30.歓迎会
この土地は何が起きるかわからない。つくづくアニエスは実感した。
とはいえ、予想外の怪鳥の飛来は、良い結果をエインタートにもたらした。
魚と鳥が戯れている間に、無事に入り江で荷下ろしが済み、商船は再び怪魚が暴れる前にと、アニエスに軽く挨拶だけして、早々に出航していった。
負傷者は大勢出たが、なんとか死者までは出さずに事を終えられた。
姉にもらったのはショベルやローダーなどの掘削、運搬機が数台ずつ。
車輪の上に小屋のようなものが乗っており、そこにボイラーや水タンク、石炭庫、操作盤といった基幹のシステムが収納されている。
いずれも自走が可能である。そこで工事現場までの輸送は、姉の好意ですでに積み込まれていた燃料を使い、怪我の軽かった工人ギルドの技術者たちによって行われた。
ただし、その移動速度は非常に遅い。歩くよりわずかに速いかという程度で、走る人には抜かれてしまう。
蒸気機関車の場合はスピードが肝要だが、重機の場合はパワーが必要とされる。速度が出なくとも、重い建築資材や土砂等を運ぶことができれば良い。
薄黒い煙を収納庫の煙突から吐き、汽車のようにじゃかじゃか絶え間なく鳴きながら、のったり動く重機を眺めるアニエスは、ようやくこの荒野に文明がもたらされた思いがしていた。
これで工事が格段に早く進む。それが何よりも嬉しい。
入り江の周りに巨大魚が居座っている状況は相変わらずだが、しかもそこに巨大鳥までやって来て、あれはそのうちもとの火山に帰ってくれるのか一抹の不安もあるが、ともかくも一歩前進することができた。
(やっぱりこの辺りで、何か催すべきなのかな)
とアニエスが思ったのは、荷とともに届けられた、姉ユーリエからの手紙を風呂上がりに読んでいた時である。
入り江に降ろされた荷は重機だけではなかった。太っ腹な姉は、他にも織物が盛んな自領の毛布や衣料品、チーズや乾燥果実、包帯や軟膏などの医薬品といった、災害支援物資と思しきものの類、加えてワインを十樽よこした。
『ともに仕事をする人々と、一度は酒席を設けること』と手紙には教訓が書かれている。
それはアニエスも理解しているが、とはいえ十樽は差し入れとして多過ぎる。これだけでワインボトルが三千本もできる。女子供も含めた現エインタート領民に一人一本ずつ配ることができてしまう。
(ここまで用意されたら、やるしかないんだろうな)
酒宴が何より苦手な身としては気鬱である。
だが、領民とギルドの人々との顔合わせは改めて必ずしなければならない。
また作戦開始前に喧嘩をしていたエッダらとセリムらにも、これから同じ職場で働く者どうし、できる限り打ち解けてもらいたい。
今回はギギとオペルギットの乱入によって、どちらのギルドが活躍したともはっきり言い難い結果となった。
結局、工人ギルドが色々と用意したものはほとんど意味をなさず、魚の足止めに飛び出した血眼狼の面々もギギにあっさり吹き飛ばされた。
今はともに体中に包帯を巻かれ、治療室に放り込まれている彼らだが、意識が戻ってからは口論が扉越しにも聞こえてくる。
それが酒を飲んだ途端に、いきなり肩組み打ち解けるとはアニエスも思わないが、食事と酒は人の意外な面を表に出してくれる。
一度、互いの素を知ることは悪くない試みだろう。
(皆さんの怪我が良くなった頃に、やってみようかな)
そう思い、着替えを済ませた夕方、エッダらに宴会の計画を伝えようと下に降りると、エントランスが騒ぎになっていた。
白と黒のタイルの上、そして開け放たれた玄関の外のあちこちに、男たちが座り込んでいる。
包帯を巻いているギルドの人間、そして今日の工事に来ていた領民たちが、手に手に赤い液体の入ったコップやら椀やらを持ち、賑やかに談笑している。
馬車で運び、庭に積んでおいたワイン樽が四つ、蓋に穴を開けられていた。
(・・・もう始まってる?)
