18.出立
翌日。
鬼ごっこに参加した面々は、この世の終わりのような筋肉痛に見舞われた。
まだぎりぎり十代であるアニエスも、今朝は引き攣る体を無理矢理に起こす羽目となった。足を前に出して歩くというだけの動作がすでに辛く、腕はだるく、首はどう動かしても痛い。
筋肉痛だけでなく、背や腕には打ち身による痣もある。だがラルスが手配してくれた医師の診察によれば、骨や内臓は無事であった。
アニエスの個人的な感覚では、あばらの一本は折れたかと思っていたが、そんなことはなく、全身に湿布を貼られる程度の治療で済んだ。終わってみれば、領民のいずれも軽傷で、被害は小さかったと言える。
なんだかんだで、ギギは上手に手加減をしていたのである。魔王退治の一行を弄ぶ中で、彼女は人の耐久度を学習したのかもしれない。
アニエスは湿布を貼り直し、朝食を落ち着いて摂った後、軋む体をなんとか玄関まで動かして、ルーに頼んで焼いてもらったクムクムのケーキを包み紙に持ち、一人、空を飛んで魔王のもとを訪れた。飛べば筋肉痛は関係なくなる。
木々をなぎ倒したいつもの場所で、ギギは皮膜の翼を椅子とし、足を組んで寝ていた。彼女の体はやはり、傷一つ付いていない。アニエスが傍に降り立つと、眠たそうに薄目を開けた。
今や領内の魔物はすべて森に集っているはずだが、中の様子は以前と変わらない。時折、何かが動く気配を感じることはあっても、基本的に静寂が満ちている。
涼しい空気と、木々に程よく遮られる日差しが心地良く、魔物がうようよいると思わなければ、安らげる場所である。現状に難点を挙げるとすれば、自身の湿布の匂いと、視界のヒビが邪魔である。新しい眼鏡はまだ発注できていない。
ギギがホールケーキに丸ごと齧り付く間、アニエスは彼女の足下に正座し、ぼんやりとそんなことを感じていた。
「うまくはないな」
口の周りにカスを付け、魔王は嬉しくない感想を漏らす。
ケーキはなんの変哲もないパウンドケーキである。生地にクムクムの種を練り込み、甘酸っぱい赤紫色のソースをかけているところに多少の個性があるだけで、他に特徴はない。至ってごく普通の、田舎の素朴な菓子である。
アニエスも少し食べた、というより食べさせられたが、そもそもあまり菓子の類が好きではないため、大きな感動は持てなかった。
だがアニエスの母は、大好物であった。特にルーの祖母の、ララのレシピを絶賛していたと領民たちが言うので、祖母直伝のケーキをルーに作ってもらったのである。
「魔物の血をかければうまくなるのではないか?」
「・・・ご随意に」
好みに合う合わないはともかくとし、約束は果たされた。
そこで、アニエスには確認しておかなければならないことがある。
「いつまで、この場所にいてくださるのですか?」
「さあな」
ギギの返事はそっけない。
しかしややあってから、付け足した。
「いま少し力が戻るまではいる」
「力、ですか」
「先の大戦で少々はりきり過ぎた」
ギギは疲れたような息を吐く。
「魔界でのお話ですか」
「ああ」
「魔界でも、戦争がありますか」
「戦は日常だ。すべては力で従わせる。それ以外にやり方があるか?」
「・・・わかりません」
色々浮かぶことはあったが、アニエスは言うのをやめておいた。人が争いを回避するために努力していることなど、この魔人には鼻で笑われてしまうような気がしたのである。
(というか、あれだけ暴れておいて本調子じゃないのか)
アニエスが密かにぞっとしている傍らで、ギギの話は続いていた。
「ここはよく満ちている。療養には最適だ」
「・・・すみません。何が満ちているのですか?」
考え事をしていて聞き逃したのかとアニエスは思ったが、そうではなかった。
「さあ、お前らはなんと呼ぶのか――なんにせよ、我にとってここは良いところだ」
不意に、ギギは身を乗り出した。
昨日の空中で最接近した時よりも、不思議な色の瞳が間近に迫る。アニエスは思わず背後に手を突いた。
「お前は、この地を治めると言ったか?」
「は、はい」
「本気か?」
何が言いたいのか、わからなかった。
ギギは実に愉しそうである。まるで、間抜けな獲物が罠へ入ってゆく様を眺めているような、そこはかとなく厭らしい笑顔である。
「・・・は、い。これから、畑や、家を、かつてのように、造って参ります。なので、あの、我々を見守ってくださったら、幸い、です」
ギギの目を見ていると、何かまずいことを言っている気分になり、言葉を濁してしまいそうになった。しかしもう、どんなに探しても、アニエスの中に他の答えはない。どんな罠があるとしても、進むしかなかった。
すると突然、その口にギギがケーキを突っ込んだ。
