17.魔王vs.250人
西風が吹いていた。
おそらくは入江から吹き込む風だろう。そう思うと海が見えなくとも、わずかに潮の香りを感じる気がした。
エインタート東方の領主館からは離れ、幾分海に近い平原である。左手に森が見えるだけで、障害物となる建物などは存在しない。
周囲にはアニエスの腰まで届く背高の草が群生している。春に白波のような細かい花を咲かせる雑草で、夏は緑の小さな実を花の跡に鈴なりに付ける。この時期は未熟果であるため、少々風が吹いたくらいでは落果しない。
アニエスは一人、地面から突き出た小岩の上に立ち、森のほうの空を見ていた。
(雲が速い)
千切れた白が幾片も流れていく。分厚いそれらが時折日を隠し、影が地上をよぎるたび、アニエスは心がざわついた。
自身でなだめるように、胸に手を置く。
(落ち着こう。《いかなる敵の前であれ、私にできることは変わらない》)
不安な時は本の一節を思い浮かべる。いつも通りの手法を取り、アニエスは待った。
やがて、不思議な形の影が頭上に降る。
逆光の中、皮膜の大翼を広げた魔人が、アニエスを見下ろしていた。
虫のように羽をせわしく動かすこともなく、泰然と宙に静止している。人も魔人も本来は空を飛べる形状をしていないのだから、アニエスらが精霊の力を使って飛ぶのと同じように、彼女は魔力を使いそれを叶えているのだろう。
「・・・お越しいただき、感謝します」
眼鏡の位置を直し、アニエスは異形に対してまず礼を述べた。
アニエスからその表情は見えないが、魔人は上機嫌である。
「寝過ごしたか?」
「・・・いえ」
実際は、あらかじめ定めた勝負の日から丸一日を魔人は寝過ごしている。アニエスらの準備に待てるのは日が三度昇るまで、と言ってきたのは彼女のほうであったのだが、そもそも何百年単位で生きる魔の者に対して、正確な時間感覚を期待するものではないのかもしれない。
おかげで昨日は待ちぼうけからの野宿となり、今日も今日とて寝不足のアニエスである。
だが緊張で眠気はさほど感じない。
灰色の瞳を確かに開き、魔人を見上げる。
「始める前に、再度ルールを確認します。この勝負は、私たち人間が、あなたに一度でも触れることができれば、私たちの勝ち。以後、あなたは魔王として、領内の魔物をすべて森へ連れ帰り、魔物が森を出ることがないよう統治していただきます」
「容易いことだ。やる気さえあれば」
ギギは腕組みし、意地悪そうに笑む。アニエスは続ける。
「逆にあなたが私たちに一度も触れられず、私たちの《宝》を奪うことができれば、あなたの勝利です。この身にできる範囲で、ご要望をお叶えします」
「ぬるい言い回しをするな。隷従すると言え」
アニエスはひるんだ。が、どう足掻いても逃れられない。
「・・・あなたに隷従いたします。ただし、それは私だけです」
最後の一言には念を押す。
魔人の口ぶりからして、どうやらすぐにアニエスの命を奪うつもりはないようだが、それはひと思いに殺すか嬲り殺すか程度の違いであろう。
今更、躊躇してはいられない。アニエスは唾を飲み込み、右手に持つものを掲げた。
「こちらの旗が、あなたの奪うべき《宝》です。私たちもこれを持って逃げ回ります」
細い棒に白布を結わえた手旗である。布には赤紫色の染料で、八重の花のマークが描かれている。
それはエインタート領民が愛するクムクムの花で、かつてシェレンベルク伯爵家の家紋でもあった。
この土地を象徴するものは、奇しくも魔人の髪色と同じだった。
「勝負は、魔物たちが寝ている間の、日暮れまでとします。決着がつかなければ、翌日に持ち越します。また、勝負中は、あなたのほうから私たちに攻撃をしてはいけません。その時は、あなたの負けとなります。・・・これらは、勝負を楽しんでいただくための条件です。呑んで、いただけるのですよね」
