかもを悟っている。そのことに気づいた時、アニエスの中で何かが溶けていった。

「・・・私は、父様の子ではないのかもしれないと」

 そして初めて、打ち明けた。

「母のことを、人に訊いたことはあるのです。幼い頃に一度だけ・・・素性の知れない女が突然城にやって来て、赤子を王に託して消えたと」

 誰に聞いた話だったかは、もうよくは覚えていない。おそらく八歳の誕生日の直後のことであったと、かろうじて記憶している程度だ。

 しかし衝撃だけは生々しく覚えている。

 父は優しい人だった。特に女には際限なく甘かった。男はその子が真に己の血を引いているかなどわからない。

 父は利用されたのではないか。

 その考えが、胸に頭にこびりついて剥がれなかった。

 女が城に留まり側室にならなかったのは、罪悪感からだったのかもしれない。あるいは事実が露見することを恐れたからかもしれない。

 自分には兄や姉、弟妹たちのような目を惹く器量もなく、特筆できる才もない。地味なアナグマのようでしかない自己を鏡で見つめるたび、ただの憶測に確信が募っていった。

 王女と呼ばれることに違和感を覚え、城での身の置きどころに悩み、追い出されたくないと願いながらも、早く出て行きたくてたまらなかった。

 そうして長い間、疑念に決着をつける勇気を持てずにいたのだ。


「――っの、バカ!」


 振りかぶった手を、エリノアが黒い頭に叩きつけた。その衝撃に眼鏡がずれ、首筋がじんと痛む。

「お前の中では、どれほどあの男が聖人君子となっているのでしょうね」

 眼鏡を直し、声のほうを見やれば、窓辺の席にあるクリスタから冷ややかな眼差しを向けられていた。

 そこに他でもないエリノアが「そうよ!」と勢いよく同意する。

「あんたって子は、本ばかり読んでるから間抜けな想像をするんでしょう。もっと現実を見なさい。あの父様よ? 他にまだ隠し子がいるって話のほうがよっぽど信じられるわ。王妃殿下には申し訳ないけれどね」

「良いですよ。今更」

 ディートリンデはやはり目を閉じたまま、静かに笑っている。

 かわりに、イェルクが声を上げた。

「あっぱれだアニエスっ。姉様方のご意見を合わせるなんて奇跡を起こすとは」

「はっ、明日は矢が降るなあ!」

「それだけ馬鹿なことを申すのです。もっとも、そう思いたい気持ちはよくわかりますが」

 デュオニスも、クリスタも、長年の悩みを鼻で笑い飛ばしてくれる。

 誰も疑いもしない。そのことに、アニエスは唖然としていた。

「・・・父上はエインタートへ視察に行かれたことがある」

 変わらず冷静なゴードンが、そっと話し出す。

「私が官職に就いたばかりの頃、二十年近く前のことだ。詳細はこれから確認せねばならないが、その時の記憶が正しければ、シェレンベルク伯には娘が一人いたはずだ」

 それを聞き、カイザーの片眉が上がった。

「お前が供を務めたのだったか?」

「いえ。ご帰還になられてから報告書を読みました」

「よくも覚えているものだなあっ」

「待てよ。私も父上に聞かされた覚えがあるような・・・」

 カイザーもまた思い出そうと首を捻る。が、結局は何も出てこなかった。兄たちにとって、妹や弟は気づけば増えていたもので、いちいちその出自を確認していたわけではない。彼らには他に覚えるべき仕事が山ほどあったのだ。

 カイザーたちが薄情なのではなく、ゴードンの記憶力が優れているのである。

 不安と期待がないまぜになった妹の瞳を受け止め、彼は結論を告げた。


「ご遺言の内容から察するに、お前はシェレンベルク家の血を引いている可能性が高い」


 アニエスは目を閉じた。ゆっくりと、兄の言葉を飲み下してゆく。

「早い話が、エインタートをシェレンベルクに返そうということだなっ」

「男の子孫は残っていないのでしょうかね? ご遺言とはいえ、さすがにそのままアニエスに継がせるわけにはゆかないのでしょう?」

「当たり前だ。未婚の婦女子が領主になるなどありえん。しかも領民もない、荒野同然の土地の」

「父上は何をお考えだったのでしょうねえ。一千万ガルは復興資金のおつもりでしょうか・・・」

 兄たちが口々に言い合うことを片耳に聞きながら、アニエスは黙して考えていた。それは父の真意ではなく、己の今後のことでもない。純粋に、浮かぶ疑問。


「――失礼。兄様、ちょっと傲慢じゃなくって?」

 するとエリノアが、辛抱ならなかったように口を出した。

「父様のお言葉をないがしろにし、目の前にいる本人を無視して、なぜ勝手にお話を進めてらっしゃるの?」

 研ぎ澄まされた眼光が、カイザーを射抜く。すでに戦闘態勢に入っていた。

「まさか、女に領主が務まらないとでも? 妻に領地経営をまかせ、遊び歩く無能な男が世に蔓延っているのに? 言っておきますけど、金の使い方なら女のほうがよっぽど賢明ですわよ」

