42.留守の間の客
「おっかえり~!」
丸一日をかけ、昼前に王都からエインタートへ帰還したアニエスらを、領主館の門前でクルツが待ち構えていた。
馬車から降りる主に手を貸したところだけは良かったが、言葉遣いに明らかな間違いがあったため、すかさずその頭に手刀という形でルーの指導が入る。
「復唱。『お帰りなさいませ領主様』」
「はいはいお帰りなさいませ領主様」
うるせえなあと言外に本音をひそませつつ、クルツはなおも浮かれていた。そのきらきらしい眼差しには、王都土産への期待が込められている。
アニエスも少年の意図は察知していたものの、そんなことより館の様子のほうが真っ先に気になってしまい、相手にする余裕がなかった。
「お帰りなさいませ」
門前にはクルツの他、レーヴェやトリーネまでなぜか突っ立っていたのだ。
「どうしたのですか?」
尋ねながら館のほうに目をやれば、エントランスの扉や一階の窓が見える部分は残らず開け放たれており、しかもセリムら害獣駆除隊が館の内外で何やら慌ただしく駆け回っている。明らかに様子がおかしい。
だが冷静な会計士はあくまでも淡々と状況を報告してくれる。
「早朝から館に侵入している魔物を駆除隊が追っているのです」
「魔物が? なぜ?」
領内の魔物がすべてギギの支配下に置かれて以来、棲みかである北の森付近ならばともかく、領主館の周辺で魔物の姿を見たことは一度もない。
寝て覚めてはケーキを貪り、館を破壊するばかりのギギだが、約束した魔王の役割だけはきっちり果たしてくれていたのだ。
(彼女が支配できない魔物がいる?)
一瞬不安がよぎったが、杞憂であることはすぐに判明した。
「昨日、領外から届けられた工事資材の中に件の魔物が紛れ込んでいたようです。すでに運送業者には抗議文を送りつけておきましたので」
「そ、そうですか。北の森の魔物ではないのですね」
「はい。あの魔物学者が言うには、この辺りでは生息が確認されていない種類の魔物だそうです。現在のところ怪我人は出ておりませんが、駆除にかなり手間取っております。お疲れでしたら作業員用の仮設住宅ほうで今はお休みください。場所はあけていただいております」
「そうですか。諸々、ご対応ありがとうございます。大変でしたね」
レーヴェの手回しはさすがに早く、破損してはまずい重要書類の避難などのこともすでに終えていたらしく、アニエスが追加で頼むことは特になかった。
「魔物はたくさんいるのですか?」
「いえ。小さいのが一匹だけですが、非常にすばしっこいようです」
「逃げるのにどうしてか館の外には出ていかないんですよ。窓も扉も全部開いてるんですけどねえ」
トリーネは言いつつあくびを噛み殺す。以前はローレン領から通っていた彼女も、本格的に工事が始まってからは領主館に住み込みをしてもらっている。よって早朝の魔物騒ぎで叩き起こされ、寝不足のようだ。
(よその土地の魔物まで来なくていいのに。しかも出張から帰って早々)
アニエスは疲れた面持ちで災いの絶えない館を見上げる。またどこかしら壊されるのかと思えば、修復費を考え始めて憂鬱な気分になった。
「ファニにまかせろっ。すぐに仕留めてやるっ」
事情を把握できた彼女がさっそく荷物を地に捨て、背中の長銃を取る。王都で弾と火薬を買い足し、魔物退治の準備は万端なのだ。しかしまったく安心はできない。
「敷地内で発砲しないでくださいね」
念のため注意すれば、「あ、そっか」と初めて気づいたような顔をする。やはり彼女らにまかせきりになるのは良くないのかもしれなかった。
アニエスは一つ息を吐く。
「リンケ先生はどちらに?」
「先ほど裏庭のほうで捕獲用の罠を作成しておりましたが」
「それなら私も手伝わなきゃ」
獣害対策では罠作りを担当しているネリーが真っ先に行った。
「なあ、お土産はー?」
ぶつくさ漏らすクルツのことは再びルーが手刀で黙らせてくれたため、アニエスも状況を確認するべく裏庭へ向かった。
「あっ、アニエス様お帰りなさいませっ」
リンケは駆除隊の罠師たちとともに木材と針金を組み、箱罠を作成していた。寝不足の事務職員たちとは対照的に、水を得た魚のごとくやたらに活き活きしている。
彼女の足下にある、両側に出入り口の付いた細長い檻はあまり大きなものではなく、イタチのような小動物を獲るものに似ていた。
「魔物はその檻に入るほど小さいのですか?」
「そうなんですそうなんです、《リウ》なんですよ!」
「え、あの世界一小さい魔物という?」
「そうです!」
リンケ著作の魔物図鑑に出てきていた絵を思い出し、アニエスもつい心を惹かれた。
北の森にいる首長のニュクレや、巨大トカゲのシヴラトなど魔物は大型のものが一般的なのだが、リウという魔物は子犬より小さい、珍しい魔物なのである。
体は細長くイタチに似ているが、背中には針のように固い毛が生えており、それを打ち鳴らして火花を散らすという。図鑑では全体が青い色で塗られていたことをアニエスは思い出した。
(ちょっと見てみたい、ような)