「ああ」
改めて不安げに問うアニエスに、ギギは頷きを返し、腕組みを解いた。
「説明は終わりか? いい加減やるぞ」
「まっ――いえ、わ、私がはじめの合図を出します。出させてください」
言い忘れたルールがないかを頭中で急ぎ確認してから、アニエスは旗を持っていない左手を高く上げた。
「それでは・・・は、はじめ!」
コールよりほんのわずか早めに左手を振り下ろす。
同時に、魔人の後方が爆発した。
火の粉などはない。空気が突如破裂したのだ。
皮膜の翼を広げていたギギは、爆風に押され落ちていく。
それを迎えるべく、草むらに伏せていた男たちが一斉に、喜々と出でた。
怖気づく者はほぼいなかった。皆、鱗の一片にでもかすめようと両手を伸ばす。その腕の数、およそ五十本。
だが魔人は地に着く前に大きく羽ばたいた。
あと少しで、人間たちの手は届かない。
しかしこの程度の奇襲が効かないことは、はじめから折り込み済みだった。
「よぉっ!」
咄嗟に上へ逃げる、魔人をそこで待ち構えていたのはファルコと、彼が飛ばすローレン領の兵十人。
アニエスがギギに長々と話す間、天と地で人々は動いていた。
何度も森へ通ったリンケの経験則から、魔人は魔物などと違い、気配にいくらか鈍感であることがわかっている。
アニエスらがはじめてギギを訪ねた時は、ジークがかなり近くに寄るまで目覚めず、ファルコがちょっかいを仕掛けた時にも、姿を現すまでアニエスの存在を感知できていなかった。
人からすれば不死にも等しい強靭な肉体を持っているためなのか、魔人は日常の警戒心がどうやら薄い。目の前に注意を引くもの、今回の場合はアニエスを置いておけば、周囲への意識が一層鈍くなることは予想できていた。
上空で、ファルコは魔人を抱き締めんばかりに思い切り両手を広げる。その間にアニエスは小岩を降り、素早く草むらに紛れた。そこには、白衣の魔物学者が控えている。
「先生っ」
「はい、賜ります」
リンケに旗を渡すアニエスとは入れ替わりに、紺の軍服をまとうジークが小岩の上に立った。
「第三第四隊っ、迎撃態勢!」
いつもの人の好さげな様子からは想像がつかない、太い声を平原に響かせる。
彼の指示を受け、十人単位で構成された小隊が地上から魔人を追う。
どこで魔人が落ちてもいいように、草むらにはあと二十隊近くが東西南北に潜んでいた。
全体の作戦指揮をアニエスはジークに委ねている。
エインタートに来てからのジークは、大工仕事から荷運びまで嫌な顔一つせず引き受け、なんでもそつなくこなす便利な人物であったが、こうして武官らしい仕事にあてがってみれば、これが本来の彼の使い方なのだとよくわかる。
アニエスはこれまでのジークの扱いを思い返し、申し訳ない気持ちになった。しかし、今は深く反省している場合ではない。
西方の空では、まさに魔人が挟み撃ちとなっていた。ファルコは遠慮なくローレンの兵を左右の退路を断つ壁に使い、下では駆け付けた領民たちが手を伸ばしているのである。
奇襲からの早期決着。
誰もが期待して、空を見上げていた。
だが次の瞬間、異形の咆哮に十里四方が揺れた。
地に転げたアニエスが次に見たのは、悠々と宙に在る魔人。人の壁は失せ、下から伸びていた手も消えている。
ややあって、ファルコが頭を押さえながら、背高草の間からふらふらと立ち上がった。
「・・・それ、反則だろぉ?」
「何がだ? 気合いを入れただけであろうが」
ギギはとぼけている。
(やっぱりか)
想定内の最悪の事態に、アニエスはげんなりとした。
魔人は咆哮を攻撃ではないと主張するつもりである。
