32.販路模索
「では採取は可能なのですね」
「はい」
昼に館へ帰還し、アニエスは執務室でさっそくレーヴェと打ち合わせを始めた。
午前中に命がけで乳を集めてくれたセリムらには、下でゆっくり休んでもらっている。
「ニュクレたちの主食は草で、冬は常緑樹の葉を食べているそうです。よって飼料などは特に必要なく、魔物ですから牛馬と違い獣害に遭うことも稀で、森や平原に放し飼いにしておけます。母乳は一年中採取が可能だそうです。今回は一頭からひと瓶分が採れました」
アニエスは机に置いた、蓋つきの瓶を指す。半透明な魔物の乳が、一リットルほど満杯に入れられていた。
中身は一度火にかけ消毒してある。レーヴェは「失礼」と瓶の蓋をあけ、手のひらへ垂らし味見した。
「――頭数はいかほどで?」
「先生の調査によればメスは百五十頭。オスは五十頭、子供が百頭ほど生息しているそうです。繁殖期が数十年に一度であり、子の成長が遅いため、年ごとに数の変動はあまりないそうです」
「あのずぼら学者の調査は信用に値する精度なのですか」
「そこは大丈夫だと思います。先生はご自身の研究については非常に綿密です」
普段の雑な事務手続きの様子から、レーヴェの中でリンケへの信用度は地の底に落とされているが、その点、彼女の論文などを読んできているアニエスには確信があった。
レーヴェはまだ若干疑わしそうにしつつも、その情報をもとに頭の中で計算する。
「一頭から一日ひと瓶、メスは百五十頭、繁殖・成長は緩慢――となれば、大量生産は望めませんね」
「ええ。そもそも食用として受け入れてもらえるのかどうかも問題です」
「試験的にローレン領の店へ少量卸してみてはいかがでしょう。事前に公爵様に許諾をいただいていれば店への交渉もスムーズにゆくかと」
「あぁ、はい」
アニエスは迷うように視線を泳がせる。
不審に思ったレーヴェは、即座に尋ねた。
「何か?」
「・・・本日、ローレン公がいらっしゃる予定なのです。姉の結婚式に贈る祝い品のことで相談したいと」
九番目の姉、グレーテの結婚式は来月に迫っている。アニエスもぼちぼち出席の準備を始めたところへ、ラルスから手紙が届いたのである。
今回、ラルスは招待を受けていない。子だくさんの先代王の子らの結婚式に、遠い領地にいる貴族まで何が何でも全員招集するわけではないのだ。
公爵であるラルスには王家の血も入ってはいるが、その繋がりは彼の曾祖父の時代の話であり、アニエスらからすれば親戚に数えてよいものか微妙な位置だ。
ただ結婚祝いの品だけは贈らねばならない。それを何にしたら良いかアニエスは意見を求められたのだが、正直その程度の用件であれば手紙のやり取りで済ませてしまえた。
しかし、そんなアニエスの心情はとっくに見透かされており、ぜひ館へ伺いたいと文面の中で先手を打たれてしまい、断ることはできなかったのである。
魔王戦での協力に、一度壊してしまった重機の借用や、風邪の見舞いなど、ラルスには何かと恩が重なる。ゆえに拒絶できないのだが、あまり個人的に親密な関係にもなりたくない。
そこで、アニエスは石のように表情の堅い会計士を窺う。
「レーヴェさん、お時間はありますか? できれば同席していただきたいのですが」
まだラルスに会ったことのないレーヴェは、主の縋るような様子には気づかず頷いた。
「承知いたしました」
それにアニエスはわずかばかり安堵する。ラルスと二人きりはどうにも気まずいのだ。
「場所はゲストルームですか」
「はい。今ルーさんに準備してもらっています」
「お茶のついでに魔物の乳も試飲いただいてはいかがでしょう」
「そうですね。いいかもしれません」
「ではそのように下へ伝えて参ります」
瓶を持ち、レーヴェはきびきびとした足取りで退出する。
それから間もなく、公爵家の馬車が約束の時間通りに館へ到着した。
◆◇
