2.葬儀
美しい、歌が大聖堂にこだましている。
午後の木漏れ日のように優しい歌声。そこに柔らかなハープの音が追随する。
鎮魂歌は、生者の魂をも眠りに誘うかのようだった。無論、まさか国王の葬儀中にいびきを立てる者などいるはずもないが。
ただ、ずず、ずず、と鼻を啜る音はアニエスの隣から定期的に聞こえてくる。
黒いヴェールの下で小鼻を押さえている少女に、アニエスはバッグから新しいハンカチを差し出した。
「シャル、使って」
アニエスの四つ下の妹、シャルロッテは黒いレースの手袋をした指先でハンカチを受け取った。
「あっ、がとう、ござい、ますぅ・・・」
アニエスは、その前まで妹の鼻を押さえていたハンカチをかわりに取り、小さく畳んでひとまずバッグの中に入れておいた。
鎮魂歌の間、参列者は席を立ち祭壇に祈りを捧げる。いつも通りの気だるげな眼を、祭壇の前のプラチナブロンドの歌姫と、祭壇の上の棺に注ぐアニエスは、いまだに涙一つ零していない。
参列者の中には、アニエスと同じ心持ちでいる者が他に何人もいた。
「っ、ねえ、さま・・・」
不意に呼ばれ、隣を見やればシャルロッテがぐずぐずの顔を向けてきている。
「なに?」
「これ、終わっ、たら・・・私の、お人形、直し、て、くださ・・・っ、お洋服、っ、破れ、って」
「・・・終わったらね」
アニエスはそう応えてやるしかなかった。
(私は古書の修復士だと、何度言えば・・・)
シャルロッテは物を壊すたびにアニエスのもとへ持って来る。修復士をなんでも直す仕事だと勘違いしているのだ。
人の話を一向に聞かないシャルロッテに気が滅入るも、なんにせよ、この愛らしい妹の中で、父の死の重みが、お気に入りの人形の破損にも勝らないことがわかり、その点においては安堵した。
(――《そこに悲しむ者がいるとすれば、その死は失敗である。理想の死は暗闇を持ち去り、心地良い風を吹かせるものだ》)
昔読んだ本の一節がよぎる。
ステンドグラスの青い光の中、ぽっかり浮かぶ白い棺には先程、参列者の一人一人から献花がなされ、周囲の床を賑やかに埋め尽くしていた。
スヴァニル王国第八代国王、ニコラス・スヴァニルの葬儀に悲壮感はない。なぜなら彼の七十年に及ぶ人生は、多くの美女に彩られた華やかな一生だったのだから。
ニコラス王がひとたび訪れれば、その近隣の乙女には残らず穴が開く、などと民草の間では笑い話として語られる。
たびたび城下に出没しては娼婦と遊び、街娘を誘惑し、地方に行っては土産に妻を持ち帰る。関係をもった相手は千人とも二千人とも噂されていた。
葬儀の鎮魂歌を捧げる歌姫も、ハープの弾き手も側室の一人であり、他にも『お手つき』が参列者の中に無数に潜んでいる。
そんな王の子供は総勢十八名。アニエスは十六人目、王女としては十番目にあたる。妻や愛人の数からすれば、子の数はごく少ない。
最期は王都近郊の運河に船を出し、貴賤問わず百人にのぼる美女と豪遊し、歓喜の絶頂で眠るように亡くなったという。
国民はもはや両手を叩き、彼の死に様を称賛した。
アニエスもまた、苦しまなくて良かったと思う心しか残っていない。それだけ、父はどこか現実味の薄い存在だったのである。
かと言って、まったく構われずに放置されていたのではない。他に多くの女を愛しながらも、ニコラスの愛情は底を知らず、十一人の娘には熱烈に、七人の息子にはそれなりに、子煩悩な父だった。
アナグマと揶揄されるほど地味なアニエスにも、母親譲りの美しいプラチナブロンドを持つシャルロッテにも、父の愛はまったく平等であり、ほぼ毎月ある我が子の誕生日を一度も欠かすことなく、息子が四十を過ぎてもしつこく祝い、遠くに嫁いだ娘には頻繁に手紙を送って里帰りをせがんだ。
父はある種の超人だったのだろうと、アニエスは思う。
◆◇
葬儀は昼前に終了した。
