19.問題、問題、問題
視界に、気づけば白い双璧ができていた。
先月ローレン領の家具屋から届いたばかりのカバノキの机には、領地の資料、見積書、請求書、契約書、その他諸々の事務書類で溢れ返り、肌触りの良い材質を味わう余地もない。
整理してもきりのない書類の山に挟まれて、アニエスは頭から煙を噴きながら、右手にペンを、左手に乗除と加減算それぞれの計算尺を持ち、ひたすら金と人のやり繰りに追われていた。
「アニエス様、今日のお手紙が届きましたよ」
亜麻のスカートにエプロンを付けた、いかにも農婦な風体の娘が、封筒の束を新たに置く。
彼女の名はトリーネ・ビュラー。事務員として新たに雇った。エインタート領民の子で、年はアニエスの一つ上の十九である。
アーモンド色の明るい髪を結い上げ、桃色の頬がふっくらと柔らかそうな、優しい雰囲気の娘だ。机仕事を始めて八日目で書類に埋もれたアニエスが、ディノに助けを求め急きょ紹介してもらった。
「ありがとうございます」
アニエスは差出人名を確認し、順に封を開く。
国内の郵便網はきめ細かく、かつ速い。近場ならば午前に出した手紙が午後には届く。遠い王都からでも、四日あれば届いた。
手紙はほぼ毎日来る。アニエスがほぼ毎日あちこちに送っているためである。相手は九割方が業者で、味もそっけもない白の封筒ばかりが積み重なる。
「どうです?」
机から落ちそうだった請求書を回収しつつ、トリーネが覗き込む。
アニエスは首を横に振った。
「だめでした」
「あぁ~」
二人そろって肩を落とす。
(工事の人手が集まらない)
今、アニエスの頭を悩ませる一番の問題がそれだ。
領民たちの畑や家を作り直すにあたり、専門の工人に仕事の依頼をしているのだが、なかなか引き受け手が見つからない。
仮にも公共事業であり、現場が遠いという難点はあるが、決して条件の悪い仕事でないにもかかわらず、彼らは一様に難色を示す。
その理由は手紙で何度もやり取りをするうちに、徐々に判明していった。どうやら距離ではなくエインタートの地そのものが、工事関係の界隈で禁忌のようなものにされているらしいのだ。
「悪い噂って、消えないものですねえ」
トリーネはもどかしそうである。
アニエスは、はじめにエインタートの地を踏んだ時に、ラルスに言われたことを思い出していた。
『この土地は呪われている』
そんな噂を立てたのが、アニエスが領地を継ぐ以前に、国の事業でエインタート復興作業に赴いた工人たちなのである。作業員が魔物に襲われたり、突風で倒れた機材に押し潰されたりなどの事故が多発した結果だ。
エインタートは呪われている。その上で魔王が棲み、魔物も消えたわけではないとなると、いくら安全だと言い張っても、信じてもらうのは容易でなかった。
だからと言って、いつまでも復興に着手しないではいられない。工事に必要な重機をなんとか手配し、昔の農村地図を参考に、手始めに領主館付近の村の区割りまでは行った。
近年は蒸気機関の発展に伴い、スチームエンジンを搭載した最新重機なども実用化に至っているが、費用が高い上に専門技術を持っている工人でなくては操作不可能であるため、昔ながらの原始的な木造重機を隣人から借り受けた。
今のところ、人員はローレン領に仮住まいする領民たちだけが頼りである。
辺境地の農民は、かつて自らの力で家も畑も作り上げてきた。昔の機械操作も縄張りもできる者が数人はいる。
しかし、今の彼らには小作人としての仕事もある。ちょうど農繁期で、夏野菜の収穫や次作の畑の準備が忙しい時期に、長年世話になってきた地主への義理を捨てて全員来いとも言えず、エインタートへは交代で働きに来てもらっている現状だ。
つまりは、圧倒的に人手が足りない。復興は遅々として進んでいなかった。
また、これの他にも頭の痛いことがある。
「――? この請求書は」
一つの封筒の中から出てきた書類に、アニエスが首を捻っていると、執務室後方の壁が吹き飛んだ。
一瞬遅れて、アニエスは風で自身とトリーネを囲う。飛び散る破片をそれで防いだ。
「来てやったぞ」
崩れ落ちる壁の外まで、皮膜の大翼を広げたギギが目の前にいた。彼女は埃を払いながら歩み来て、執務机の横に置いてあるハンモックに寝そべる。
それだけである。書類が舞い飛ぶ中、アニエスは脱力した。
間もなく、爆発音を聞いたジークやルーも部屋に駆け込んできた。