ローレン公爵は細身の黒いジャケットを羽織り、首元には清潔な白のスカーフを、袖から緑玉のカフスボタンを覗かせやって来た。
全体的には落ちついた色合いであるものの、姿が良いため地味な印象にはならない。洗練されている。
それを、洒落っけもへったくれもない黒いローブ姿で迎えるアニエスは、なんとも据わりが悪い。
洒落た人間を前にすると、なぜか地味な自分を後ろめたく感じてしまう。決して場違いな格好をしているわけではないのに、何やら人としての義務を怠っているような気になる。
だが相手のほうは、そのようなことは露ほどにも気にしないのだ。
「賑やかになって参りましたね」
ゲストルームのソファで、かすかに届く重機の音へ、ラルスは目を細めた。
「わずか数か月で、お見事な手腕です」
「いえ・・・ローレン公のご助力のおかげです」
「そう言っていただけるのは光栄ですが、私は大したことはしておりませんよ。すべてアニエス様のご人徳の賜物でしょう。その証拠に、皆いきいきと働いております」
ひとしきりアニエスを褒め称え、ラルスは領主の後ろに控えるこちらも地味な会計士に目をやった。
それに気づいたアニエスは、遅ればせながら部下を紹介する。
「こちらは会計士のミリィ・レーヴェと申します。二ヶ月ほど前より、エインタートの事務処理の一切を担当しております。今後ともお見知りおきくださいませ」
紹介に合わせ礼する会計士に、ラルスは愛想の良い笑みを浮かべていた。
「噂には聞き及んでおりますよ。アニエス様の懐刀だそうですね」
主従はこれに小さく眉をひそめた。
(どこから・・・誰から聞いたんだろう)
疑問に思ったが、そういえばレーヴェにはローレン領の地主へ、エインタート領民の小作人契約のことで交渉に行ってもらっていたことをアニエスは思い出した。
おそらくはそこから届いた噂なのだろう。ラルスはエインタートの動向について、逐一情報を集めているようである。
(まあ、いいか)
それはともかくとし、アニエスはさっそく本題へ入ることとした。
「本日は姉への贈り物についてのご相談ということでしたが、実は私からも貴公に相談がございます。後ほど、このレーヴェも交えお話しさせていただいてもよろしいでしょうか」
「今すぐでも構いませんよ」
「いえ、それは」
「どうぞお気になさらず。実は贈り物のご相談と申しましたのは建前で、私の真の目的はこうしてアニエス様とお会いすることですので」
そこで、ラルスは「おっと」とわざとらしく我が口を塞ぐ。
「失敬。いけませんね、貴女様の前ではつい浮かれて本音が出てしまう。どうかこの愚かな男をお許しください」
「・・・いえ、はい」
アニエスは茶番から目をそらした。
そしてなるべく速やかに場を締めくくることができるよう、用意しておいたリストを取り出し、二人の間のテーブルへ置く。
「姉の好みを思いつく限りリストアップしておきました。先にお渡しします。ご参考までに」
「これは、お手数をおかけしました。ありがたく頂戴いたします」
ラルスは無駄に恭しくリストを受け取り、懐にしまう。
「して、アニエス様のご相談というのは?」
また恩を売れるのは彼にとって都合が良い。よってその表情は至極明るかった。
対するアニエスは無表情に呼び鈴を鳴らす。するとルーがやって来て、例の乳を注いだカップを一つラルスの前に置いた。
飲みやすいよう少し温めてある。一見すると白湯に思えるカップの中身に、ラルスは怪訝そうにしていた。
「詳細はレーヴェから説明させていただきます」
指名を受けたレーヴェは、淡々と魔物の乳について説明する。
伝統的に滋養強壮剤として使用されていたものであり、食味は良好で、今後エインタートの一産品として試験的にローレン領に流通させたいのだが、領主のご意向を先に伺っておきたいといった、一連の話をラルスは相槌少なく聞いていた。
「――なるほど。お話はわかりました」
レーヴェが説明を終えると、ラルスは話の間、引っ込めていた笑みを再び戻し、アニエスを見やる。