大聖堂傍の見晴らしの良い丘に棺を埋葬した後、参列者の大半はそこで帰路につき、王家に近しい者のみが王城広間での昼食会に参加した。
近しい者と言っても三百人程はいる。誰もが黒い服に身を包んでいるが、立食形式の会場には賑やかに談笑する声が響いていた。
明るい雰囲気にアニエスもひとまず息をつき、飲みもしないワインのグラスを片手に、会場奥の壁際で休んだ。
「アニエス姉様」
しかし、休息は束の間だ。
一度自室に戻ったらしい、シャルロッテが人形を抱いてやって来た。アニエスはげんなりとした面持ちを妹に見せる。
「シャル、それは終わってから・・・」
「葬儀は終わったでしょう? 先に見るだけでも見てくださいっ」
「・・・」
末妹は待つことを知らない。ゆえに甘え上手である。
十四歳のいかにも純真無垢そうな面立ちをしていながら、誰が何をどこまで許してくれるのか見極めている。そしてシャルロッテの見立てでは、どんな場面でも姉が人の頼みを断ったり、まして怒り出したりすることは、万が一にもあり得ないのだった。
結局、アニエスはグラスをテーブルの端に置き、人形を受け取った。
すると予想以上に破損の大きいことがわかった。何重にもフリルの付いたドレスが無残に破けているだけではない。樹脂コーティングされた粘土製の体にヒビが入り、隙間に泥のような汚れが詰まっている。おまけにカールした金髪の端が幾房か切れていた。
「ハイニがやったんです」
今度は怒りによって、シャルロッテはヘーゼル色の大きな瞳に涙を溜める。
「ふざけてヘクトーに投げたんですよ。信じられないでしょ? もう二度とハイニとは遊んであげません。ヘクトーも一生おやつをあげないんだから」
ハイニは十八番目の末弟。まだ十歳の腕白坊主で、シャルロッテはよく遊び相手をしてやっている。ヘクトーは筋骨たくましい猟犬の名だ。
シャルロッテの人形は憐れにもヘクトーの牙にかかり、庭を引きずり回されたらしい。庭師が水を撒いた花壇を通ったことで泥にも浸かってしまったようだ。
布で拭いてもヒビまではどうにもならず、お気に入りの洋服は手の施しようがない。そこで修復士の姉を頼るしかないと思ったのである。
「・・・これは、さすがに」
しかしアニエスも、今回ばかりは断ろうと思った。少々服が破れたくらいであれば繕ってやれるが、ここまでの破損を直せる技術など持ち合わせていないのだ。
するとシャルロッテはわっと泣き出した。
「どうして!? 今までだって直してくださったじゃないですか!」
「私にも限界はあるから・・・新しく買い直すか、人形専門の工房に持って行くほうが」
「そんなのどこにあるんです?」
「・・・侍女長の、ヒルデに相談してみたら。そもそも、どうしてまず私に持って来るの」
「だってアニエス姉様は修復士だから」
「古書の、ね」
「そうはおっしゃっても、最後は必ずなんだって直してくれますもの。お願いします姉様、私を助けて?」
両手を顎の下で組み、潤んだ瞳で見上げてくる。お得意の『お願いポーズ』を決めた妹が引き下がることはない。承諾を得られるまで、そのポーズのままにじり寄って来るのだ。
「・・・わかった。ひとまず預かっておく」
壁に背が付き、アニエスは早々に白旗を振ることとなった。
「姉様大好き!」
シャルロッテは黄金色の笑みを広げ、姉に抱きつく。アニエスはできる限り首を伸ばして、妹の髪飾りを避けた。
(後でヒルデに頼もう)
年季の入った強面の侍女長が、つまるところシャルロッテは苦手なのだ。
今や四十五にもなった長兄の乳母を務め、続く十七人の子を躾けた百戦錬磨の老婆をアニエスも得意とは言えなかったが、致し方ない。シャルロッテの我儘への対処は昔から、最も年の近いアニエスの役目と決まっているのだ。
