25.近況報告
エインタートの総力を挙げた看護によって、アニエスの体調は二日後には元の通りに戻った。
だが生来の蒼白な顔色が災いし、しばらくは会うたびに、領民たちに具合を心配される日々を過ごした。
アニエスとしては、しっかり休みを取ったせいか、はたまた瓜かアナグマか魔物の乳が効いたのか、風邪を引く前よりむしろ体調が良くなったように感じている。それが顔に表れてくれれば良いのだが、相変わらず鏡に映る眼差しはどんよりと眠たそうだ。
少しでも明るく見えるように、その日、アニエスはうっすら頬と唇に紅を差し、執務室で書類を片付けながら、王都からの調査員の到着を待った。
彼らの迎えを頼んだジークが、部屋に報告に来たのは昼過ぎのことだった。
「――お。アニエース、来たわよ~」
急いでエントランスに降りると、陽気な声が飛んで来る。
頭の高くに結い上げた黒髪を揺らし、八番目の姉、コルドゥラが大きなリュックを背負ったまま両手を振っていた。
「遠路お越しいただきありがとうございます、コルドゥラ姉様。道中は問題ありませんでしたか?」
「うん、なかなか快適だったわ。寝てたら着いたって感じね」
たくましく言って、コルドゥラは白い歯を見せる。姫らしからぬ、あけすけな彼女らしい笑みを、アニエスはやけに懐かしく思ってしまった。
六歳年上の姉は、何も妹に会うためだけにやって来たのではない。彼女は学院に勤める異世界調査の研究員であり、今回はアニエスの要請を受け、異界の巨大魚の調査にやって来たのである。
調査員は総勢で六人。チームリーダーをコルドゥラが務め、他は学院を卒業したばかりと見える十代の若い男女だ。初々しい彼らはリュックの紐を掴み、館の中を見回していた。
異世界から様々なものの流入があるスヴァニルでは、昔から異世界研究への関心が高く、これまでにもあらゆる試みがなされてきている。
研究者たちの最終目標は異世界との自由な交流。その一環として、異世界生物の生態調査も各地で行われている。
コルドゥラは学院の生徒だった頃から、これらの研究に大いに興味を持って学んできた。彼女もまた、自力で夢を追う新たな時代のスヴァニル人女性なのである。
アニエスはわざわざ足を運んでくれた姉と若い研究員たちへ、その態度で敬意を示した。
「皆様のお部屋をご用意しておりますので、そちらに荷物を置いてお休みください。後ほど、軽食をお部屋に持って参ります」
客室までの案内担当のルーは、呼ぶ前からすでに駆け付け、待機している。機敏なメイドはほんのわずかな物音でも聞き付けるので、呼び鈴いらずだ。
この間、クルツにはダイニングで先に軽食や茶の準備をしてもらっている。彼の場合、人見知りをしないところは良いが、接客をまかせるには言葉遣いに若干の指導が必要である。それについては現在、ルーが一緒に仕事をしながら、根気良く幼馴染に教え込んでいる最中だ。
「待ってアニエス。あなたに預かりものがあるの、先にちょっと話しましょ。あ、あなたたちは先に行って休んでて」
ルーが案内しようとしたところ、コルドゥラは若者たちだけを行かせ、自分は残った。
「預かりもの、ですか?」
「うん。明日からは調査でバタバタしちゃうから、覚えてるうちにね。あなたの話も聞きたいし。だめかな?」
「いえ、私は大丈夫ですが、姉様はお疲れではないですか?」
「へーきへーき。こんなんでバテるようだったら、とてもレギー兄になんか付き合ってらんないわ」
陽気な姉の口から、苦手な兄の名を聞いただけで、アニエスの顔は暗くなる。もはや身に染みついてしまった反射であった。
レギナルトとコルドゥラは同母の、しかも年子の兄妹だ。それは、破天荒なファルコに憧れ、自らも相当に周囲を巻き込んで生きているレギナルトの被害を、最も近くで受け続けていることを意味している。