「魔物という負の要素を逆転する妙案かと思われます。これが成功した暁には、世間のエインタートへの印象も好転することでしょう」
口では祝福しつつ、しかしラルスはまだカップに指先を触れてすらいない。
「・・・ローレン領では、魔物の乳を飲む習慣はありますか?」
「ございません」
相手はいやにきっぱりと言った。
「そういった習慣は、魔物が身近にいる地域ならではのものでしょう。ローレンはエインタートが魔物の森との壁となっておりますので。中途半端に近い分、ローレンの民は魔物のおぞましさを知っております。我が領へ卸されることは止めませんが、買い手が付くかは保証できませんね」
やんわりと、だが明確に「売れるわけがない」と言われている。
もっともな意見だったが、しかしここで簡単に引き下がっては交渉にならない。ローレンの商人と相対する前に、まずはラルスで感触を掴んでおきたかった。
「私もはじめは魔物のものを口にすることに抵抗がありました。ですが、これに関しては比較的、大衆に好まれる品であるかと思われます。まずは一口お試しいただけませんか。その上で判断していただければ・・・」
珍しく食い下がったアニエスに、ラルスは肩を竦め、カップを取った。
「滋養強壮の効果があるのでしたか」
「? はい」
アニエスが首肯を返すと、男はとびきりにこやかに笑んだ。
「これを飲み、今宵ご寝所へ侍れということなのでしたら、喜んで」
アニエスは絶句した。
そんなところに発想が飛ぶとは、まったく予想だにしていなかった。
「・・・すみません」
ややあって、か細い声で詫びた。
「そういうことでしたらカップ一つでは足りません。桶でください」
「申し訳ございません。二度とお勧めいたしません」
どうやらラルスは断じて飲みたくないらしい。
だったら別の言い方で拒否を示してほしかったとアニエスは思う。
「アニエス様」
その時、レーヴェが耳元に囁いた。
「私が弁護いたします。殴ってもよろしいですよ」
アニエスはぶるぶる首を横に振る。そんな気遣いは不要だった。
なんにせよ、ラルスの反応はそのまま、ローレンの民の反応と見ても間違いはなさそうである。
(だめか)
心の中で、アニエスはこっそり嘆息する。
すると、その様子をラルスは的確に読み取り、カップをソーサーに戻して、少しは真面目な顔付きとなってみせた。
「ローレンよりも、王都へ卸されてみてはいかがでしょうか」
アニエスは伏せていた目線を上げた。
「王都?」
「おそらく様々な物が集まる都会のほうが、受け入れられやすいのではないかと。中には珍品を好む者もいるはずです。ご検討されてみては?」
王都には国内外のあらゆる地域の産品が集まっている。
それゆえに話題となるのは難しいが、魔物の乳などという珍品はまず目を惹けるだろう。さらに今はメディア効果でエインタートへの関心が王都で高まっている。
売り込み時としては悪くはない、どころか最適である。
「ちょうど姉君のことで王都へ行かれるのですから、そこで宣伝されるのが効果的かもしれませんよ。記者の連中はグレーテ様の花嫁姿とともに、アニエス様のお姿にもいたく興味を持っていることでしょうから」
無論私も、と付け加えられた言葉とウインクは目を伏せてかわし、アニエスは領地の問題の他に近頃、頭を悩ませていたことを思い出した。
すなわち、姉の結婚式で着る衣装のことである。
(・・・宣伝までしなければいけないのなら、いつもの目立たないための格好じゃだめ、なんだろうな)
販路を見出すと同時に憂鬱を呼び起こされ、やはりアニエスは溜め息を吐きたくなった。
◆◇
ラルスが帰った後、アニエスは自室のクローゼットを開いた。
中は見事に黒一色である。違う色はシャツの白しかない。同じような形のローブやズボンばかりがハンガーにかけられている。
一応、ドレスと呼べるものもあるが、それもまた黒い。喪服である。
