41.帰郷
生まれてはじめて故郷を出て六日間。
往来の激しい王都の道の端に寄り、革製品を扱う店の前で青空を見上げていたルーは、本日、何度目にもなる憂鬱な溜め息を吐き出した。
「・・・どうしたの?」
右隣で同じようにして主を待っているネリーが、さすがに様子を窺う。ルーは年の近い彼女とこの出張の間にずいぶん打ち解けた。よって、遠慮なく溜め息が漏れ出すのである。
「腹減ったのか? じゃあ肉喰え」
「ううん、いらない」
露店の肉串を買い食いしているファニの不要な気遣いをすげなく断り、また溜め息を吐く。
「なんなの? もしかして、まだ帰りたくないとか? どこか寄りたいところがあるなら、アニエス様に言えばきっと寄ってくださると思うけど」
「ううんっ、違うってばっ。私じゃなくて、アニエス様が・・・」
「アニエス様が?」
言おうかどうかを迷った末、結局ルーは耐え切れず不安を吐き出した。
「ねえっ、アニエス様はちゃんとエインタートに帰ってくださると思うっ?」
ネリーとファニは大いに首を傾げた。
「そりゃあ、帰るでしょ。だってこれから帰りの飛行船乗るわけだし」
「直前で気が変わったりしないっ?」
「変わんないと思うけど、なに? 急にどうしたの?」
「だって・・・ネリーもファニも、わかったでしょ? アニエス様は、たくさん、たくさん無理をされて、エインタートに来てくださったんだって、こと」
ルーは、これまで王都でのアニエスのことをほとんど何も知らなかった。
はじめにローレン公爵の別邸にアニエスがやって来た時、ルーは当然のように彼女が領主になるのだと信じていたし、一度領主にはなれないと言われても、心の隅では、でもきっと引き受けてくれるはずと思い、実際、間もなくその通りになった。
ルーたちにとって故郷はエインタートの地しかない。いつしかアニエスにとってもそうなのだと思い込んでいた。
だが、それはまったくの見当違いだったのだ。
「・・・アニエス様、本を直す人になりたくて、なったんだって、おっしゃってた。でもエインタートに来るために好きなお仕事を辞めてしまわれたのよ。それに王都には、優しいお兄様やお姉様、可愛らしい妹様や弟様もいるのに、その方々とお別れしなくちゃいけなかったのよ」
「めちゃ避けてたニイサマもいたぞっ。あれと別れるのは嬉しいじゃないか?」
「そうかもだけど」
結局、六男の接近は水際で阻止し、式が終了した後も今日まで主の無事は確保された。
それはともかく、とルーはさらに言い募る。
「新聞に悪いことを書かれるのは、アニエス様が領主になられたからなのよ。アニエス様は最初、領主にはなれないっておっしゃってたもの。なりたくてなったわけじゃないのに、アニエス様はそんなふうに言い返したりしないの。わたし、悔しいよりもずっと、申し訳なくて・・・」
言葉にするうち、瞳に涙が溜まっていく。昔からルーはどうにも泣きやすい性質だった。
「わたしたちは、アニエス様からたくさんのものを奪ってしまったんじゃないか、って・・・王都に帰って来て、アニエス様がもうエインタートに行くのが嫌になってないかな、って」
「あー・・・」
ネリーはどう返したものか迷い、ファニに目配せしてみたが、そちらは肉に噛みつきぽかんとしている。少女の泣き出した意味がわからないでいるらしい。
頼りにできないことを察し、仕方なくネリーがルーの頭をなでてやった。
「私らは途中参入だし、もともとエインタート民でもないから、あんたの気持ちもアニエス様のお考えも、ほんとのところはわかんないけどさ・・・大丈夫なんじゃないかな」
なるべく明るくネリーは言った。
「だって路頭に迷う寸前だった私たちのこと、懐に入れてくれたんだもん。きっと、見捨てるほうがつらくなっちゃう人なんじゃない?」