包帯を全身に巻かれている人まで、ベッドから起き出し飲んでいる。
無論、アニエスはまだ一言も姉の贈り物を開けて良いとは言っていない。
「あ、アニエス様!」
皿にチーズや乾燥果実を盛って、走っていたルーがやや困惑気味にアニエスのもとへ来た。
「あの、皆お酒飲み始めちゃったんですけど、おつまみもアニエス様のお姉様にいただいたものを出してしまっていいですか? 今、訊きに行こうかと思って」
つまみの前に、宴会の許可すら出していないのだが、すでに場はできあがっており、どう足掻いても水を差せる状況ではなかった。
そこへ同じく皿を運ぶトリーネも、すまなそうな顔をして傍にやって来る。
「すみません、実はマリクが味見なんて言って一樽開けてしまって。そしたら工人ギルドの人たちも来てしまって・・・」
「あぁ・・・マリクさんが発端でしたか」
あのまるで悪気のない、ただ常識が身に付いていないだけの領民の青年の仕業とわかれば、怒る気も失せる。
他にこの場を止められそうな、ジークはただいま重機運搬に付き合っており、夜まで戻りそうにない。
そして言葉の破壊力では魔王にも負けないレーヴェは、ちょうど今、アニエスの後から階段を降りてやって来て、飲兵衛たちの光景に舌打ちをした。
もともと宴会を開くつもりではあった。それが少し早まっただけのこと。怪我人たちも酒を飲めるほど元気で何よりだと、アニエスは前向きに捉え、レーヴェのほうをなだめることにした。
(もう好きにしてもらおう)
自主的に仲良くやってくれるのであれば、それで良い。
わざわざ自分が介入するまでもない。
後のことをトリーネらにまかせ、一人自室に引き籠ろうとした。
「おお来たかい領主様!」
しかし、甘かった。ルーが最初にアニエスを呼んだ時点で、その存在は周知されていたのだ。
踵を返したところで、エッダに腕を掴まれ輪の中に引きずり込まれる。
「どうぞ、アニエス様」
玄関の石段に座らされるなり、領民たちにはなみなみとワインを注いだグラスを手渡され、もはや逃れられない。
「お前ら杯を掲げろ! 今日のうまい酒をくださった雇い主様に乾杯だ!」
「おお!」
野太い声が庭に響き渡る。
アニエスはただ縮こまって動けずにいた。
(ああ・・・苦手な雰囲気だ)
ディノら領民も皆、声がいつもより大きい。まだ飲み始めたばかりのところだが、すでに空気に酔ってきている。
アニエスは酒も、酒に酔った人間も得意ではない。
王女時代は、適当な理由を付けて宴会からことごとく逃げていた。しかし領主になればそうもいかない。
「・・・本日は皆さん、ありがとうございました」
なるべく声を張り、エッダや、セリムらの顔も騒ぎの中に見つけて言う。
「いやいや、こっちも王族様方に助けてもらって悪かったねえ」
女親分も、そのことについては少しばかり罰が悪そうだ。
ギギによって崖が崩壊した時、彼女のことは近くにいたアニエスが紋章術で受け止めたため、特に怪我らしい怪我もない。他のギルドのメンバーの多くも、コルドゥラに助けられた。
なお、姉たち王都の研究員は現在、オペルギットとヘウズギットの観察のため野営を敢行している。異世界の怪物がそろっている状況に、食いつかない彼らではない。
「ま、結果的に成功はしたから金はいただきますがね」
ふてぶてしい女親分は、次の瞬間にはもうちゃっかりした笑みを浮かべている。アニエスも特にそこは気にしなかった。
「はい、それは」
「後ほど交渉させてください」
アニエスの言葉を遮り、レーヴェが輪に交ざる。緩んだ空気の中で、その暗褐色の瞳だけが鋭い。
ふふん、とエッダはそれにも笑う。