それはしばしば面倒であったが、アニエスはさほど負担に感じたことがない。何を言っても、やはりシャルロッテは可愛い妹なのだ。また、彼女の我儘を聞いてやる機会も、十六で王城を出て、官舎で暮らし始めてから減っている。壊れた人形を押し付けられるくらいはなんでもなかった。
アニエスには我儘な妹よりもっと苦手な相手が、他に幾人もある。
「――シャールっ!」
ひと際陽気な声がやって来た。その者はシャルロッテの後頭部を鷲掴み、シャルロッテは悲鳴を上げてアニエスを放した。
「何を女どうしで抱き合ってるんだ?」
「レギー兄様!? 髪に触らないでください!」
シャルロッテが怒る陰で、アニエスは葬儀中よりも顔を暗くした。
唐突に現れた男は、青と黄と黒と白に塗り分けた奇抜な頭をしている。地毛は何色だったか、アニエスは忘れた。
しょっちゅう色や髪型が変わるため、会うたびに誰だかわからなくなるが、とにかく派手な若者がいればそれは、第六王子のレギナルトその人に違いない。まともな礼服が極めて似合わない、七つ上の兄である。
彼は、アニエスが最も苦手とする人種に属す。
「――アナグマぁ!」
即、アニエスはレギナルトのセピア色の瞳に捕まった。
「まーた陰気な格好してぇ、つくづくアナグマだなあ!」
「・・・葬儀ですから」
「お前はいっっつも喪服だろぉ!?」
アニエスは無言で、頭を掴んできた手をそっとのける。
その兄の手の甲には、複雑な模様の刺青が刻まれていた。それは身だしなみに特別なこだわりを持つ彼の洒落た趣味ではなく、れっきとした仕事である。
レギナルトは上級紋章術士として、若輩ながら学院で教鞭を執っている。
紋章術は精霊の力を借りて自然を操る技。風を操りたければ風の精霊の紋章を、火をおこしたければ火の精霊の紋章を、身に描くことでその属性の術を使うことができるのだ。
レギナルトは術として使える八つの属性の紋章を、体の見えるところにも見えないところにも刻んでいる。
紋章術は学院で専門の教科を受講するか、もしくは公営の訓練所に通い、そこで理論と実践を学び、国家試験に合格することで術士としての資格を得る。
資格は属性ごとに受ける必要があり、さらに扱う術のレベルに応じて、初級、中級、上級と資格の中身は分かれており、それぞれに紋章の形も異なる。
レギナルトはすべての属性において上級資格を持っている、もはや紋章術マニアと言って良い。その魅力を伝導すべく、周囲の人間に片端から紋章術士の道を勧め、かく言うアニエスも彼に巻き込まれた一人だ。
勧められた時はすでに古書修復士を目指していたが、断り切れず学院在学中に講義を受け、水と風の二つの紋章術の資格を取った。紋章は左腕と右腿にそれぞれペイントされている。ペイントが薄くなれば、その都度自分で描き直す。体に彫り込むレギナルトのような者はよほどの酔狂だ。
アニエスが風と水の属性を選んだのは、古書修復に際して汚れたページを浸け置きするための純水を作ったり、風で本を乾かしたりなどができればと思ったためである。よって本来はそよ風を起こしたり、わずかな水溜まりを生む程度の初級資格があれば十分だったのだが、ここでもレギナルトに指図され中級を受験する羽目になり、おかげでアニエスは少しばかり空を飛ぶことができる。自動的に高所作業員の資格も得た。
水のほうは試験に落ちたため、後で初級を受け直した。上級術士を増やしたかったらしい兄はその結果にひどく不満な様子だったが、アニエスにはそれ以上、彼に付き合う余力がなかった。
それで現在のレギナルトは、残る末妹と末弟にすっかり狙いを移している。
「シャルー、お前も学院に入れよー」
「やー、ですー」
早々にアニエスへの興味を失い、レギナルトはシャルロッテの肩に腕を回す。シャルロッテは酒臭い息がかかるのを嫌がり、兄の顔を両手で押しのけた。
「お勉強は嫌いですもの」
「紋章術は普通のおベンキョとは違うってー」
「俺やるよ兄様!」
どこにいたのか、気づけばレギナルトの腰にハイニが取り付いていた。