アニエスも学院時代や就職してからも、それなりにレギナルトの暴君ぶりに悩まされてきたが、生まれた時から実兄に手足のごとく使われているコルドゥラにはかなわない。
彼女は真っ先にレギナルトの紋章術布教活動の餌食となり、全八つの属性の紋章術を強制習得させられた。しかも、うち四つは資格取得が難しい上級である。
もともとは異世界研究に興味のあった彼女だが、一時は兄の指図で紋章術の新たな術式や属性の開発研究を行っていた。それがごく最近になってようやく解放され、異世界研究一本に注力できるようになったのだ。
喧嘩っ早いレギナルトを回収するのも、その尻拭いをするのも大抵コルドゥラの係である。
シャルロッテの我がままの受け入れ先がアニエスだったように、面倒くさくなったレギナルトの押し付け先はコルドゥラという、暗黙の了解が王城でも学院でもなされていた。
人生に何度も横やりを入れられてきた姉が、いつ爆発してしまうかアニエスは常に心配している。
というのも、ごく稀に、コルドゥラは突然頭を刈り上げるなどの奇行に走ることがあるためだ。
昨日までポニーテールにされていた髪が、次の日に数ミリしか残っていないのを図書館で見かけた時は血の気が引き、どんな辛いことがあったのかアニエスはその場で問い詰めてしまったが、当の姉には不思議そうな顔をされた。
別に意味はない、なんとなくだと言い返され、アニエスはしばらく理解できずに固まった。
今でも、何の意味もなく頭を刈り上げる心境をアニエスは理解できていない。普段は大人しめの格好をしている姉が、見事なピンクに髪を染めてきた時も、同様によくわからなかった。
深層のストレスが珍妙なファッションに走らせているのか、それとも奇天烈な兄と共通のセンスを根本に持っているだけなのか、未だにアニエスは計りかねており、コルドゥラを前にする時は心の片隅がいつも落ち着かない。
王城を出て働き始めてからは、同じ官舎に住んでいた姉に世話になることがたびたびあり、なんだかんだと恩が深いため、つい気を使ってしまうのだった。
ともかく、アニエスはソファとカーペットを新調したゲストルームに姉を通し、荷運びをしてくれたジークを下がらせ、二人きりで向き合う。
コルドゥラは茶請けに出されたクッキーをさっそく齧りながら、ぱんぱんに膨れたリュックから新聞を三誌取り出して机に広げた。
「まずこれ、お土産に先月の新聞。もう王都でけっこうな評判よ? あなた」
「・・・評判に、なってしまっていますか」
アニエスはげんなりとした面持ちで、新聞記事の一面に目を落とす。
この三誌は王都で多くの人に読まれているメジャー誌だ。
見出しはそれぞれ、『新国王、前代未聞の失策』、『世にも奇妙な女辺境伯』、『魔女の妹、魔物の王を調伏せり』。
スヴァニルでは王女を表す真珠のティアラを付けたアナグマが、領主の椅子にふんぞり返っている風刺画のおまけまでついている。
いずれも好意的とは言い難い。
特に、以前アニエスが他の姉たちとともに、社会進出する女性批判の槍玉に挙げられた、保守派のアトリック誌では、遺言のまま叙爵を行ったカイザーを強烈に批判しており、胸が痛くなる。
とはいえ、まだそちらは想定内であったのだが、各誌を読み込んでいくと最終的に、なぜだかエリノアに矛先が向けられていたのが予想外だった。
「不思議よねえ」
温かい茶に息を吐き、コルドゥラがしみじみ漏らす。
「実際に魔王を倒したのはアニエスなのに、なぜかエリノア姉様が恐れられてるのよね。記事も後半は姉様の話がメインになってるし」
「・・・途中で書くことがなくなったのかもしれませんね」
三誌の中では娯楽色の強い、フォルトワルト誌の見出しにある『魔女』とは、エリノアを指す造語である。
魔物のごとき恐るべき女、という意味で、彼女が起業を成功させた当初からずっと使われている、もはや愛称である。
魔女がとうとう本物の魔物を従わせるようになったとの大きな誤解が、平然と誌面には書かれていた。