「また来たのかあんた!」
アニエスらの無事を確認したジークが、勢い、怒鳴る。
「魔王様と呼べ」
ギギはちらと視線をやっただけで、瞼を下ろす。
「・・・魔王様、できればドアからいらしてくださいませんか。壁を破るのではなく」
「面倒だ」
懇願を試みたアニエスだったが、取り合ってはもらえなかった。
彼女の突然の訪問はこれで二度目だ。
一度目は十日前。その時も壁を壊して入って来るなり、処分に困っていたファルコのハンモックに目を付け、そこで三日ほど眠り、ケーキを食べて森へ帰っていった。
なんの用があったのかわからないが、また来たということは、ハンモックの寝心地を気に入ったのかもしれない。
「おい、ケーキ持って来い」
そしてなんだかんだ文句を言いつつも、田舎菓子を気に入ったらしい。
傍若無人の極まる魔王を叱りつけることなど、当然アニエスらにできるわけもなく、唯々諾々と彼女の要望に応じるしか対処のしようがない。
改めて、アニエスはひと月前の勝負になんの意味があったのか疑問に思った。
「ルーさん、すみませんがお願いします」
「はい、すぐにご用意いたしますっ」
頼みのメイドは、子リス並の素早さで踵を返す。
床に転んでいたトリーネが腰を上げつつ、「何様ギギ様魔王様・・・」と小声で口走ったのが、アニエスにだけ聞こえていた。
「いっそ、ここの壁に出入り口を作りましょうか?」
「・・・いいかもしれません」
瓦礫と書類を片付けながら、ジークの冗談に割合い本気で同意する。
せっかく修復した館を訪問のたびに壊されては堪らない。
(それともハンモックを森へ運ぼうか)
少々面倒ではあるが、かなり邪魔だったためちょうどいい。
また、魔王に館で深く寝入られると、起きた時に《あくび》という名の目覚めの衝撃波を食らう可能性が高く、実は非常に危険なのである。
こんな状況では、外部にエインタートが絶対安全であると自信をもって宣言することもできない。
天災同然の魔王の存在も、アニエスの大きな悩みの一つだった。
◆◇
(今日こそ言う、今日こそ言う・・・)
ホールケーキを平らげ、ご満悦で眠る魔王に執務室を譲った午後のこと。
いつにも増して恐々としながら、アニエスは一階東のとある部屋の戸をノックした。
「リンケ先生、いらっしゃいますか」
返事は三度の呼びかけの後にあった。
「はい、どうぞ。開いてますよ」
中に入ると、十畳はある部屋がほとんど足の踏み場もないほど、見慣れぬ機材で埋まっていた。
何かの肉塊や内臓が浮いている、七色の液体瓶が嵌められた四角い機械が扉のすぐ横にあり、アニエスは死ぬほど慄く。
薬品と、かすかな腐臭と、なんとも形容し難い匂いに満ちた、リンケの私室兼研究室。ここでリンケが何をしているのか、その全容をアニエスは把握しきれていない。
「いかがしました?」
リンケは床に広げた複数種類の毛束から目線を上げる。奇怪な部屋の様相にそぐわず、その表情はとても朗らかだ。
「・・・調査のほうは、どうですか?」
本題へ切り込む前に、アニエスは気弱に別の話題から始めることにした。
研究員として雇い入れているリンケに、アニエスはエインタート領内にいる魔物の種類や数などの生態調査を依頼している。
危険な、あるいは稀少な魔物はどのくらいいるのか、今後のためにも基礎データとして持っておく必要があるのだ。アニエスは何事においても記録が大事と考えていた。
広い森を探索するのに、リンケに人手が必要と言われれば手配し、ジークなどの護衛も必ず同行させている。人手不足の中で可能な限り、アニエスはリンケに配慮してきた。
しかし近頃、それが看過できない事案になりつつある。
「はい、調査のほうも順調に進んでおりますよ」
も、という言葉がアニエスは引っかかった。
「進捗具合は、いかほどでしょうか」
「それは、全体の数を把握できているわけではありませんので、正確にお答えはできかねます。例えば同じ種であってもほら、この通り微妙な違いがあるのですよ」
そう言って床の毛束たちを見せてくる。
新調した眼鏡でも、アニエスにはそれらの判別ができない。
「見た目ではわかりにくいかもしれませんが、繊維の形や張りつやなどが機械を通してみると異なるのです。おそらく生まれた場所がそれぞれ違う魔物たちなのだと思われます。今は彼らの魔力を個別に解析しているところですので少々お待ちを」