「・・・女に能力がないとは言っておらんよ」

 カイザーは少しばかり腹に力を込めた。そこらの将兵よりも豪胆な妹と対峙するための身構えだ。

「だが、アニエスはお前ではない。エインタートの復興は何年もの間、実現できずにいる難事なのだ。それを父上のご遺志だからと、無責任に妹へ押し付けられるか」

「では、あと何年で復興できますの?」

「それは、まだなんとも言えん」

「呆れた。要するに、誰もやる気がないのではありませんか」

「そうではない。そうではないが、問題は常に一つではないのだ」

 今のスヴァニルが豊かな国であることには違いないが、資源も金も無限には存在しない。ほんの五十年程前にも一時、王国全体が経済危機に陥り、倹約令で国のあらゆる行事や祭りを廃止した暗い時代があった。

 人口が増え、社会が進歩してゆくごとに問題は波のように生じてゆくのだ。

「兄様たちがそのざまだから、父様はアニエスにまかせたくなったのではないかしら」

 しかし有能な経営者には、カイザーらの怠慢であるようにしか思えない。

 どこまでも挑発的な妹に、さすがの長兄も苛立ちを覚え始めた。

「・・・アニエスに何ができる」

「さあ? 兄様には何ができますの?」

 とうとうカイザーは大きな溜め息を吐いた。そうして、今度はアニエスを見据える。

「お前は、エインタートを相続する気があるのか」

 その地の惨状を聞かされた上で、促される意見。兄の欲している答えも、姉の期待している言葉も容易く察せられたが、アニエスはまったく別のことを口走った。

「・・・母はなぜ、私を城に置いていったのでしょうか」

 直後に、目を伏せる。

「申し訳ございません。今、私は、そればかりを考えておりました」

 ゴードンの推測通り、伯爵家の娘が母であったとして、確かに国王が父であったとして、アニエスが悩むのは母が城に留まらなかった理由であり、まだ、領地を継ぐ云々の話は頭に入りきっていなかった。

「・・・そうだな。急に決めろと言われても難儀な話だろう」

 イェルクが場を取りなした。が、

「ではでは~、実際に行ってから決めてはいかが?」

 ノックもなく書斎の扉が開き、何人かが床に倒れ込んだ。扉に耳を当てていたところ、急に開けられてしまったようである。

 よく見れば、倒れ込んだのはシャルロッテにグレーテに、コルドゥラだ。それらの塊の横を回り、六女のシンディが軽やかに傍へやって来た。

 エリノアと同母の妹にして、姉と同じ緑がかった髪色の陽気な淑女。フィーネの一つ下の二十七歳。外交官の妻であり、よく夫に付いて国内外を旅している彼女の華奢な指先に、チケットがひらひら揺れていた。

「ラティルまで飛行船で行って、列車に乗り換えれば一日で隣のローレン領に着くわ。はい、飛行船のチケット」

 アニエスの手元にそれを落とす。

「十日ほど仕事のお休みをもらってらっしゃいな。宿はローレン領主の館にお世話になれるよう手配しておくわ。領主のラルス公爵はとっても気さくな良い方よ。ちょっと軽いところがおありだけれど。だから独身なのよね、きっと」

「待てっ、待て!」

 立て板に水のごときシンディを、カイザーが慌てて止めた。

「勝手に話を進めるな!」

「あら~、何も進めておりませんわよ? これはアニエスの問題ですもの。でも私、思いましたのよ」

 シンディはカイザーに向けて話しながらも、目線はアニエスを正面に捉えていた。

「父様が詳しいことを書き置きされなかったのは、アニエスに直接見て、聞いて、知ってほしかったからじゃないかしら、って。ですから私、ささやかな手伝いを申し出てみましたの」

「シンディ、でかしたわ」

「お褒めに与り光栄です♪」

「この姉妹はぁ・・・っ」

 カイザーは呻き、アニエスは戸惑う。

 チケットを両手で持ったまま、この場での正しい返答を求めて、入口で成り行きを見守っているシャルロッテたちまで見回した。

「人の顔色ばかり窺わず、お前自身で考えなさい」

 その時ぴしゃりと、クリスタの声が狼狽える者を打った。アニエスは思わず瞬きをする。

(・・・私が考える?)

 未婚の女領主など聞いたことがない。特例として、未亡人となった妻が適当な後継者がない場合に代理領主となることはあるが、それ以外では、伝統を重んじる姉がとても許容し得るものではないはずだ。「考えろ」ではなく、「考えずとも」わかるだろうと脅されるほうがしっくりくる。

 単なる言葉の綾か、しかしアニエスは改めて箱の中を見てみる。

 土地の所有権を表す権利証、それをアニエスへ譲渡する旨の証書がすでに王印を押され、そこにある。後はアニエスがサインさえすれば完成する。

 十八歳は法的に成人であるため、後見人も必要としない。書類に名のない者は何人たりとも、これを勝手に処分することができないのである。

 ゆえに、兄も姉もこの頼りなげな妹に問う。

 アニエスは、こくりと喉を鳴らした。

「これが、私自身で決断せねばならないことなのでしたら・・・どうかもうしばらく、考える時間をください」

 カイザーにやっと懇願するのが、この時のアニエスには精一杯だった。

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