大の男を数十人も吹き飛ばし、紋章術すら跳ね退ける、魔力の乗った音波のどこが攻撃ではないのか審議したいところだが、応じてくれるはずもない。
ルールを決めたのはアニエスらだが、この勝負の支配者はギギである。圧倒的な力の前には、いかなる者もひれ伏すしかない。
「安心しろ。約束通り殺しはしない」
規制はだいぶ緩くなってしまった。
攻撃禁止だけでなく、人に怪我を負わせてはならないとの文言をはっきりルールに組み込んでおくべきだったと、アニエスは今さら思い至って後悔した。そうであれば、少しは反論もできただろう。
ギギはまだ衝撃から回復できないでいる者には構わず、アニエスらのほうへ白い眼をぎろりと向けた。
「来ます!」
ジークが岩から飛び降り、アニエスとリンケの傍に付く。
魔人は急降下してきた。まっすぐと、鳥が川面の魚を狙うように、正確に旗を持つリンケを目がけていた。
その寸前に、ジークが合図を発す。
「今です!」
「は、はい!」
「はい!」
アニエスとリンケは、同時に紋章術を発動した。
すると彼女らを包む炎の渦が、空へ噴き上がる。リンケが発生させた火をアニエスが風で巻き上げたのだ。共に上級術士ではない二人だが、火と風の属性は相性が良い。力を合わせれば、上級術でも再現できた。
炎は一瞬の躊躇を魔人に与えた。
これはファルコが見つけた彼女の弱点である。岩のような肌を持つ魔人は、どんな攻撃をしても傷一つ付けられなかったのだが、異星の生物にも払拭されない本能が存在するのか、攻撃に火を使うと、必ず一瞬は動きが強張ったという。
結果として、ファルコの読みは正しかった。ギギはアニエスらが張った炎の壁へ突撃しなかったのである。
寸前で止まり、拳を振りかぶる。また衝撃で火を散らすつもりだったのだろうが、次なる策がすでに発動していた。
「あーらよっと!」
周囲の草むらから、次々と両端に石をくくり付けた縄が放たれた。蔦で作られた緑の縄は弧を描き、いくつかがギギの体に当たって巻き付く。
途端に、がくりと魔人は揺らいだ。
「どーだ!」
クルツが早々と歓声を上げる。彼が投げたものは、魔人の振りかぶった右腕に巻き付いた。
ギギは、一部に凶悪な棘が生えた蔦を見て、苦々しく笑んだ。
「《魔吸い》か。鬱陶しいまねを・・・」
呟きながら、地に落ちた。とうとう落ちた。
魔除けの茨は魔人にも有効だったのだ。エインタートの農民たちが、山鳩を狩るのに投げ縄を使うことを知り、急きょ作成した武器だったが、期待以上の効果を発揮してくれた。
茨の棘は魔人の皮膚にまったく刺さっていなかったが、体に触れているだけでもうまく動けないらしく、地にうつぶせている。
「かかれ!」
二度目のチャンス。
再び大勢で飛びかかる――飛びかかろうとした。
ところが、全員がまったく同時に足を止めた。
勇気を出して皆に続いたアニエスも、動けなくなってしまう。
(な、に・・・?)
何か、見えない壁に押されているかのように、前に進めない。
どころか、息まで苦しくなってきている。
吸うことはできる。しかしその時一緒に、何か余計なものが強引に入って来ようとする。それが口内に詰まり、息を吐き出す邪魔をする。結果、浅い呼吸を頻繁に繰り返すしかなくなり、ひどく息苦しい。
ひ、ひ、と周囲からも引き攣った呼吸音が聞こえてくる。
すると目前の魔人にも変化があった。
彼女の腕に巻き付いている茨が、深い緑色から急激に、色素が抜けて枯れてゆく。
茨ばかりではない。ギギが潰している背高草も、萎れていく。まるで毒を振りかけられたかのように、紫色に腐れてゆく。
魔人が立ち上がると、絡みついた茨は脆く崩れ落ちた。
「――どうやら、我が力のすべては吸い切れんようだな」
何事もなかったような顔色で、彼女は言った。
(これが、魔力・・・?)