もともと魔物や精霊などの話には興味があり、王都にいた頃もよくその類の本を読み漁っていた。非常事態ではあるものの、安全が確保された後であれば、じっくり観察してみたいと思う。
しかし、いかに小さくとも相手は魔物だ。油断はできない。
館の中からは騒がしい足音がずっと聞こえている。障害物の多い室内では、仕留めるにも捕らえるにも苦労が多いのだろう。まだ怪我人が出ていないことは不幸中の幸いだが、果たして家具や壁はどれほど無事であろうか。
「その罠でリウを捕らえられるのですか?」
事態収拾に向けて、学者お手製の罠がどれほどの効果を発揮する見込みなのか確認したかったのだが、
「さあ?」
リンケの答えはアニエスの期待するものに程遠かった。
「私も生きているリウを見るのは初めてですし。当然捕まえたこともありませんので」
「これ、ただのイタチを捕まえる罠ですよ」
ネリーが補足してくれる。そもそも魔物を罠で生け捕りにすることは基本的にしないのだ。
(・・・しばらく解決しなそう)
アニエスが長期戦を覚悟したその時だ。
何か、聞いたこともない音が頭上からした。
「落ちたぞ!」
遅れて誰かの叫び声が聞こえ、直後にアニエスは頭部に衝撃を受けた。
思わず膝をつく。落ちてきた何かは妙に柔らかい。そして生温く、生臭い。アニエスの髪に滑り、肩に落ちるとローブに小さな爪を引っ掛け、そのままぶら下がった。
そうして左肩に取りついたものは、青い毛と白い毛の入り混じったイタチ様の獣。
一本一本が人差し指よりも長い、鋭く硬質な半透明の針が背中に幾本も生えている。それが他の柔らかそうな毛とともに逆立ち、アニエスに対しては牙を剥いて威嚇していた。
「リウーっ!」
アニエスも誰も突然の事態に動けずにいる中で、一人、目を輝かせるのはリンケだけだ。
そこへ、長く魔物と追いかけっこに興じていたジークやセリムら駆除隊たちも合流する。
「離れろ!」
息を弾ませて来たジークが、まず非戦闘員の者たちを下がらせた。
「そのまま動かずに。今すぐにお取りします」
アニエスはかろうじて頷きを返した。
魔物を刺激しないよう、ジークらは慎重に近づく。しかし、肩の魔物は一層激しく、アニエス越しに彼らを威嚇する。
「待って」
早めに危険を察知したセリムが、前にいるジークの腕を引いた。魔物相手ならば彼らのほうが経験があるため、ジークもそれに素直に従う。
二人の背後では他の駆除隊員たちが銃やボウガンを構えており、魔物がアニエスから離れて逃げ出せばいつでも仕留められる態勢でいた。
しかし、一向に標的は離れない。
魔物が肩の上を移動するたび、服の生地を挟んで鋭い爪の存在を感じ、アニエスは緊張で息を呑んだ。
(なんで逃げない?)
散々逃げ回っていたくせに、この状況はまるでアニエスを人質にとっているかのようだ。まさかそんな知恵を持っているはずがないと思うが、どうにもわからない。
魔物は収まりの良い場所を探して何度も位置を変えた結果、肩の上に後足二本を引っ掛け、前足を頭の上に乗せる体勢でいったん落ち着いた。
アニエスの左耳には柔らかい腹毛が当たり、ひどく速い心音が聞こえる。
(・・・何か苦しそうな)
息も荒い。外傷を受けた様子はないが、長く追い回されたせいだろうか。
その時、魔物の前足が髪に滑って体勢が崩れた。
すかさずジークらが間合いを詰める。が、魔物はそれを許さなかった。
―――ビィィイィィ。
虫の羽音のような、あるいは金属が共鳴しているような、先ほども頭上から聞こえた音がまたしたかと思うと、視界の端で火花が散った。
「っ、離れて!」
警告と同時にアニエスは風の防御壁を周囲に展開させた。
壁の内部で青い光が無数に走る。それが風で舞い上がった土埃に当たると、爆音とともに破裂した。
紋章術では防ぎきれなかった。内にいたアニエスも外にいた他の者も、閃光に目を閉じ衝撃に身を伏せた。
「っ――ぅ」
辺りから焦げた匂いがする。体に痛みはないが、鼓膜が痺れた。
それでもなんとか無事だったアニエスは、周囲の状況確認のため急ぎ身を起こす。
すると、肩に取りついていたものがずり落ちた。
「・・・?」
身を捩って見れば、白い腹毛を無防備に天へ向け、目と口を半開きにした魔物が地面の上にある。逆立っていた毛並みはすでに勢いをなくしており、細長い胴体や四肢を投げ出し動かない。
(・・・死んだ?)
と思ったが、わずかに腹の辺りが上下している。生きてはいるが、気を失っているようだ。
「アニエス様!? ご無事ですか!?」
心配する声が聞こえ、呆けていたアニエスは状況を思い出し、風の壁を消した。
同じく無事な様子の周囲がわらわら駆け寄る間も、魔物は目を覚まさない。興奮気味の魔物学者に手足を引っ張られ、いじくり回されても同様だった。底まで体力の尽きた幼子のようにまるで反応しない。
安堵よりも、拍子抜けといった心地だ。
(なんだったの・・・?)
突如騒動を起こし、あまつ勝手に倒れた迷惑な客をどう処置したものか。
一息つく前にアニエスは考えねばならなかった。




