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22.面接②

 領主館から少し歩き、アニエスは志願者たちを工事現場へ連れて来た。

 領地を案内するとは言ったものの、どこに行ってもほとんど景色の変わらない荒野で、見てもらうべき場所は少ない。

 本日、工事現場には十三名の領民が来ている。巨大魚に台無しにされた区割りをやり直し、潰れた木造重機の修復作業などを行っており、ぞろぞろやって来たアニエスらに一旦作業の手を止める。

 事前に見学の人間が来ることは伝えていたため、アニエスは領民たちに目礼だけ済ませ作業を続けてもらい、志願者たちへ復興作業の現状について説明しようとしたところ、

「あ、アニエス様~、ちょっといいですか~?」

 暢気な声を上げ、領民の青年が一人、駆け寄って来た。またしてもアニエスは出鼻を挫かれた。

 青年の名はマリク・フェルケ。領民たちのまとめ役をしているディノの次男坊で、年は十八で成人のはずだが、言動がどうにも幼いマイペースな人物である。

 説明を待つ十名の志願者たちが視界に入っている上で、話しかけても構わないと判断したらしく、遠慮なくアニエスの傍へ来た。

「ローレンから借りてる重機なんですけどー」

「おい、こらっ」

 と、すかさず止めに入ったのは、アニエスでもジークでもない、志願者の一人だった。

 フロックコートを着た貴族風の男。彼の履歴書には、フィリップ・コーハンという名が記されている。コーハンはアニエスも聞いたことがある伯爵家の名だった。

 仕立ての良いコートの襟には、公認会計士の証しである銀の章が小さく輝いている。

「平民ごときが閣下に話しかけるとは何事だっ」

「かっか?」

 マリクは呆けた面をし、遅れて、それが彼の主を指す言葉であると気づき、唇をぎゅっと噛んだ。地味なアナグマ領主にはまるで似合わない、仰々しい敬称に吹き出しかけたのだ。アニエスは無駄に恥ずかしい思いをした。

「まったく田舎者は礼儀がなっていないなっ。私が監督していればこのような無礼者をのさばらせはしないのですが――」

「いえ、私は構いませんので」

 本来の家臣たちよりも憤慨するコーハンをなだめ、アニエスは他の志願者たちに一言詫びて、マリクへの対応を優先させた。

「どうしましたか?」

「あ、はい。重機のことなんですけど、修理ついでにちょっと改造しても構いませんか?」

 半笑いの顔で、マリクはそんなことを言い出す。

「・・・できれば、元通りに直していただきたいですが、改造が必要そうなのですか?」

「いやー、まー、改造と言いますか、照明を取り付けたらどうかなーと思いまして。そうすれば夜にも作業できるじゃないですか? 昼間は畑仕事とかありますけど、夜は寝る以外することないので」

「なるほど」

 工事はいつだって遅れている。夜間も作業ができるのであれば、悪くない提案だった。夜行性の魔物についても、今ならギギが森に抑え込んでいるため、比較的危険は少ない。

「――わかりました。ですが、他の皆さんとも相談しましょう。畑仕事の疲れもあるでしょうから、夜間の作業を無理強いすることはできません。話し合いの結果次第で、もし可能そうであれば必要な部品はこちらで手配しますので、今は修復作業を続けてください」

「はいー了解しました」

 マリクは言いたいことを言えたことに満足し、作業に戻った。

 その背をコーハンがまだ睨み、アニエスの耳元へこそこそと進言する。

「あまり甘い顔を見せていると増長しますよ。もし私が閣下の会計士となりましたなら、まず彼らの給料を――」

「いえ、大丈夫です、大丈夫です」

 アニエスは軽く両手で顔の横をガードし、二歩ほど距離をあけた。

 すっかり意気消沈している志願者たちの中で、コーハンは唯一魔王の脅しに屈した様子がなく、今のところ最もあからさまに勤務意思を表明してくる。

 徒歩移動の間もまるで従士のようにアニエスの傍に付き、むしろ本物の従士であるジークのほうが、志願者たちの団体後方の離れた位置で静観していた。

 まだ、彼に助けてもらうほどではない。

 アニエスは仕切り直して、説明を始めた。

「過去の地図をもとに、まず農村の再建を行っております。作業員はすべてローレン領に避難しているエインタート領民です。彼らには小作人としての仕事もあるため、日替わりで作業に来ていただいています。現在、工事の業者も探してはおりますが、魔物への懸念や辺境地ということもあり、なかなか引き受け手が見つからない状況です」