魔物特有のその力の性質について、詳細は未だ明らかとなっていない。肌で感じている今も、まったくわけがわからない。
ただアニエスがこの場でわかるのは、たとえ指一本触れずとも、あるいは派手な術を使わなくとも、魔人は静やかにアニエスたちを殺せるということだ。
酸欠で瞳孔が開いている人間たちを見回し、ギギは口が裂ける程の笑みを浮かべた。
「――っ」
吼えた。
今度は至近距離で衝撃を喰らい、アニエスの体は木の葉のように吹き飛んだ。
紋章術を発動しようと思う間もなく、次の瞬間には地に叩き付けられている。
「ぁ、っ、ぅ・・・」
先程吐き出せなかった息がすべて、押し出された。
肺が反射的に大きく膨らみ、肋骨に鋭い痛みが走る。全身の骨が軋み、神経に痺れが伝う。今まで感じたこともない激痛に涙が溢れた。
(旗・・・)
混乱の中で、それでもアニエスは状況を思い起こし、四肢に力を込めた。飛ばされた拍子に眼鏡を失くし、視界がぼやけている。その上涙が止まらず、余計に見えにくい。
こんなこともあろうかとローブの懐に入れておいた予備の眼鏡を取り出すと、レンズにヒビが入り、フレームが多少歪んでいたが、なんとか見えた。
ギギはまた空にいる。旗は奪えていないらしく、地上を見回していた。
(リンケ先生は)
アニエスも上体を起こして、辺りを探す。すると、「アニエス様っ」と切羽詰まったジークがいち早く駆けつけた。彼も顔と軍服を草と土で汚している。
「お怪我は!」
「だ、大丈夫、です」
アニエスは慌てて涙を拭い、立ち上がろうとしたがよろけ、ジークに受け止められて再び座らされた。
「ご無理なさらず。ここにいらしてください」
「で、も、先生が」
「先生も旗も無事な者で探しております。一度、隊を立て直さねばなりません」
ジークの表情は険しい。事前にわかっていても、魔人の力にはやはり対処しきれなかったのだ。
「ここでお待ちください。看護の者をすぐ手配します」
ジークはそう言って立ち上がり、指揮を執り直すべく周囲に声をかけながら走っていった。
アニエスのほうは、ようやく涙と嗚咽が収まってきていた。冷静になることでむしろ痛みは増したが、思考には問題ない。
(私たちは勝てない、だけじゃない)
冷静であればこそ、正しい状況分析ができる。
先程、ギギは旗を奪えたはずだった。
アニエスたちは魔力に呑まれて動けずにいたのだから。旗を持っていたリンケとてそうだったろう。
それをわざと吼えて蹴散らし、旗の在り処をわからなくした。自身で勝敗が決するのを妨げたのである。
(私たちは、彼女に、嬲り殺される?)