「ハーイニー。お前はいい子だなー」
柔らかい栗毛の十歳児は、奇天烈な兄をきらきらした眼差しで見上げている。先ごろ自我が芽生えたばかりの男児にとって、抜群に個性的な兄は鮮やかに映るのかもしれない。
言動もどんどんレギナルトを真似るようになり、兄としてはこの上なく可愛い弟だ。
シャルロッテはハイニが現れると、つんと顔を逸らす。しかしレギナルトに夢中なハイニは、姉の機嫌など露ほどにも気にしていなかった。
まして、その上の姉の存在など、弟の視界には入りもしない。
アニエスはそっと場を離れ、人の少ないテーブルへ移った。
「やあ」
低い女の声が避難者を迎えた。
ダークブラウンの髪色の、落ち着いた雰囲気の美女の傍に来ただけでアニエスは安堵する。美女は一人でワインと料理をつまんでいたようだ。
「フィーネ姉様。お久しぶりです」
「久しぶり。元気にしていたかい?」
「はい、なんとか」
「はは、相変わらずで何より」
男らしく、というよりは少年らしく、フィーネは快活に笑う。
彼女はアニエスの十歳上の、第五王女。普段は王都郊外にある国所有の植物園に勤めている植物学者だ。
レギナルトとはまた異なる意味で、風変りなこの姉はアニエスが気構えずに話せる貴重な相手である。
「シャルロッテに修理を押し付けられて、レギナルトから逃げて来たってところか」
緑晶の瞳を、フィーネは人形、続けてアニエスの後ろへ向ける。アニエスは振り返らずに頷いた。
「困ってる時は言うんだよ。特にレギナルトが元凶の時はね。学院で妙なあだ名を定着させたのはあいつだろう? カイザー兄様に叱ってもらうといい」
「いえ、さほど気にはならないので・・・」
カイザーとは長兄だ。二十七も離れている兄は父よりもむしろ畏れ多い。
会場を見回せば、兄の明るいブラウンの頭が遠くに見える。最初からずっと彼を囲む人の輪は消えない。
戴冠式はまだだが、ニコラスの老いが増した頃からカイザーは実質の統治者だった。
彼は父とほぼ真逆の、誠実な男である。妃は一人。側室はなく、十九と十五の息子がいる。
堅実な政治を行うカイザーを見て、国民はガチョウが黄金を生んだのだと噂する。ニコラスが特別愚かで大きな失策を犯したということはないのだが、度外れた好色が目立つために、彼はしばしば蔑視される。
カイザーの傍らには、群を抜く長身の次兄デュオニス、三男ゴードン、四男イェルクがある。
デュオニスは軍部の責任者を務める豪放磊落な武官で、兄弟の中で最も体が大きく、最も声が大きい。本人は機嫌良く話しているつもりでも、遠くでは怒鳴っているように聞こえ、アニエスはいつも少し怖い。
一方、その陰に自然と隠れてしまう政務官のゴードンは、常に顔色の悪い物静かな男だ。実を言えばアニエスは、この兄に勝手な親しみを感じている。寡黙で陰気な様子が身近に思えるのだ。
対照的に、外交官を務めるイェルクは洒落っけのある華やかな男だ。人好きのする微笑みと雄弁を武器に、様々な国と折衝を行っている。弟妹や甥姪たちのために、各国の土産の菓子がよく王城には置かれていた。ただしアニエスだけは遠慮して、ほとんどそれを口に入れたことがない。
カイザーを含めたこの四人の兄たちが、現在のスヴァニルの中枢を担っている。特に話すこともなければ、滅多に目が合うこともない、アニエスにとっては遥かな存在だ。
「――まあ、レギナルトが一番大人しく言うことを聞くのはやっぱり、ファルコだろうけどね」
フィーネはそう言ってワインを口に含む。アニエスは遠くの兄たちから、姉に再び視線を戻した。
「ファルコ兄様、ですか?」
「レギナルトはファルコに憧れて紋章術士になったくらいだからね」
「・・・ファルコ兄様は、紋章術士でしたか」
「そうだよ。しかも上級術士。どうせあの奇天烈な格好も、ファルコを意識してやってるんだろうさ」