舌が喉まで押され、アニエスは当然えずく。ギギは声を立てて笑っていた。
「お前、名は?」
「・・・っ、あ、アニエス、です」
少なくとも二度は名乗っているが、案の定ギギは聞いていなかったらしい。
しかし今度は、覚える気があるようだった。
「良かろう。アニエス、お前が死ななければ見ていてやる」
アニエスが手の上に吐き出したケーキを持ち上げ、ギギは大きな口で丸呑みした。
アニエスはもう二、三度咳をしてから、彼女に確認する。
「私が生きている間は、ここにいてくださるということですか?」
すると、せせら笑われる。
「せいぜい用心することだ」
雲のない空を見上げ、彼女は意地悪そうに言っていた。
◆◇
昼前には森から領主館へ戻り、アニエスが自室で人心地付いていると、少女の悲鳴が聞こえてきた。
本日、館は普段よりも人が少ない。勝負の後ということでアニエスが館のメンバー全員に休暇を出し、クルツはローレン領の家族のもとに戻り、リンケは筋肉痛と魔物の大群を目の当たりにした興奮を一旦自室で鎮めている。
勝負に参加しなかったグスタと、王宮軍の訓練でもともと体が丈夫なジークは、ダウンした領民のかわりに畑を手伝いに行っており、ニーナに至ってはこの度の騒動を急いで記事にしたためるべく、朝一で王都の本社へ戻っていった。
ルーは留守番しかしていないからと頑固に言い張り、今朝から休まず通常のメイド業を行っている。よって、先頃の悲鳴は彼女のものだろう。
アニエスは足を引きずりながら階段を降り、途中、換えのシーツなどを収納している物置からタオルを取った。そして大きく開け放たれている扉へ向かう。
床に濡れた足跡が点々と、奥からゲストルームのテラスに面しているソファに続いていた。
ソファは破れて、背もたれから骨の飛び出したものがまだ置きっぱなしである。だが構わず座っている男の後頭部がそこに見えた。
「兄様、服を着てください」
なるべく直視しないようにしながら、アニエスはタオルを構えてソファに近づいた。
ファルコの短い髪の先から雫がぼたぼた流れ、背もたれを濡らしている。
「ルーさんは」
「どっか走っていった。逃げなくてもいいのになあ?」
「・・・ルーさんも年頃の女性ですから。お風呂に入られる時は、一言お声がけください。それと裸で浴室を出られるのも、ちょっと」
「裸でいることと服を着ていることに、なんの違いがある?」
「・・・服を着ているか否か、という違いです」
「だが服の下は誰しも全裸だ」
「服を着ていれば、全裸ではありません」
「果たしてそうか!?」
「そうです」
(なんでそんなに裸でいたいんだろう)
アニエスはどっと気疲れした。やはりこの兄の感性は計り知れず、理解できるとも思えない。
ファルコは飄々と笑っていた。
「その調子だ」
タオルを受け取り、立ち上がったので、アニエスは素早く顔をそらした。
ファルコは浴室のほうへ行き、山賊のような服を着て戻って来る。
そして濡れたタオルを肩に、ぱんと掛け、
「さて、行くか」
そんなふうに、軽く言うのだった。
どこへ、と訊くほどアニエスも鈍くはない。はじめから、わかっていたことだ。
「・・・もう少し、エインタートにいていただけませんか」
灰色の瞳はまた、不安に揺れている。何度でもそれはよぎる。
ファルコの働きによって、最大の問題がわずか十日足らずで解決された。アニエスでは到底、成し得なかったことだ。
だが彼の名声が世に広まることはない。先日、カイザーから手紙を寄越され、ファルコの所在についての情報は伏せるよう、指示を受けたのである。よって、ニーナにもその辺りのことはしつこく念押ししてある。
動揺を感じさせない速やかな長兄の対応から察するに、ファルコは一部で噂されている通り、密偵としての仕事を請けているのかもしれない。
ならばいつまでも、アニエスに構っている暇はないだろう。
そうでなくとも、自由に生きる兄に縋ってはいけない。
だが、これから本当にうまくやっていけるのか、例えば、普通の発想では乗り越えられないことが起こった時に、対処しきれるのか、兄がいなくなり一人に戻ることを考えると、怖くなってくる。
やはり自分に領主は荷が重いのだろうと思う。
何も考えていないように見えて、どこまで見通しているのか計り知れない兄は、うつむく妹の頭をただなでるだけだ。
「お前の母親には会ったことがある」
不意に漏らす。
アニエスは顔を上げた。
「・・・どちらで」
「城だ。たぶんお前を親父殿に預けた帰りだったんだろう。その時、お前の良い兄になってくれと言われたよ」
くしゃりと笑う。
アニエスは、そこでやっと理解できた。
(だから、兄様はエインタートへいらした?)