重たい幕が、ゆっくりと目の前に降りて来るような感覚だった。
恐怖とも違う。焦燥感では遠い。近いところでは無力感、やるせなさ。とにかく、全身のあらゆる力をごっそり奪われるような感覚。
知っていたつもりで、実は知らなかったもの。
(これが、きっと、絶望)
負傷者が続出し、指揮が混乱しているせいもあるが、ギギを追う手は明らかに減っていた。
皆、足が竦んでいる。アニエスと同じことに気づいた領民たちは、恐怖しているのである。絶望しているのである。
(こんな勝負に意味はなかったのかもしれない。私は、余計なことをしてしまったのかもしれない)
今度は罪悪感が襲い来る。これまでよりも更に深く心を抉り、切り刻む。呼吸のたびに軋む肋骨よりも激しく痛み、吐きそうで、死にそうだ。
アニエスは襟元を強く握り締めた。
(・・・だけど、でも)
よろめきながら、二本の足で立ち上がる。
再び泣きそうだったが、泣いている場合ではなかった。
(やり切らなくちゃ、だめだ。できなくても、できるところまで。やり切った後でなければ、意味があったかどうかもわからない。・・・諦めるのは、私が、最後でなくちゃ)
半ば流されたことではあったものの、この勝負を、エインタートの復興を、やると決めたのはアニエス自身だ。己が始めたことを、己が真っ先に諦めることはできない。
それがアニエスの考える責任というものだった。あるいは、矜持と呼ぶこともできる。
紋章術を発動する。
うまく歩けないため、空を飛んで戦いが続けられている場へ向かう。
今は、ローレン領の兵が懸命に矢を射かけている。しかし魔人の皮膚にはまるで刺さる気配なく、ギギは彼らのほうを見てもいない。
「アニエス」
空中にはファルコもいた。
生傷はあるが、兄の無事な様子にまずは安堵する。一方のファルコもくしゃりと笑った。
「泣いてるのか?」
「・・・大丈夫です」
涙を拭っても、ぐずっていた跡までは消えない。アニエスは恥ずかしくなり、もう一度目元を擦った。
兄はそんな妹の頭を機嫌良くなでている。
「よしよし上等だ。矢が尽きる前にもう一度仕掛けるぞ」
「はい。ところで、旗は」
「それならさっき見つけて公爵に持たせた」
「え」
ファルコが指す先を見やると、遠くの草むらに立つラルスと目が合った。来なくて良かったのにやはり来てしまった彼は、周りを自分の護衛に囲ませながら、旗をアニエスへ見せるように振った。
「だ、大丈夫なのですか?」
「たぶん。なんか、いいオモチャを持ってるらしい」
「オモチャ・・・?」
「公爵が気を引いてる隙に俺たちが左右で挟み込む。いいか?」
ファルコはアニエスの肩に腕を回し、耳元に作戦を囁く。
もうまともに動ける者は少ない。領民たちをこれ以上、危険な目にも遭わせられない。
ならば、腹を括らねばならない。
アニエスは息を吐き出し、吸い込み――大きく頷いた。
「わかりました」
「よし。行くぞ!」
早口に言ってファルコは飛び出した。ギギが旗を振るラルスを見つけたのである。
アニエスも急いだ。魔人はアニエスらよりもラルスから遠いところにいたが、その飛行速度は恐ろしく速い。彼女に触れるよりも先に、彼女の手が旗を掴むほうが見るだに早かった。
迫り来る化け物を眼前に捉え、一方の公爵は、特に慌てるでもない。あくまでも優雅な動作で、旗を持つ左手を背に隠し、右手をまっすぐ伸ばす。
ばん、と何かの破裂する音が響いた。
最初に奇襲で仕掛けた空気弾と同じ音である。そしてその時と同様に、魔人が空中で体勢を崩す。
ラルスは翼に狙いを定め、金色に光る短銃の引き金を連続で引いた。
(精霊銃?)