 作業員は日雇いで、毎日手渡しでアニエスは給料を支払っている。

 収入の少ない領民へ金を回すことができるため、彼らに働いてもらうこと自体は何も悪いことではないのだが、日に十数名程度がやって来てちまちま作業を進めているようでは、いつまで経っても復興は叶わない。やはり他所の人手と機械が必要なのである。しかし、それが集まらない。

 すると、最前列にいる眼鏡の女が手を挙げた。

「その探された業者の中に、《工人ギルド》は入っていますか?」

 履歴書にある彼女の名は、ミリィ・レーヴェ。最初と変わらず、やはり怒りを抑えているかのような強張った話し方をする。

「・・・いえ。すみません、工人ギルトとは、なんですか?」

 やや委縮しながら、アニエスは訊き返した。そんなことも知らないのかと、怒られはしないか内心では恐々としていた。

 一方、レーヴェは特段表情も口調も変えることなく応じる。

「工人ギルドは、建築を専門とするギルドです。かつての戦争で野戦築城などを得意としていた工兵集団が、そのノウハウを一般建築に活かすというコンセプトで近年新たに設立しました。現状はもっぱら他の工事業者の下請けとなっているようですが。そちらに依頼をされてみてはいかがでしょう。おそらく、あちらは喜んで引き受けると思われます」

 やけに自信ありげに言うので、アニエスは一時恐れを忘れ、興味をひかれた。

 その様子を見て、レーヴェは話を続ける。

「彼らは元傭兵ですから、魔物に対する恐怖は少ないでしょう。また普段が下請けばかりなので直接の依頼は泣いて喜びます。最新の重機等は所持しておりませんが、一通り操作できる技術者がおりますので、機材を買いそろえてやればよく働くかと」

「そう、ですか。・・・確かに、技術者と最新の重機があれば工事ははかどると思いますが、その重機を購入するにも、輸送手段が問題なんです。特に、今は入江が使えない状態なので」

 大きな機械を運ぶ時は船を使う。陸伝いでは時間がかかる。

 幸いにもエインタートには港を作れる場所があるが、不幸にもそこに異界の化け物が棲みついてしまった。

「その化け物にも魔王のような手法は取れませんか」

 アニエスがつらつら問題を述べた後、レーヴェは間髪入れずに言い返した。

 そのようなことを思いも寄らなかったアニエスは、礫を喰らった鳩の顔になる。

「・・・わ、かりません。まだ、どういった生物であるかわからないのです」

「では早急に調査をされたほうがよろしいかと。王都の研究院に協力を仰いではいかがでしょうか。学術的価値があるものは無料で調査をしてもらえます。また、重機や輸送船についても場合によっては、いずれかの姉君のお嫁ぎ先から安価に借り入れることも可能なのでは? 失礼ですが、いま少しご自身の手札を有効に使われてはいかがでしょうか」

「・・・はい。すみません」

「それから領民についてですが、彼らを小作人として雇用している地主とはお話しされましたか」

「い、いえ」

「では早急にそちらとも交渉されたほうがよろしいでしょう。工事をギルドに依頼するにせよ、彼らも潤沢な人員を確保しているわけではございません。この地の領民たちの手は必要です。ですが、現状の畑仕事との並行ではお話にならない。ここは権力でもなんでもお持ちのものを行使し、積極的に人員をもぎ取りにいかれるべきかと存じますが、その点はいかがお考えですか」