「はあ・・・」
アニエスにはいまいちピンとこない。ファルコという五番目の兄を、あまり覚えていないのだ。
というのも彼は城を出たきり、すでに七年ほど行方をくらましているのである。十八人も子がいれば一人くらい行方不明者が出てしまう。
無事に生きているのなら、フィーネと同じ二十八になる。もともと自由奔放な気質を持つ者が己の足で出て行ったのだからと、ニコラスは捜索隊を出すこともしなかった。
ニコラス王は己にそうするように、どこまでも我が子を自由にさせたがった。その良い例がファルコであり、レギナルトであり、フィーネであり、アニエスなのである。
さらに、もっと代表的な例もある。
「――お。アニエス、見なよ。久方ぶりの大将戦だ」
フィーネが他人事で囃す先、二人の女が会場の中央でばったり出くわし真っ向から睨み合っていた。
アニエスの心臓はまずいものを見たように、ぎくりと大きく跳ねる。
「ご機嫌よう、クリスタ姉様」
睨み合っている一人、肩口で切り揃えた深い緑の髪色の女が、微笑みを浮かべた。その形の良い唇には赤。鋭利なハイヒールも同じ色である。服は黒いタイトなロングドレスであるため、余計に鮮烈だ。
第二王女のエリノア。微笑みながらもその紫色の目は鏃の鋭さで敵を見据える。
対して、伝統的な足首まで隠れる黒いドレスをまとい、黒の扇子で口元を覆う女は、その露出している顔の上半分を微動だにしない。四十を間近に控えながらも、ハリと光沢のあるブロンドを優雅に巻いて肩に垂らしている。丸い額は陶器のように滑らかだ。
第一王女、クリスタは氷のごとき青い瞳で、エリノアを無感動に見返していた。
「父の葬儀で、ご機嫌とは不謹慎な者ですね」
「嫌ですわ姉様、誤解なさらないで。単なるお決まりの挨拶ですのよ」
アニエスの場所から、エリノアは微笑みを浮かべたままに見える。しかしそのこめかみにはきっと青筋が浮いているに違いなかった。
一方で感情の読めないクリスタは、ひたすら静かに攻めていく。
「果たして誤解でしょうか。葬儀に遅れておきながら、よくも堂々とこの場に立てますね。さすが、面の化粧はよほど厚く塗られていると見えます」
「えぇぇえ今日は特別厚く塗って参りましたわ。ネチネチうるさいどこぞのババアが、田舎から這い出てくるのがわかっていましたからね」
エリノアも負けてはいない。あくまで上品さを保つクリスタが真似できない言葉を使って反撃していく。
「優雅に日々お暮しの姉様にはおわかりにならないでしょうけれど、こちらはいつでも重大案件を抱えて大忙しなのよ。私がいくつ会社を持っているか姉様はご存知でした? 親が死のうが子が死のうが、日々果たさねばならないことがあるのよ」
「あら、子の一人もないくせに。その言い訳では、仕事を手早く処理できない自身の無能さを語っているかのようね」
だん、とエリノアがヒールを床に打ち込んだ。
「旦那の領地をガキとお散歩してるだけの女に言われる筋合いないわよ!」
「無礼者。いい加減その口汚さを改めなさい」
そこで初めてクリスタの金色の眉が歪んだ。いつの間にか周囲は静まり返っている。
「はは、久しぶりだと激しいね」
チーズをつまむ、フィーネだけが暢気に笑っていた。
三十八と三十六の、長女クリスタと次女エリノアは、まさに水と油、月と太陽、縄張りを争う雄犬のごとく、面と向かえば噛みつき合いが止まらない。彼女らの性格は見事なまでに真逆と言えた。
クリスタはとかく格式を重んじ、奇抜を嫌う。彼女は二十二で大臣と結婚し、息子と娘を二人ずつ生んだ。普段はクラシックドレスに身を包み、王都に勤める夫にかわり、領地を守り暮らしている。それが昔ながらの貴族の妻らしい、慎ましやかな生活だ。
一方、エリノアはどんな我儘も許してしまうニコラスの教育方針の中で、最初に大成した人物だ。
