閑話 忘れもの
その日、ラルスがオーク材の愛用の机で執務をこなしていると、バルコニーに黒い男がとまった。
「よ」
自ら窓を開け、中に入ってくる。
スヴァニル南部地方のウルリヤ産の見事な織りのカーペットを、泥の付いた靴で踏まれることが若干気にかかったものの、ラルスはおくびにも出さず王弟を迎えた。
「もうご出立ですか」
相手はおよそ旅に出る格好ではないが、なんとなく察せられた。
「おう。その前に礼をしに来た」
言うや否や、ファルコは寄って来たラルスを正面から思いきり抱き締める。
意表を突かれ公爵の笑顔は引き攣った。
「・・・身に余る、光栄にございます」
もう少しで中身が出そうなほど強く締め上げられた後に、解放される。
ファルコは相変わらず屈託なく、ラルスの肩を気さくに叩いた。
「これからも良き隣人として、たまに妹の力になってやってくれ」
「隣人、ですか」
軽く咳ばらいをし、ラルスはお得意の涼やかな笑顔を戻した。
「もしお許しいただけるのであれば、よりお傍でお仕えすることもできますが」
「必要ない。たぶん、あいつはお前みたいなのが相当苦手だぞ」
「では、これからお好みに合うよう努力いたしましょう」
「うん、だからそういう強引なのが俺も嫌だな」
「手厳しいですねえ」
あけすけな物言いをラルスはまったく気にも留めない。
だが少し笑みを引っ込め、真面目な顔も見せた。
「――もし、姫があのように思い悩まれる方でなければ、はじめに求婚などいたしませんでしたよ」
「そうか?」
「私とて、地位が見合えば誰でも良いわけではございませんよ。伴侶とは最も重要な協力者なのですから。どんなに高貴な身分であれ、無責任な怠け者とは共にいられません」
自身も多くの人民の生活をあずかる者であるがゆえに、ラルスの選定基準は常に役目の上に置かれている。
極上の快楽をもたらす美女を得ることよりも、ごく当たり前の条件を満たす者を見つけることのほうが、存外に難しいのだ。
「ふうん」
ファルコは特に響いたそぶりもなく、気のない相槌を打った。
「ま、あまり妹の困ることはしないでやってくれ」
「はい。ここはじっくり、腰を据えて参ります」
馴れない小動物のように、愛らしく怯える娘の姿が思い出され、ラルスの口元にはやや趣の異なる笑みが浮かぶ。
「やっぱ嫌だなあ、お前」
「兄君にもお認めいただけるよう努力いたしますよ」
「そういうのいいから、あんまり近づくな? 忠告したからな」
折れない男にきつく念を押し、案外と心配性だった兄は、ようやく旅立っていった。