「はい・・・あの、はい、おっしゃる通りだと思います」

 提案から説教まで、流水のように止まることのないレーヴェに、アニエスは同意することしかできなかった。

 周囲はその淀みのなさに圧倒され、しばし呆けていたが、最初にコーハンが我に返った。

「貴様っ、平民の分際で身の程知らずに何を言う!」

 レーヴェは無表情に男を見やる。

 対してコーハンは激し、鼻息荒くまくし立てた。

「お前ごときが言うようなことは私も、当然閣下もお考えだ! それをさも賢しらに語り、閣下を貶めるとはどういうことだ! おいお前、その無礼な女を捕えろ!」

 後方で静観していたジークへ、コーハンは命じた。

 思わず苦笑するジークが指示を仰ぐ目線を向けてきたため、アニエスははっきり首を左右に振る。

 命じた者がたとえ国王であったとしても、従士が従うのは彼の主の命令のみ。主人がいる場で、その従士に命じる行為こそ、傲慢無礼以外の何物でもないのだが、それにコーハンが気づいている様子はなかった。

 アニエスは一つ、息を吐く。

「貴重なご意見をありがとうございます。多くのことに気づかされました」

 コーハンが動かないジークへさらに怒鳴りつける前に、アニエスは一歩出てレーヴェに感謝を述べた。

 レーヴェは頭を下げ、謹んでそれを受けた。

「――では、他に質問等がなければ、続けて領民たちの避難所へご案内します」

 当初は領主館の見学も考えていたが、ギギのおかげで中止となり、すでに次が最後の見学場所である。

 再び馬車に乗るため館の門前へ戻る間、やはりコーハンがアニエスに張り付き、ぼそぼそ助言してくる。

「あの女、怪しいですよ。こちらの弱みに付け入り、ギルドなどというならず者たちを勧めてくるとは。王都の裏にのさばっている詐欺集団の一員かもしれません。と申しますのも以前、私が侯爵家に務めていた時の話なのですが――」

 行きは彼のしっかりした生まれや経歴についての解説ばかりだったが、帰りは出た杭を打ち込むことに終始しており、アニエスは機械的に相槌を返しながら穏便にその場をやり過ごした。代償に、心労が着実に溜まっている。

(・・・それにしても)

 言われれば言われるほど、アニエスが気になるのはレーヴェのことである。

 履歴書に、彼女の年は二十二とある。その若さもあり、資格は持っているものの会計士としての仕事は一度も経験がなく、これまで短期の事務職や日雇いの仕事で食いつないでいたようである。それらの経験の中で、ギルドなどの実情にも詳しくなったのだろうと推測された。

 そもそも女の会計士は世に少ない。社会における女への信用度が低いことが大きな要因だ。他に集まってきた志願者たちも、やはり女は会計士としての雇用経験が皆無である。

 しかしレーヴェの着眼点や、かろうじて礼を失しない範囲での堂々たる振る舞いには、何かしらの背景が窺えるようにアニエスは思えた。


 志願者たちを馬車に乗せ、再びローレン領へ戻る間はジークとクルツに彼らをまかせ、アニエスは空を飛び、一人で先に避難所の長屋へ降り立った。

 上空にいる時からすでに、そこには香ばしい匂いが漂っていた。

「あっ、お帰りなさいませ!」

 細腕で大皿を抱えたルーが、傍に降り立った主に明るく声をかける。

 どうにも御せない年長者たちへの応対に疲れたアニエスは、子供らしい屈託のない笑顔にわずかばかり癒された。

「お疲れ様です。もうすぐ面接の方々がこちらに来られますが、準備のほうはいかがですか?」

「ばっちりです! おばあちゃんも手伝ってくれましたからっ」

 言われて長屋の中を覗けば、腰の曲がったララが、助っ人に来てくれた娘のリリーと共にスープの味見をしていた。アニエスのほうを振り返った顔には、実に生き生きとした気色が浮かんでいる。