「さすがにお前は厳しいねえ。少しは主様を見習って、甘くなったらどうだい? そのほうが可愛げが出るよ」
「甘い顔をされるのはアニエス様のみで良いのです。主のおっしゃらないことを申し上げるのが私の仕事です」
そう言う会計士は澄まし顔をしている。
(レーヴェさんにも甘いと思われてた・・・)
自覚はあったものの、アニエスはさりげなく傷ついていた。しかし誰もそれには気づいてくれないため、自主的に心を持ち直す。
「――本日のことはひとまず置いておきまして、これからもお世話になります。皆さんの技術力には期待しておりますので」
「もちろん、頼まれるまでもない。こちらこそ世話になるよ」
改めてエッダはアニエスと乾杯する。そして、スープ用の椀に入ったワインを一気に飲み干した。
対するアニエスは、グラスの縁にわずかに口を付けただけ。それだけでも、鼻の奥まで広がる酸味と苦味と妙な甘味、それらを含む独特な香気にわずかに眉をしかめた。
姉のことだ、良い酒をくれたに違いない。しかしアニエスはその品質が良かろうが悪かろうが、酒という飲み物自体が、ワインに限らずどうにも苦手なのである。
すると、まったく嵩の減っていない相手のグラスを見て、エッダは口をへの字に曲げた。
「なんだい? まさか領主様はこれっぽっちの酒も飲めないのかい?」
「あ、いえ・・・ただ、少し、お酒は苦手でして」
「はあ? こんなにうまいのに?」
責めるような口調に、アニエスの胃がまた痛み出す。
「なっさけないねえ! 酒も飲めない頭なんて、頭と言えるのかい!」
「アニエス様は王家の方ですよ。下賤な基準で推し量るものではありません」
すかさずレーヴェが反論したが、エッダにはこたえない。
「にしたって、一杯も飲めないなんてあまりに情けないじゃないか。そんなんじゃどこにいっても舐められるよ。ここらでいっちょ飲めるようになったらどうだい?」
「・・・お気遣いは、ありがたいのですが」
「ぐちゃぐちゃ言ってないでまず飲みな!」
無理強いをされる、これもアニエスが酒宴を忌避する原因である。
(こういう空気が苦手だ・・・)
酒を飲まなければまるで悪にされる。逆に大酒飲みであれば尊敬される理由も、アニエスはよくわからない。
見るからに乗り気でない領主がおもしろくないエッダは、では、とさらに言い募る。
「わかった、最後まで潰れずにいられたら今日の働き分を半額にしようじゃないか! どうだい? ここで乗らにゃあ主君の器じゃないよ!」
ほろ酔いの勢いで言ったのだろう。
それでもアニエスはとても乗る気にはならなかったが、そのグラスに横から手を伸ばす者がいた。
「それは代理を立ててもよろしいでしょうか?」
レーヴェである。
爛と開いた瞳に気圧され、アニエスはすぐにグラスを引き渡した。
「ああいいとも! 領主様方とうちらで飲み比べといこうか!」
「乗りました」
レーヴェがグラスを一気に呷る。
そして、そのまま後ろに倒れた。
「レーヴェさん!?」
慌てて抱き起すと、肌が首までみるみる赤くなっていく。
目の焦点もすでに合っていない。
「・・・お酒、弱いんですか? もしかして」
かなり飲めるような勢いで名乗り出たため、てっきり酒に強いのだと思ったが、むしろレーヴェは壊滅的に弱かった。
「苦手なのでしたら、無理をされないでください」
「・・・今日は、いけるような気がしまして」
普段はすぱすぱ答えるところも反応が遅い。
一杯で倒れてしまう者が、何を根拠にいけると思ったのか。
「報酬半額・・・アニエス様を助け、好感度も上げる・・・完璧な計画・・・」
さらに、うわ言を呟き出した。瞼が下りてきているところを見ると、酔うと眠くなるたちらしい。