(これでは、だめなんだろうな)
他に色味のあるものはない。必要になった時に買えば良いと思い、持参してこなかった。
幸い、アニエスはほぼ一般的な体格をしているため、オートクチュールでなくとも既製品を少々直してもらうだけで済ませられる。
姉の大切な結婚式ではあるが、エインタートの現状でドレスに大金をかけている余裕はないのだ。
そうでなくともアニエスは極力ドレスなど着たくない。着飾ることに苦手意識があるのと、何より眼鏡がどうしても全体のバランスを崩してしまい、結局、野暮ったい印象になってしまう。
(それでも私の格好なんて誰も構わなかったけれど、今回はどうかな)
批判的な注目が集まっている中へ、どういった姿を見せれば良いのか。またどういうスタンスで彼らの前に立てば良いのか。
経験のないアニエスには見当も付けられない。
するとその時、ノックの音がした。
「アニエス様? いらっしゃいますか?」
「はい、どうぞ」
入って来たのはルーである。その手には封筒を持っていた。
しかしそれを渡す前にクローゼットの闇を見つけ、大きな瞳を丸くする。
「全部まっ黒ですね」
メイドは見たままの感想をもらした。
彼女に洗濯を頼んではいるものの、アニエスは衣服の整理も着替えも自身で行っている。そのためルーは主のクローゼットの中を覗いたことがなかった。
「アニエス様はやっぱり黒がお好きなんですね。他の色はお召しにならないんですか?」
「はい、あまり・・・この色に慣れ過ぎてしまって、他の色は合わない気がしています」
「そんなことないですよっ」
ルーは取りなすように言ってくれたが、アニエスとしてはどちらでも良かった。
「別に、構いません。必要に迫られない限りは、今後も黒い服しか着るつもりがないので」
「え? どうしてですか?」
「八歳の時に・・・母の死を理解できた日から、ずっと喪服でいようと決めたので」
母の葬儀に出られなかったかわりに、死に気づかなかった数年間の代償に、今後一生喪に服す。幼子なりの贖罪のつもりだった。
するとルーは黙り込んでしまった。
見開かれた水色の瞳が、やがて潤む。
「アニエス様・・・」
切ない声を出され、アニエスは焦った。
特に涙を誘いたかったわけではない。単なる世間話のつもりだったのだ。
実際、今となってはそんな贖罪など無意味であり、また、母もおそらくそのようなことを望む人物ではないとわかっている。
だが、もはや黒がアニエスの中で一番しっくりくる色となってしまったため、この際そのまま貫こうと思ったに過ぎないのだ。
「ルーさん、あの、あまり気にしないでください。ただ黒が昔から着慣れていて楽だというだけの話です」
「いえ・・・アニエス様のお気持ち、よくわかりました。だから夏でもずっと黒い服をお召しになっていたんですね。暑苦しくないのかなって、ずっと不思議に思ってましたけど、そういうことだったんですね」
そう言って目の端の涙を拭う。
やはり暑苦しいと思われていたらしい。気まずいアニエスは話題を変えることにした。
「ところで、何か用事があったのでは」
「あ、そうでした」
そこでやっと、ルーは持っていた封筒を差し出した。
「先ほど新聞と一緒にお手紙が届いたんです」
週に一度、世の動きを把握するため頼むことにした新聞は、午後に一週間分をまとめて届けられる。そこに今日は郵便もまざっていたらしい。
まず差出人名を確認してみれば、相手はまさかのエリノアだった。
(エリノア姉様が、何事だろう)
急いで封を切り、中を読み、アニエスはしばし固まった。
「アニエス様? どうされたんですか?」
横から覗くことまではしないが、ルーが心配そうにちょろちょろ周りを動く。
「何かあったんですか?」
「・・・いえ、姉様から指令が届いただけです」
「しれい?」
アニエスはクローゼットの中を憂鬱そうに見やる。
指令書には、結婚式に喪服を着て行くよう書かれていたのだった。