それは火薬で鉛の玉を発射する、異国で開発された銃と違って煙を噴かない。
原理は人工灯と同じである。銃に紋章術がかけられ、術士でなくとも精霊の力を使うことができる、スヴァニル王国オリジナルの最新武器だった。
以前アニエスが聞き齧ったところでは、確か高いほうに破格の値段であったと記憶している。単に明かりを灯すだけの紋章術よりも、組み込む術が複雑で難しいらしく、王宮の軍部にもまだ数丁しかない貴重品だ。
そもそも銃自体が輸入制限のかかった高級品で、製造方法についても開発国で情報規制が働き、スヴァニル国内での生産はほとんどされておらず、滅多に誰も所持していない。たまに出回る安価な銃は、頻繁に暴発するひどく危険な代物だ。
よって、未だに軍でも主力武器は槍や弓や剣なのである。
「もう十丁くらい買っておけば良かったかな」
冗談交じりにラルスがぼやく。
精霊銃は魔人を落とすまではいかなかったが、怯ませることはできていた。
「このっ――」
苛立ちのまま男を睨む、ギギの視界を兵士が塞ぐ。ファルコがラルスの護衛を浮かせたのだ。
しかし、蹴散らされる前に人の壁はすぐさま消える。
ほんの少し、魔人の目を眩ませてくれれば十分だった。その間に追いついたアニエスとファルコが、左右から手を伸ばす。
魔人からすれば、唐突に視界に現れた二人である。
だが、それだけではまだ勝利に届かない。
「防御だ!」
ファルコが叫んだ。
アニエスは即座に伸ばしていた腕を畳み、顔の前をガードする。
その刹那の後に、ギギが吼えた。
もう幾度目にもなる衝撃である。ファルコやラルスらが吹き散らされる中、アニエスは一人、歯を食いしばった。
周りを取り巻く精霊の風が、身を襲う衝撃を和らげる。そこにはアニエスだけでなく、ファルコの術も重ねられていた。
魔人は人間を舐めきっている。人間は彼女の一吼えにも敵わないのだから、当然のことだ。はじめから、彼女は負けるはずのない勝負で弱者をいたぶることしか考えていない。
よって、必ず相手を下せると思い込んでいた攻撃で、耐える者がいたとすれば、それは、魔人にとって大きな衝撃に違いなかった。
咆哮が収まり、アニエスがガードを解けば、少し離れたところで驚愕しているギギが見えた。
(今っ、今!)
直感で、これが最後のチャンスだと思えた。
いつもの躊躇など頭をよぎらず、アニエスは自らの背後に用意していた空気弾を破裂させた。
背骨が割れんばかりの衝撃が、アニエスを飛ぶよりも速く魔人のもとへ運ぶ。
ファルコにここまでしろと言われたわけではない。だが、ここまでしなければならないと思った。身を惜しんでいる場合ではないと思った。でき得ることを、すべてやらねばならなかった。
両手を伸ばす。
見開かれた異形の瞳が少しも恐ろしくなく、ただ必死に、彼女に触れようとした。
しかし突如、その瞳は視界から消えた。
(あ・・・)
爆発で無理矢理飛ばした体は、軌道修正をかけられない。
ギギはわずかに身をずらしただけ。
アニエスは彼女の顔の横をすり抜けてしまった。
(届かな・・・)
冷静な頭が結論を下す。
手を伸ばした先には何もない。
総力で挑み、全力を使い、それでも届かないのだ。
(私じゃ、だめだ、った)
絶望に、落ちていく。
そんなアニエスとすれ違いに。
「――まかせろ!」
明るい声が、空へ舞い上がる。
首を捻って見えたのは、兄の背中だった。
彼は吹き飛ばされたはずだった。風の壁をアニエスのために使っていたのだから、衝撃を防ぐものは何もないはずだった。
なのに、長い体躯をあらん限り伸ばし、右手を天へ掲げている。
魔人は、アニエスを避けるために後退していた。すなわちファルコのほうへ、自ら近づいていた。
ゆえに、彼女が身を捩った時にはもう、遅い
ファルコの手がしっかりと、魔人の巻き角にかかった。
「ぉおおっ!!」
勢いを殺さず、ファルコは両角を掴み空中で前転。遠心力で魔人を叩き落とした。
そして、地上に倒れた魔人に馬乗りになる。
「俺らの勝ちだ!」
そこで、宣言した。
後からゆっくりアニエスも地に降り、へたり込んだ。腰が抜けていた。
草の間から、唖然とした顔がいくつも生えている。