「いつもレーヴェさんには感謝しています。大丈夫ですから、お休みください」
言い聞かせ、その手からグラスを取る。レーヴェは満足したように瞳を閉じた。
「おや、この小娘は酒が弱点でしたか」
そこへ妙に嬉しそうなリンケがやって来る。どこにいたのかわからないが、グラスを持ちすでに二、三杯は引っかけた顔をしていた。
彼女はなぜか、懐から細い刷毛と小さなインク瓶を取り出す。
「リンケ先生? 何をされるのですか?」
「いえ、まあ、せっかくなので普段の暴挙にささやかな復讐をしておこうかと」
「・・・そういうことは、おやめになったほうが」
どうやら顔に落書きをするつもりのようだが、翌朝に彼女がレーヴェに締め上げられる結末は目に見えており、また、かろうじてリンケに対して尊敬の気持ちを残しているアニエスの心情としても、あまり大人げないことをしてほしくなかった。
しかし構わずリンケはインク瓶の蓋を開ける。あるいは彼女も多少、酔っているのかもしれない。
ところが、刷毛がその頬をなぞる直前に、レーヴェが薄く目を開けた。
「おや?」
リンケが動きを止めた途端、真正面にあるその顔目がけ、レーヴェが起き上がりざまに頭突きを喰らわせた。
「先生!?」
「っ!? ・・・っ」
声もなく、鼻を押さえてリンケが悶える。レーヴェは再び満足したように横になった。
(実は起きてる?)
今度はリンケを介抱しつつ、アニエスは恐々とレーヴェの様子を窺うが、当人は安らかな寝顔をしている。
どうやら寝惚けていても彼女の攻撃性は萎えないらしい。リンケの復讐は失敗に終わった。
「そら、誰が相手になってくれるんだい?」
レーヴェの件はなかったこととして、改めてエッダが対戦相手を募ると、話を聞いていた周りが、続々名乗り出た。
「ファニが全部飲んでやるぞ! まかせろ!」
「お、俺だってやれますよ!」
まずは負けず嫌いな血眼狼の面々。
「アニエス様のかわりだってんなら当然、領民の俺たちが受けて立つべきだろう」
ディノやマリクら、領民数十名も乗り気である。
無論、工人ギルドの者も黙ってはいない。
「いやあ、うちの母ちゃんの前に、あんたらの相手はまず俺らがしようじゃないか?」
まだ重機の運搬をしている者を除外しても、人数で言えば工人ギルドはこの場の領民とセリムらを合わせた数にも負けていない。
すると、やはりエッダの相手はアニエスの他にいなくなる。
「はいはい! じゃ俺も飲む!」
「っ、クルツさんはいけません」
どこからともなく出てきた少年のことは即座に押し戻す。
スヴァニルでは一般的に十六歳頃から酒を飲むようになるが、クルツはさすがにまだ早い。
ルーも、そして成人とはいえ女性のトリーネや、悶絶中のリンケにも頼るべきではない。ニーナなどはスクープを期待し写真機を構えているため、もとより頼りにしない。
そもそもアニエスとしては特に報酬を値切らなくとも構わないため、飲み比べの勝負をする意味などないのだが、ここまで盛り上がった場で辞去することもできなかった。
(これも領主の仕事、か)
仕方なく、新たに注がれた酒に口を付けた。
◆◇
じゃかじゃか絶え間なく鳴いていた重機が、ようやく領主館近くの工事現場でその音を止めたのは、星々が一斉に瞬く夜中のことだった。
「ご苦労さん。片付けが済んだら館でゆっくり休んでくれ」
ずっと馬で先行していたジークは、収納庫で黒い顔をしている工人ギルドの技術者たちを労った。
彼自身も本日の業務はこれにて終了である。この後、軽く館の周辺を見回ってから、怪我人たちの具合を窺い、部屋に戻ろうと考えていると、館のほうが妙に明るいことに気づいた。