もっとも、フォルトワルト誌を読む人間は、こうしたフェイクや誇張表現を楽しみにしている者ばかりなので、人々を喜ばせるいつものこの新聞らしいジョークではある。
三誌とも、アナグマと呼ばれていた以外にこれといったことは何もしてきていないアニエスを、掘り下げたところでおもしろい記事にならなかったのだろう。
その結果、さすが厚かましい姉を持つ妹は、とエリノアに批判が飛び火し、むしろそちらのほうで盛り上がってしまったようである。
こうなると、果たして真にアニエスが話題となっているのか定かではない。どちらかと言えば、エリノア批判のための材料に使われた感が否めない。
「ま、これもいい宣伝になったって姉様は喜んでたわよ。ってことで、お礼の新作の化粧品を預かってきたわ」
コルドゥラは新聞の上に、エリノアの会社のコスメセットを次々に並べていった。数種類のファンデーションに口紅、シャドウ、ブラシが十数本、美容液のボトル各種。
アニエスは唖然としてしまった。
「こんなには、必要ないです・・・以前いただいた試供品もまだ残っていますので」
「うん。だろうから、全部捨てて新しいのを使いなさいって。辺境伯がいつまでもカビの生えたもの使ってんじゃないわよってさ」
「いただいてから一年も経っていないのですが」
「流行の移り変わりは早いからねー。私もちょっと古めの使ってたから、ついでに怒られちゃったわ」
あはは、とコルドゥラは明るく笑っていた。
新商品の宣伝も兼ね、エリノアは定期的に妹たちに自社の化粧品を配るため、おかげでアニエスは自分でそれらを買ったことがない。
姉の心遣いは素直に嬉しいのだが、いまいちどう使って良いかわからないものばかり手元に増え、現状では持て余してしまっている。
(いくつかトリーネさんたちにあげよう)
わざわざここまで持って来てもらって返品というわけにいかないため、アニエスはありがたく頂戴しておくことした。
「でも、驚いたわー」
背もたれに寄りかかり、コルドゥラはそうしてどこか感心したような声を出す。
「叙爵した時も驚いたけど、魔物と命がけで勝負とか。あなたのインタビューが載ってるあの雑誌も、なんだか知らない人のことが書いてあるみたいだったわ」
「あれはだいぶ誇張されています。魔王は倒したわけでも従えているわけでもないのです。魔物を森で統治する約束は果たしてくれていますが、他のことでは言うことを聞いてくれませんので」
言い訳はすらすら出てくる。アニエスもいい加減、慣れ始めていた。
コルドゥラは「ふうん?」と首を傾げた後、一度茶を含んでから、再び口を開いた。
「実はレギー兄がね? 魔王と『鬼ごっこ』なんて、絶対にあなたらしくないって疑ってるのよ。これがファルコ兄だったら納得するけどって」
ぎくりと、アニエスの心臓は大きく跳ねた。
「私は、たまたまそういうおもしろい人がアニエスの傍にいたんじゃないかって言ったんだけど、レギー兄ってほら、人の話聞かないしファルコ兄のこと大好きだからさ、ずっと疑ってるのよ。あと、あなたの紋章術の腕前じゃ魔王になんか勝てないはずだって。調査ついでに確かめて来いって言われちゃってね。一応訊くけど、ファルコ兄なんて来てないわよね?」
アニエスは迷った。
ファルコの件については、カイザーに口止めされている。だが家族にもそれが適応されるのか、よくわからない。
ファルコの安否はレギナルトもコルドゥラも多少は気にしているのだろう。普通に考えれば、ここは知らせるのが情というものである。
「――実は」
悩んだ末、アニエスは正直に打ち明けた。
コルドゥラは黒目を大きく見開き、そして、まずいことを聞いてしまったかのように苦笑いを浮かべた。
「あー・・・それは、レギー兄が嫉妬で怒り狂うわ」
すっかり話してしまってから、そう言われても遅かった。
「私は、怒られるんですか・・・?」