そんな話をしているうちに、話題の主が細々した買い物を終え、店から出てきた。
すぐに泣いているルーを見つけ、ぎょっと目を瞠る。
「どうしたんですか?」
「あー・・・っと」
「なんでも、なんでもありません!」
ネリーが答える前に、ルーは涙を拭った。
不安になってしまったことを本人に話そうとは思えなかった。もしアニエスが王都に残りたいと思っているのならば、自分の泣き言はさらに主を苦しめるだろうと、ルーなりに配慮したのである。
「ちょっとゴミが、目に入ってしまっただけです。ご心配なく!」
「大丈夫ですか? 目薬などは」
「いりません! 平気です!」
「そう、ですか」
ルーのむやみやたらな勢いに気圧され、アニエスはそれ以上何も言えなくなった。
通りに停めた馬車に新たな荷物を加え、従者の三人とともに乗り込む。
「皆さん、他に寄りたいところはありませんか? まだ出発まで少しだけ時間がありますが」
「んー、いえ、私は特に。じゅうぶん楽しませていただきました。ファニも、いいわよね?」
「ん!」
「わたしも、大丈夫です。それよりアニエス様のほうは」
自然、窺う眼差しがルーは心細げになる。
それをアニエスは普段どおりの眠たそうな瞳で受けていた。
「私の買い物はすべて済ませましたので。では、早めに発着場へ向かいましょうか」
御者に目的地を告げ、流れる車窓を眺める主が急に行き先を変えはしないか、ルーは落ちつかなかった。もしそういうことになったとしても、今の自分には止める言葉が浮かばない。そもそも止める権利もない。どうしようもなかった。
だがその時、滅多に笑うことのない主の頬が、不意に緩んだ。
ほんのわずかな動きであり、じっと見ていなければわからない程度の変化だろう。そのため、隣で見つめていたルーには気づけた。
「・・・アニエス様? 何かありました?」
訊かれた当人はひどく驚いていた。そしてやや気まずそうに、口元を右手で隠す。
「いえ、なんというか・・・やっとエインタートに帰るのだと思ったら、少し、おかしくなってしまって」
「何がです?」
「私は、王都に行く時も《帰る》と思っていました。同じように、エインタートに行くのも私にとっては、《帰る》ことになるのだなと・・・まるで故郷が二つあるようで」
「――」
しみじみ呟く声に嘘はない。
頭の中に自然と浮かんだ言葉に、どんな偽りが紛れ込めるというのか。
すかさず、向かいに座るネリーがルーの足を蹴飛ばした。
「ほらね。大丈夫でしょ」
「――うん!」
安堵したように笑い合う少女らに、アニエスだけが怪訝そうにしている。
だが気を回し過ぎてしまう彼女は、おそらく自分が詮索すべき事柄ではないのだろうと勝手に察し、掘り下げようとはしなかった。
常に人に対しては一歩引き、積極的に輪に入りたがらないルーの主人だが、エインタートを故郷であると、確かに認識してくれている。
はじまりは強引だったかもしれない。成り行きだったのかもしれない。単に断り切れなかっただけなのかもしれない。
気弱な領主は、王都の女社長のように力強くはなく、国王のような威厳に満ちているわけでも、風来坊の王弟のような不思議な魅力で皆を引っ張っていくような人でもない。
ただ、途方に暮れる者に手を差し伸べてくれる。道とも呼べぬ悪路を共に歩いてくれる。途中で何が出てきても、立ち止まることがあっても、ルーたちを置いて逃げたことはない。いつも必ず解決の鍵を引き寄せてくれた。
(見捨てられるかもなんて、よけいな心配してる暇があるなら、ちゃんとアニエス様に付いて行って、もっとお役に立つことを考えなくちゃ)
エインタートの復興は、領民の一人一人が領主と共に望みに向かって歩むからこそ、果たされるものなのだ。
そのことを思い出し、ルーは心の内で主への感謝と忠誠を新たにした。