彼女は現在、王都を中心に四つの会社を経営している。中身はホテル営業、化粧品販売、広告代理、貿易と多岐に渡り、スヴァニル初の女実業家として名を馳せた。
ひと昔前まで職業婦人のいなかったスヴァニルだが、エリノアの鮮烈な成功事例は、世の女性らの社会参画に対する意識を急激に加速させた。
王女など、戦時中であれば他国への人質として、そうでなければ家柄の釣り合う臣に下賜されるのが常であったのに、エリノアはまだ結婚もしていない。そのことにニコラスが怒ることはなく、むしろ歓迎すらしていた。基本的には自由を許す父だが、こと娘の結婚に関しては異常に渋る性質だったのである。
自分は娘より若い女に手を出すくせに、己の娘が早くに結婚してしまうことにはひどく抵抗があったらしい。
それまで結婚する年齢に決まりがなかったのを、彼は誰でも十八以上でなければならないとの法律を新たに作った。その上で、自分の娘たちには少なくとも二十歳まで絶対に認めないと口頭で付け足した。
それはクリスタも例外ではない。彼女が婚姻の許しを得るまでには非常に多くの時がかかった。
それだけが原因ではないにせよ、クリスタはニコラスを心底嫌っている。見境なく女に手を出す父を、まるで貞淑の見本たる彼女はおそらく、娘たちの中で最も強く憎んでいた。さらには、淑女の品格をかなぐり捨てたエリノアの所業の許容など、父の行動の悉くが彼女の好みにそぐわなかった。
クリスタは地方の領地に移って以降、ほとんど王城には帰らず、ニコラスは彼女に里帰りを願う手紙を毎月送り続けていた。
どちらかと言えば、アニエスはエリノア側の人間である。ほんの十数年前ならば、王女がアナグマと揶揄され書庫の奥深くに籠ることなどありえなかった。エリノアが行動していなければ、アニエスは夢を持つことすらできなかったろう。
エリノアはアニエスにとって太陽のような人物である。無償の恩恵を与えてくれる、絶対に届かない、憧れの存在だ。
しかしクリスタの考えも無視して良いものではないと思っている。伝統がまったく意味なくそこに在るものではないことを、古書という歴史の体現物に携わる修復士はよく知っていた。そのため、この二人の口論が始まると決まってアニエスは胃が痛くなる。
「心が柔いねえ」
徐々に丸まっていく妹の背を、フィーネはさすってやった。
「お前たち、いい加減にしないか」
ヒートアップする姉妹の喧嘩は、エリノアの手が出る前にカイザーが物理的な仲裁に入った。
この妹二人の口達者には次期国王でもまず敵わない。諭すのでなく、腕力を使って互いの視界に入らないところまで引き離すしか策はないのだ。
「兄様は引っ込んでて! 今日こそ叩きのめしてくれるわ!」
「それをやめろと言っとる! ちと頭を冷やせ!」
「クリスタ姉様、隣でハーブティーなどいかがでしょうか? 先日、良い茶葉が手に入ったのですよ」
「・・・」
暴れるエリノアはデュオニスが羽交い絞めにして引きずり、不機嫌に黙り込むクリスタのことはイェルクが別室へエスコートしていく。
それを苦笑で見送る親戚や臣下らはすっかり慣れたものだ。
「まあまあ、ちょっとお待ちなさいな」
ところが。
せっかく平和を取り戻せる寸前で、それを止める者があった。
銀色の髪の、ふくよかな老婆。誰もがその言葉に耳を傾けねばならない。
彼女の名はディートリンデ。亡き国王の正妃であり、カイザー、デュオニス、クリスタの実母である。
「母上? どうなさったのです?」
呆気に取られるカイザーへにこやかに笑み、ディートリンデは両手を広げた。
「私の十八人の子供たち――いえ、この場は十七人ね。皆、付いていらっしゃい。またばらばらに散ってしまう前に、父様からの誕生日プレゼントをお渡ししましょう」
すると厚みのある妃の背後から、骨ばった執事が現れた。それが持つ銀のトレイには手紙のようなものが乗っている。
遺書であろうか。
アニエスは咄嗟に思った。