「うん。もー、会ったらうっとうしいくらい羨ましがられると思うわ。悪酔いした時みたいに、しつこくて嫌な絡み方をされると思う」
アニエスは、それほどまでにレギナルトがファルコを慕っているとは知らなかった。幼い頃はとにかく、できる限り避けてきた二人だったのである。
(しばらく王都には帰らないようにしよう)
即座に決意する。悪酔いした時のレギナルトほど、この世で面倒なものはない。
「あー、アニエス? たぶん、しばらく王都に帰らないって思っただろうけど、実は再来月にこんなことがあるの」
やや気まずそうに、コルドゥラが差し出したのは、クリーム色に金の装飾が入った美しい封筒だった。
「グレーテの結婚式。その招待状よ」
これまた予想外のものをよこされ、アニエスは眼鏡の奥で瞬いた。
(そういえば、グレーテ姉様は遺言で結婚のお許しをいただいていたんだっけ)
葬儀の日、ノルベルト・ブラーシュという青年の名が読み上げられたことを思い出す。
しかしその後については、自分のことで頭がいっぱいだったアニエスの知るところではない。
「結婚、することになったのですか。・・・少し、早くはないですか?」
「それも父様の遺言なのよ。どうも、生きてる時に密かに二人の結婚準備を進めてたみたいでね? 『私の死後も決して喪になど服さず、めでたいことを重ねなさい』って、王妃様宛ての遺書に残して、日取りまで決めてたらしいの」
コルドゥラは王妃と言ったが、正確には今は王太后である。まだ新しい呼び名が頭に馴染んでいないのだろう。
姉の話は、アニエスにとって何やら信じられないことだった。
「よほど、そのお相手の方を父様は気に入ってらしたのですね。私はよく知らないのですが、どういう方なのですか?」
「宮廷画家よ。父様に才能を買われていたんですって。ほら、グレーテも絵を描くでしょ? 二人とも気が合ったみたいで、こっそり付き合ってたのね。父様にも王妃様にもばれていたようだけど」
「なるほど」
父のニコラスは芸術面において類まれなる才能を持っていた。おそらく王家に生まれていなければ、彼は純粋な芸術家として大成していただろう。それだけ熱心に絵にも彫刻にも取り組んでいた。
ニコラスの芸術面における才能を最も受け継いだのが、九女のグレーテだ。彼女もまた趣味の域を超えた腕前を持ち、その絵画やオブジェが市場で高値で取引されている。
その父と姉が惚れ込むくらいなのだから、ノルベルトという青年もおそらくただものではないということは、アニエスにも想像がつく。
娘の結婚、息子の即位、ついでにアニエスの辺境伯就任も加え、なんなら己の死すら、めでたいことの一つに数えようとでもしている父の考え方が、あらゆる享楽を是とした彼の軽やかな人生観を表しているようで、アニエスは少しばかり頬が緩んだ。
だが、すぐにそれも固くなる。
再来月に結婚式があるということは、アニエスも王城に行かねばならないということだ。
「あなたの大変な事情は皆わかってるから、無理に来なくてもいいけどね?」
コルドゥラは気を使って言ってくれるが、それでも基本的に結婚は一生に一度のことだ。姉の幸せを祝いに行かないのは、あまりに薄情に思えた。
「・・・都合をつけて、必ず参ります。なので、あの、コルドゥラ姉様。レギナルト兄様には、できれば、ファルコ兄様のことは内密にしていただけると・・・」
「はいはい。適当にごまかしておくわ。ただ、どっちにしろ絡まれるとは思うから覚悟しといてね。わかりにくいけど、レギー兄もあなたのことは心配してるのよ」
「はあ」
心配などしなくて良いから、放っておいてほしい。と、本音を言えれば苦労はない。
(――まあ、でも、グレーテ姉様が幸せになれそうで良かった)
兄の件は少々憂鬱であるものの、姉の結婚は素直に喜ばしい。
何より父の遺言が着実に果たされていることに、アニエスは安心していた。