 事前にアニエスは長屋の女性陣に昼食の用意を頼んでいた。遠方まで来てくれた志願者たちへ、せめてもの感謝の気持ちだ。

 通りに出されたいくつものテーブルに、もはやお決まりのクムクムのケーキや、小麦を小さく丸めて入れた野菜たっぷりのスープ、芋とソーセージのスライス、ケプスという大きな葉野菜に、炙った山鳩の肉をクムクムの葉や実と共に巻き込んだ料理などが大皿に並ぶ。いずれも地元の幸を使った郷土料理だ。

 アニエスも何か手伝おうとしたが、やんわり断られた。そこには領主に雑用をさせられないという理由と、かつてギギのためにケーキを焼こうとし、竈を吹き飛ばしたアニエスの母の前科が影響しているようだった。

 アニエス自身も、特に料理の経験があるわけではないため、反論もできない。

「面接はどんな感じです?」

 取り分け皿を用意しているトリーネが、手持無沙汰の主に尋ねた。

「・・・色々ありまして、大多数の方がもう帰りたそうにしています。個人的には詳しくお話を聞きたい方がいるのですが、残っていただけるかわかりません」

「でしたら、そこはほら、ララさんの絶品料理で胃袋を掴む作戦でいきましょう。大丈夫、きっとうまくいきますよっ」

 トリーネもまた、ジークと同じように明るく主を励ます。

「・・・そうですね」

 アニエスはかすかに笑みを浮かべ、頷いた。

(――経験も能力もなくてはならないものだけど、やはり一番に見るべきなのは、この人たちを大事に思ってくれるかどうか)

 改めて確認し、やがて追いついた志願者たちを迎えた。

 その頃には、男たちも畑から戻って来ている。用意した昼食は彼らの分でもあるのだ。

 立食形式で自由に食事をしてもらいながら、アニエスは状況に戸惑っている志願者たちへ避難所のことを説明した。

 もう二十年以上、彼らがこの狭い長屋で暮らしていること。ローレンの民にはならず、故郷に帰ることを待ち望んで貧しい日々に耐えていること。

 領民たちも神妙な面持ちでそれを聞いていた。

「・・・かつて、伯爵家の娘であった私の母は、ここで領民たちと同じ生活を送っておりました。私もこの場所で生まれました」

 そのことにまた驚く志願者たちの顔を、アニエスはゆっくり見回す。

「皆さんの中にも貴族位にある方がいらっしゃいますが、現状ではその身分に相応しい待遇はできません。また、人手不足のため会計士の仕事以外のことを頼む場面もあるかもしれません。改善できるところはして参りますが、それでも限界はあるかと思います。その上で、エインタートの復興にお力を貸していただけるのであれば、食事の後にお話をさせてください」

 終始、現状のきずを暴露し懇願する。それで残る者は、相応の覚悟と胆力を持つ者だ。そんな相手ならば、アニエスは素性がどうあれ信頼できるような気がしていた。

 眠たげな眼差しに淡々とした口調ながら、たっぷり切実さのこもった言葉に、もともとエインタートに無関係な志願者たちは尻込みしてしまう。

 よってその中で、ぴんと指先まで伸びた手は、とても清々しかった。

「ぜひ、お話をさせてください」

 冴えない眼鏡の女が、変わらぬまっすぐな声音で言った。口の横にはクムクムの赤紫色のソースがべったりついている。

「適正額の給料さえお支払いいただけるのであれば、化け物がいくら暴れようが構いません。靴磨きでも恋文の代筆でもなんでもいたしましょう。私は貴族ではないので屋根裏部屋でも文句は申しません」

 健気なことを言っているようで、喧嘩を売っているようにも聞こえる強い口調である。今度はアニエスのほうが当惑してしまった。

「い、いえ・・・会計以外にお願いする仕事は、事務や交渉の補佐のつもりで、屋根裏以外にも部屋は余っておりますので・・・」

「そうですか。安心いたしました」

 一つも表情を変えずにレーヴェは言い、手を下ろす。

 アニエスは、彼女はギギに脅かされてからずっと怒っているのだと思っていた。あるいは問題にまごついている状況を呆れられているのではと思っていた。

 しかし、どうやら彼女は不貞腐れたような目付きの奥に、誰よりもやる気を秘めていたらしい。

「お、お待ちください! 私も!」

 遅れて、コーハンも右手を高く挙げた。彼もまた、両頬にソースをべったり付けている。

「私もどんな危険があれ閣下のお望みをお叶えするために、身命を賭す所存ですっ。こんな素性のわからぬ小鼠めよりも、由緒正しき伯爵家の子息たる私のほうが様々な場面でお役に立てることと存じます。ええもちろん、ご賢明な閣下にあらせられますればおわかりのことでしょうがうんっ!?」