「・・・そのことなのですが」
ここで、アニエスは封筒を一枚取り出した。
「こちらの請求書は、先生が注文されたものでしょうか」
さりげなく紛れていたその手紙には、字面ではなんなのかさっぱりわからない品物の名と、思わず胃がひゅんとなる高額な値が記載されている。
リンケは請求書に顔を近づけ、「ああ、はい」と悪びれもせず頷いた。
「これですよ、これ」
と、七色の液体瓶が嵌めこまれた機械を叩く。
「これは、なんですか?」
「魔力量の分析機器です。去年やぁっと改良されたのですよ。立派な値段なだけあって、なかなか良い具合ですよ」
「そう、ですか・・・これは、生態調査に必要なものなのでしょうか」
「もちろん! 必須ですよ!」
請求書の後ろから、遠慮がちに尋ねるアニエスに対し、途端にリンケは声を張る。
「魔力量の違いで生まれた環境がわかるのですっ。エインタートの魔物はどこから来てなぜここに集まったのか、解明するためには分析をしなければ」
(・・・やはり、当初の目的から逸れているのでは)
アニエスがリンケに依頼したのは、魔物の種類と数の調査である。しかしリンケはそもそも魔物がどこから来たのかという、その先の研究にフライングで手を付けてしまっている。
そしてそれに必要な機器を、アニエスに断りもなく経費で購入しているのである。アニエスは机に請求書を置かれてから、あるいは館に機器を運び込まれてから、ようやくその事実を知らされる。
研究機材は需要が少ないこともあり、往々にして高額だ。そう気軽に購入できるものではない。
アニエスは記録を大事と考え、魔物研究が進むことを大いに喜ばしいと感じはするが、さすがに時と場合というものがある。
「――あの、こういうものを購入される際は、せめて事前にお知らせ願えませんか」
意を決し、アニエスはリンケの熱弁を遮り主張した。
いつの間にか議題を魔物の起源として語り続けていたリンケは、やや驚いたように口を噤んだものの、やはり悪びれはしなかった。
「ああ、はい、そうでしたね。申し訳ございません。ついうっかりと。アニエス様もお忙しそうでしたので」
「いつでも大丈夫ですから、必ずお知らせください。その、資金も無限ではないので」
莫大な父の遺産とアニエス自身の貯蓄分を含めても、領地すべてを元通りにする資金として、まったく十分とは言えない。これからどんどん人件費などが嵩むのに、勝手に財布を使われては非常に堪らなかった。
しかし、リンケはその辺りのことに驚くほど無頓着だった。
「え? だって、先王の遺産があるのですよね?」
「・・・はい。ですが」
「でしょう? 大丈夫ですよ。いやあ、お金があるって素晴らしいことですね。学院にいた頃なんか事務方は全然相手にしてくれなくて、金はないの一点張りで。その点、ここはまさに私の理想郷です。アニエス様には感謝してもしきれませんよ」
心から幸せそうな、零れる笑みを見せられて、アニエスは言葉を失った。
そして思った。
大きな功績を挙げて学位を取得し、当初は学院併設の研究部に所属していた彼女が、いつの間にかその職を辞していた理由は、もしかすると、こういう金遣いの荒さや、伺い書を出すというごく単純な事務能力さえなかったせいなのではないか、と。
(天才はどこかしら欠陥を負っていると言うけれど・・・)
これは少々、いや、かなり、アニエスにとっては痛い。
本来ならもっと強く咎めねばならない。人によっては罰するところもあるだろう。
だが、アニエスは我がままな妹にさえ怒れたことがないのだ。
言わねばならない、言うべきである、そう思いながらもうなだれて、「次ははじめにご相談ください」と弱々しく念を押すことしか、結局できずに退散した。
◆◇
夏空に濁った雲が広がっている。風は生温く湿り、そろそろ雨が降りそうだ。
アニエスは館の玄関を出て、扉横の石柱に額を付けた。
(やっぱり私に領主は向いてない)
自身の不甲斐なさに際限なく落ち込める。
人の上に立つ者として、アニエスの頭に浮かぶイメージは長兄たちだが、彼らのような毅然とした態度がどうしても取れない。
理想は知っていても、実際の振る舞い方がわからない。堂々と構えていられるだけの自信も己にない。つい顔色を窺ってしまう。
だから人を集められない。説得もできない。それが不甲斐ない。