父ではなく、去って行く母の願いをファルコはずっと覚えていた。
城の中でアニエスを見かければ必ず声をかけ、頭をなでていったのは、彼なりに良い兄をしようとしていたのだろう。
そしてアニエスが母の故郷に戻った時には、真っ先に駆け付けてくれた。
(母様が、道を整えてくださっていたんだ・・・)
ギギのことも、ファルコのことも、領民たちのことも、当人は無自覚だったかもしれないが、あらかじめアニエスと繋いでくれていた。
(死しても魂が傍にあるというのは、こういうことだろうか)
母との思い出など一つもないのに、今はとても身近に母を感じる。
胸の内に温かく広がるものが、一緒に視界を広げてくれる気がした。
おそらく、何もかもうまくいかないだろう。
想定外、予定外は当たり前。困った事態はいくらでも襲い来るだろう。
それでも、力となってくれる者を都度に探しながら、少しずつ、切れ切れの道を繋げてゆく。
「ま、お前なら大丈夫さ」
ぽん、と軽く頭を叩き、ファルコは無責任に言う。
「・・・できることは、がんばってみます」
「充分だ。まあ、あんまり困るようだったら、泣く前に連絡でもよこせ」
「・・・できる時は、してみます」
住所不定の相手への連絡方法を、アニエスは知らない。基本的に手紙以外の手段はないのである。
ファルコも、口にしてからその難題に気がついた。
「なんか書くものあるか?」
アニエスのローブのポケットには、必ず鉛筆が一本と小さなメモ帳が入っている。本の内容や、忘れてはいけない用事など、ふと書き付けたいことがあった時に便利なのだ。
そのセットを渡すと、ファルコは一枚に殴り書きをして返した。かろうじて、スヴァニル王国内のとある住所と、人の名前が読める。
女の名だ。
「そこに手紙を出せば、そのうち読む。いつ読むかはわかんないけどな」
「えっと・・・ここは、というか、この女性は、一体」
まさか、とアニエスは思う。あり得ないとも思う。
放浪癖の男が所帯を持つとは考えられない。それを健気に家で待っている妻の存在も現実的でない。
ファルコはメモを渡すだけで、それ以上は詳しく言おうとしなかった。
おそらくは密偵として働く際の連絡拠点なのだろう、ということでアニエスは自身を納得させることにする。もしそうでなければ、それなりに大事である。
「――ありがとうございます、ファルコ兄様。本当に、助かりました」
はじめに鬱陶しく思ってしまったことが、今では申し訳なかった。
しかし、心の暗闇を忘れて生まれてきてしまった兄は、それを知ったところで歯牙にもかけないのだ。
「ん。じゃあな、元気でやれよ」
窓を開け、飛び立つ。
何も持たず、それこそ鳥が軒先にとまっただけのような身軽さで。
間もなく、視界からも消えた。
一人きりになったアニエスは、青空をいっぱいに吸い込む。
「――始めるか」
さしあたっては物資、人材の調達。
その前にまずは、どこかで怯えているルーを回収するため、アニエスは筋肉痛で伸びない足を、ゆっくり動かしていった。