 己語りの開始から間もなく、彼はその長い舌を思いきり噛む羽目になった。


 小鼠と罵った女から、顎に一撃を喰らったのである。


 驚愕するアニエスや、エインタート領民の見つめる中、レーヴェは振り抜いた拳を戻し、足元に涙目で転がる男を見据えていた。

「にゃ、にゃなっ、ぅっ」

 おそらくは、何をすると怒鳴りたいところ、舌が動かず言葉にできないらしい。男は口を押さえ悶えている。

「てめえの安い芝居には飽きた」

 冷徹に言い放ったレーヴェに、コーハンのみならず周囲が凍り付いた。

「れ、レーヴェさん、あの、なぜ・・・」

 恐る恐るアニエスが話しかけると、レーヴェは「申し訳ございません」と口先だけで詫びた。

「私は、同じ人間に怒りを我慢するのは日に三度までと決めております。それ以上はいけません。己を見失う」

 つまり、レーヴェはずっとコーハンに苛ついており、それが今、限界に達したということらしい。だが怒りを発しているはずのその顔は、先程と変わらず感情らしい感情が浮かんでいない。ひたすらに冷めた眼差しを男へ向けている。

「その徽章、作りが甘ぇぞ。ハリの花びらの枚数が一つ足りねえ」

「っ!?」

 男は咄嗟にそれを確認した。その慌てようは、偽物であることをほぼ露呈してしまっている。

「カマかけたに決まってんだろ馬鹿が」

 それまでの丁寧な物腰をかなぐり捨て、口汚くレーヴェは罵る。

「時期に合わねえ一張羅しか用意できない分際で、貴族のフリができると思うな無能め」

「な、なにを根拠にっ」

 やや回復したらしい男が反論する。

 そうして立ち上がろうとしたところ、レーヴェは男の脇の地面をいきなり踏み付けた。

 左手を踏むぎりぎりである。意気を呑まれて男の腰は再び落ちた。

「お前が伯爵の息子じゃないことくらい見りゃわかる。なぜって、私がコーハン家の私生子だからだよ」

 アニエスは目を閉じた。できれば耳も塞ぎたかった。

 明らかとなったレーヴェの素性は、非常に面倒くさい。


 伯爵家を名乗る男が、おそらく詐欺師であることをアニエスも薄々勘付いていた。格好はともかく、はじめに紹介を受ける前に、勝手なタイミングで挨拶してきたことも含め、一つ一つの言動がとても良家の子弟のものとは思えなかったのだ。

 しかし留置所も何もないため、ジークとこっそり打ち合わせ、このまま見過ごそうと決めていたのだが、ここに至りすべてが厄介なほうへ転じてしまった。

 仕方なくジークが動き出すと、それを視界の端に見て取った男が、手足で地を駆け逃げ出した。

「あ」

 それを追うかどうか、主人を窺うジークに、アニエスは少し迷う。

「ここはローレン領ですから、公爵様にお願いしてしまえばよろしいのでは?」

 すかさずレーヴェに提案され、アニエスはもう黙って従うことにした。

 特に被害らしい被害は出ていない。無理に捕えずとも、そういう者がいたということを後でラルスに知らせておけばそれで済むだろう。

「他に立候補者は――どうやらいないようですので、雇用契約の交渉は私が優先的にさせていただけると考えてよろしいでしょうか」

 他の志願者たちは、レーヴェの飢えた野良猫のような眼差しを受け、一様に後ずさった。

 アニエスは、密かにレーヴェに残ってもらえることを願い、彼女の能力や知恵に大いに期待していたが、その本性と素性を知った今では不安が大きく胸中を占める。

(・・・ほんとに、この人で大丈夫なのかな)