門柱に付いている人工灯だけでなく、玄関付近に照明が集められている。奇妙に思い、馬を茨の絡んだ柵に繋いで門の中に入ると、赤い液体が飛び散った芝生の上に、人々が倒れ伏していた。
あたかも大量殺戮現場のようである。
「あ、お帰りなさいジークさん!」
酒の匂いを漂わせる酔っ払いどもを介抱していたルーとトリーネが、さっそく迎えてくれた。ジークはそれに笑みを見せる。
「ただいま。でかい連中は俺が部屋まで運ぶよ。君らは他の片付けをしててくれ」
「あらいいですよ、まかせてくれて。ジークさんもお疲れでしょう?」
「いや大丈夫。俺は大して働いてないからね。ところで、なんでこんな外で宴会をしてたんだ? アニエス様が許可されたのか?」
「まあ、なし崩し的に?」
勝手に飲み始めた経緯をトリーネに聞き、ジークはやはりなと思う。
よく見ればセリムらも庭で潰れており、ついでにクルツもそこに折り重なっている。もしどさくさにまぎれて飲んでいたのであれば、少年には説教が必要だろう。
「アニエス様はもうお休みに?」
「いえ、それが」
「聞いてくださいよジークさん! アニエス様がすごかったんですよ!」
興奮気味に、ルーが割って入った。
「全員に飲み勝ったんです!」
「え?」
まさかと思ったが、ルーの指す先を見やると、玄関の柱の影に同化して、確かに彼の主が一人、起きていた。
しかも樽から移した思われる、ボウルに入ったワインをグラスへ手酌し、ちびちびとまだ飲んでいる。
傍にはファニやエッダや、ついでに写真機を抱えたニーナだけでなく、工人ギルドの屈強な男たちまで酔い潰れて転がっていた。そんな死体たちがアニエスの周りに特に多い。
当人はジークの存在に気付くと、はっとして立ち上がる。
「お疲れ様です」
そうしてしっかりした足取りでやって来ようとするので、慌ててジークはそちらへ駆け寄った。
「輸送は無事に済みましたか」
「はい、つつがなく。運転をしてきたギルドの者も、始末を終えて間もなく戻って参ります」
「そうですか。お疲れ様でした。すみません、こちらは先に宴会などをしてしまって・・・ここの片付けはしておきますので、ジークさんはどうぞお休みください」
「いえ、俺のことはお構いなく。それより、ええっと、アニエス様は大丈夫なんですか?」
「え?」
当人は、何が? とでも言いたげな顔である。
人工灯に照らされている白い肌は特に赤くもなっていない。つまり、いかにも大酒飲みがそろっていそうなギルドの連中に飲み勝ったうえで、彼の主はまったく酔った気配すらないのである。
何やら意外過ぎて、ジークは俄かに信じられなかった。
「・・・お酒、強いんですね? 全員に飲み勝ったんですか?」
「え? あぁ・・・いえ、エッダさんたちは、私より大きな器で飲まれていたので」
確かに、周りにはスープ用の椀なども転がっている。しかしアニエスが持っているものも、なかなか底が深いグラスだ。
「あ・・・もしよければ、ジークさん、残りを飲まれませんか。樽の外に出してしまったものは、戻せないので」
飲みさしで申し訳ございませんが、と遠慮がちにボウル一杯分を勧めてくる。
どうやら本当に彼の主は酒に強いようだ。
「そうですね、余っているのであれば後ほどいただきます。ですがアニエス様がお好きなのでしたら、どうぞ俺のことはお気になさらず」
「いえ、まったく好きではないのです。なのでジークさんがお嫌でなければ、飲んでいただけると助かります」
ただの遠慮ではなく、切実な気持ちが声に乗っていた。
「そんなにお飲みになれるのに、お好きではないんですか?」
「はい・・・あまり酔わないのは、おそらく遺伝によるもので、父も、兄や姉たちも皆、そうなのです」