(兄様方のようにできないのは当たり前だ。もとより書庫の中で一生を終えるつもりで、他には何もしてこなかったんだもの)
改めて思い返すに、古書修復士はアニエスの天職だった。
ただ本とだけ向き合い、自身のペースで、誰に煩わされることもなく、誰を煩わせることもなく、黙々と仕事をこなしてゆく。アニエスは、できればずっとそういう者でありたかった。
(・・・そういえば地下室の本、あれ以来触ってない)
階段下の隠し書庫の存在が、ふと思い出された。
館に来たはじめの頃、床に散らばった本を整理しに一度入ったが、それから行っていない。行く暇がなかった。そして今もまだない。
(落ち込んでる暇だって、ないんだよな)
ふー、と最後に深く息を吐き、顔を上げる。
するとそこに、花があった。
「っ・・・」
いつの間にか、厳つい庭師の老人が、幾重ものフリルが重なったような白い花を一輪持って傍に佇んでいた。
バラにも似ていたが、中心部分は花弁が開き、黄色い雄蕊が見えている。花弁は紫色に縁取られていた。
グスタが無言で差し出してくるので、アニエスはとりあえず受け取った。葉はふわふわと柔らかく、茎に棘はなかった。可憐な花である。
「ありがとう、ございます」
グスタは何とも言わず、すいとアニエスを横切っていった。
(慰め・・・いや、励まし、かな)
庭はグスタの尽力によって、多種の花が咲き誇る。アニエスが種や苗を用意したわけではないので、自前で調達したり、自家採種したものを用いているようだ。
美しい庭のおかげで、あちこち修復の跡がある領主館も、それなりに立派なものに見える。
グスタは復興作業のほうにはあまり手を出さないが、自身のテリトリーである庭の手入れは完璧で、まさかそこに寝泊まりしているのではと思うほどに、いつでも必ず庭で見かける。
しかし今日はもう雨が降りそうだ。
念のため、無理をしないよう声だけかけておこうと思い、アニエスが一歩追いかけるとちょうど降り出した。
雲が薄いためか、小雨である。アニエスは手のひらを上へ向け、空を見た。
そして、絶句した。
薄暗い雲に、切れ目が入っている。そこから漏れ出すのは日差しではない。
どす黒い、禍々しい何か。
煙のように漂うそれが、徐々に広がっていく。同時に細い光が幾筋も宙を走る。
切れ目が広がり、空が、開こうとしていた。
「――逃げて!」
アニエスは地を蹴って飛び上がり、館の外で作業をしていた人々に必死に呼びかけた。普段は出したこともない大声だ。
「館の中へ! 早くっ!!」
空を唖然と見上げていた領民たちも、アニエスの切羽詰まった呼びかけに急かされ、重機から離れ門の中へ駆け込む。
そこも安全であるのか、アニエスに確信はなかったが、ひとまず領民たちをエントランスに押し込み、自身は門柱に立ち変異を見届ける。
黒い煙の中心部の光が強くなり、地にも届きそうなほど広く空間が裂けていた。
(これが、異界の門・・・)
駐在官の日報に残っていた記述、また、アニエスが他の本で読んだ体験記での描写に酷似している。
恐怖も感動も覚える間もなく、いよいよ眩くなった裂け目から、ずるりと、何かが出でた。
それは派手な音を立て、先程まで領民たちが作業していた場所に落ちた。
クレーターに横たわるのは、大戦艦と見紛うばかりの、とてつもなく巨大な魚だった。
アニエスの場所からは、鎌のような形の青黒い尾びれが見える。他にも鋸状の胸びれ、背びれがある。頭部の形状は鰐に似て、前に突き出た口の中に鋭い歯が幾本も生えていた。
「・・・」
とにかく、巨大であった。森にいる大トカゲの魔物の比ではない。霊峰に棲まう異界の巨大鳥にも勝る。
それが、水揚げされた普通の魚のように跳ね回り、地震を起こしていた。
工事の区割りの印が吹き飛ぶ、途中まで作業していた場所が埋まる、借り物の重機が潰れる、大地が尾びれに抉られ地形が変わる。
慈悲なき暴挙を目の前に繰り広げられ、アニエスは、膝から崩れ落ちた。
(呪われている・・・たぶん、私が)
異界より現れた巨大魚は、三日三晩に渡り水を求めて跳ね続け、領地にでこぼこの線を引きつつ、無事に西の入江に到達した。
この時からしばらく後、入江に棲みつくことにした巨大魚が、それまでエインタートの領海を荒らしていた海賊や密漁者を意図せず撃退する結果を招くのだが、現時点でのアニエスにとっては、不運以外の何物でもない出来事だった。