 対魔王の時よりも、ある意味でアニエスは恐怖を感じた。

 それでも、他に優良な選択肢はなかったのである。



 ◆◇



 ミリィ・レーヴェの母親は、かつてコーハン伯爵家でその明晰さを特別に買われ、会計事務の補佐をしていた。

 それが、現在では当主となっている伯爵家の嫡子となんやかやあり、妻に不倫がばれて母は職を追われ、幼い娘と共に路頭に迷う羽目になった。

 成長した娘は母に教わりながら会計事務を学び、死に物狂いで稼いだ金で資格を取ったまでは良かったが、なかなか女を雇ってくれる者はなく、再び路頭に迷っていたところ、世にも珍しい女領主が雑誌に出した募集を見つけ、一も二もなく飛びついた。

 その後のちょっとした下調べで、エインタートがひどく厄介な土地であり、若い領主も雑誌に書かれている通りの傑物でないことが判明したが、自分には他に働けそうなところがない。たとえどれだけ苦労しようと、必ずここで雇ってもらう。

 そんな気概を持ち、決して安くはない交通費に身銭を切ってやって来た。もし雇ってもらえねば王都に戻る路銀はなく、この辺りで行き倒れるしかない。


 ――と、そのような話を食後の面接でアニエスは聞かされ、否応なくレーヴェと雇用契約を結ぶ運びとなった。

 今後、もし伯爵家の関係者と会うことがあれば気まずいことこの上ないが、辺境地であればおそらく大丈夫だろうと、アニエスは自身に言い聞かせた。


 まずひと月は仮契約とし、翌日にさっそく領主館でアニエスに会計簿を見せてもらったレーヴェは、真っ先にリンケの研究室へ乗り込み、床に這いつくばって魔物の体毛を観察していた彼女の胸倉を掴み上げた。

「てめえの仕事を言ってみろ」

「ええ? ちょ、誰? アニエス様っ、この人なんなんですかっ」

 遅れてやって来たアニエスへ、壁に追い詰められたリンケが助けを求めていたが、アニエスはもうだいぶ恐ろしく、部屋の入り口より先に進めない。

 リンケの散財に関しては三度耐えるまでもなく、一瞥で会計担当の怒りが沸点に達したようである。

「レーヴェさん暴力はっ、暴力はやめてくださいっ」

「私の最初の仕事はこの女の調教と判断いたしました」

「なんですかっ、なんなんですかあなた!」

 喚くリンケの鼻先へ、レーヴェは研究費に圧迫されている会計簿を突き付ける。

「この度、会計士としてアニエス様にお仕えすることになりました、ミリィ・レーヴェと申します。よろしくお願いいたします。ところで、人様の金を食い散らしているあなた様のお仕事はなんでしょうか。その成果はいかほど挙がっているのでしょうか」

「け、研究には初期投資がつきものです! 確かな成果のためにはそれなりの資金が必要なんです!」

「だとしても勝手に金を使うな」

 途轍もなく低い声音で、レーヴェは凄む。

「まず予算案を作れ。物を買う前に見積書取って申請書を出せ。もっと金が欲しけりゃ途中まででもなんでも報告書を上げろ。なんの成果も出してない奴が金だけ一丁前に要求してんじゃねえぞ」

 ドスを利かせた正論を並べ、有無を言わせない。リンケは蛇に睨まれた蛙の状態で喘いでいる。

「でも、でも、そんな事務に時間を取られていたら研究が進まな」

「事務なめんな。そもそも現時点で本来の仕事放って余計な研究してるだろ。ふざけんなよ」

「うぅ・・・」

 リンケは結局、反論をすべて封じられ、その後はレーヴェの指導のもとで予算案を作成し、謙虚な額になるまで再提出を繰り返すこととなった。

 アニエスは本当にこの過激な人材を雇って良いものか、やはり不安が尽きなかったが、胸につかえていたものは少しだけ取れた。

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