言われて、ジークはかつての上司のデュオニスのことを思い出した。
上司とはいえ直属でなく、遥か上にいる相手であったが、その人間離れした酒豪ぶりは下級兵まで周知の事実である。
その人と血を半分同じくするアニエスが酒豪であったとしても、なるほど不思議ではない。
「飲めはするのですが、私はあまり、お酒の味がわからなくて・・・お酒は大変な手間をかけて作られるものと聞きます。それを私のような味のわからない者が飲むのは申し訳なく、おいしく飲める方が飲むのが正しいのだと思います。なので、どうぞ」
本気でこれ以上は飲みたくないのだろう。いつになく強く勧めてくる主のことが、ジークは少々おかしかった。
(難儀なお人だ)
彼が思う酒を飲む目的は二つある。
一つは純粋に酒の味を楽しむため。もう一つは酔ってはしゃぐため。
ちなみに前者に重きを置く者は、自己顕示欲を出すと必ず酒の席で披露するうんちくを周囲に煙たがられる。また後者のみを目的にしている輩は単純にたちが悪い。
しかし、アニエスは酒の旨みもわからない、いくら飲んでも酔わない、つまりはまったく酒を楽しめる要素がない。ならば苦手に感じるのは致し方ないのだろう。
それを自分では、酒の味がわからずに飲むことを、会ったこともない作り手に対して申し訳なく感じているのだから、つくづく気苦労を背負い込むのが得意と見える。
そこがこの主の悪癖であると同時に、人を惹きつける美点であるとジークは思う。
領主の責務、領民の期待、辺境伯の称号、そもそもの王族という生まれに対し向けられる世間の目――あらゆる重きものを背負いながら、周囲に心を砕く余裕があり、すべてに寛容を示せることが彼女の凡人ではないところである。
己より十も年下の主を、はじめは不安に思いもしたが、今では年齢など関係なく頼もしく感じている。紋章術でも酒豪ぶりでも、まだまだ人知れぬ強さをその華奢な身の内に秘めているのだろう。
むしろ自分が、もっと主に心を開いてもらえる、頼りがいのある従士にならねばと思っている。
「アニエス様は何がお好きなのですか?」
試しにジークは訊いてみた。
普段、仕事以外の話題をあまり振らないためか、主は面食らっていた。
「飲み物でも食べ物でも、次の宴会ではアニエス様がお好きなものをご用意いたしましょう」
「・・・いえ、私は、なんでも構いませんので」
「そうおっしゃらず。これまでの人生の中で、一番おいしく感じられたものはなんですか?」
この話題に、ジークの背後に隠れてこっそり近づいたメイドが聞き耳を立てる。
アニエスはしばらく悩み、
「・・・いも、でしょうか」
小さな声で答えた。
「芋?」
「その・・・昔に読んだ小説の中で、主人公が茹でた芋に塩を振って食べる場面があったのです。その描写が、とてもおいしそうで、王城の厨房を借りて自分で作ってみたことがありまして・・・」
ジークは咄嗟に「は?」と言いそうになったのを堪えた。
王城育ちの生粋のご令嬢は、塩を振った芋が人生で一番お気に召したらしい。
(・・・いや、ある意味お嬢様らしいと言えばらしいのか?)
塩を振るだけで十分に美味な品質の素材を、口にできる環境にあったということだ。
それでもあまり味気ないものを好むには違いない。
なるほど、ならばやはり、この上品で素朴な主らしい好物であると、ジークは納得し微笑ましく思った。
「では来年は畑の一面に芋を植えましょう」
「いえ、大丈夫です。そんなにいつも食べたいわけではないので」
主はやや気まずそうに目をそらした。
背後のメイドは、「茹でた芋・・・」と何やら悩ましげに額に手を当てていた。