信じ難い光景が目の前にあるのだ。しかし、現実はどうあっても揺るがない。
誰が何を言おうとも、アニエスらが勝利したことは間違いない。
「勝ったーーっ!」
クルツが真っ先に飛び上がった。
無邪気な歓声によって、大人たちの中にも実感が沸き起こり、あちこちで徐々に声が上がり出す。
「~~どけっ!!」
拳を掲げ、周囲を煽っていたファルコをギギが下から蹴倒した。
それで民衆の興奮は一瞬にして鎮まってしまう。
人々が緊張して見つめる中、魔人はのそりと起き上がる。その表情は最初と打って変わって、ひどく不機嫌である。
(い、行かなきゃっ)
アニエスは自身を叱咤し、術を使って魔人の前に降り立った。
白目と黒目が人と逆転している眼に睨まれれば、忘れていた異形への恐怖を思い出す。
しかし、傍にはファルコが立ってくれている。周囲にあるのもすべて、味方である。
アニエスは落ち着いて、息を整えた。
「・・・約束を、果たしてくださいますか」
腕組みしたギギは、しばらく答えなかった。
明らかに不服そうであり、また、何かを考えているようでもある。
「・・・まだだ」
やがて、ぽつりと言った。
「お前らは二つ約束したであろう。まだ一つ果たされていない」
「え?」
アニエスは、咄嗟に隣を見上げた。知らない間に、ファルコが別の約束を交わしていたのかと思ったが、当人はきょとんとしている。兄は関係ないらしい。
それで周囲を見渡してみたが、誰しも怪訝そうにしていた。
「私たちが交わした約束は一つですが・・・」
「いいや、二つだ」
ギギは頑なに言い張る。
難癖なのかなんなのか、いま少し話を聞かねば判断がつけられなかった。
「もう一つの約束を交わした相手の名前は、ご存知ですか?」
「忘れた。お前のような匂いと色味の奴だ」
と、アニエスを指す。
(・・・そういえば)
思い出したのは、最初にギギに会った時のことである。彼女はアニエスを誰かと間違え、『やっと来たか』と言っていた。
(色味というのは、髪や肌の色だろうか)
アニエスの黒髪はさして珍しい色でもない。白い肌は、あまり外に出ない者であればそうだろう。あるいは、遺伝的に日に焼けない者もある。
例えば、貴族にはそういう者が多い。
「そいつは魔物を森へ集めるかわりに、《けーき》というものを食わせると言ったぞ」
アニエスは目を瞠った。
「ケーキ・・・ですか?」
「お前らの国で一番うまいものなんだろう?」
愕然とした。この日、何よりもアニエスは驚いていた。
「あんたケーキで言うこと聞くのか!」
耐え切れなかったように、ファルコが手を叩いて笑い出す。
菓子の一つで働いてくれるのならば、さっきの勝負はなんだったのか。
魔人と約束を交わしたその人物は、よほどの命知らずである。一体どんな言葉を使ってその気にさせたのか。あまつさえ約束をすっぽかしたのだから、一国の王とて負けを認める大人物だろう。
(母様・・・)
はっきりとはわからない。しかし、間違いない気がする。
かつて、魔人と約束を交わしたのは母だろう。
アニエスは頭を抱えたくなった。
「・・・わかりました。ケーキは後ほどご用意させていただきます。遅くとも明日には、お届けいたしますので」
「そうか」
魔人は表情をご機嫌に変え、頷いた。
「ならば、約束を果たそう」
羽を広げ、空へ上がる。
遠くを望み、彼女は大きく口を開けた。
咆哮が響き渡る。
今度は衝撃を伴わない、純粋な遠吠えだった。狼のものに似て、音が高い。周囲に何もないのに反響して聞こえ、鈴のような音が鳴っていた。
美しい声だと、アニエスは思った。
それからしばらくして、草間が揺れ始めた。
人々が輪になっているその外側から、大きな影が四方に現れる。
領主館で初日の晩に見た、ヌボーという牛より大きな魔物の群れ。毛の長い猪に似ているマナフ、首だけが蛇のように長い四つ足の獣、上空では猿顔の黒い鳥が、ギギの周りを飛ぶ。
さらに背後の森の中からも、腹を半分抉られた大トカゲや、角を持つ青い狼、地面にまで垂れる長い二股の鼻を持つ小象のようなものが、続々と魔人のもとへ集まった。
このエインタートの地で、各自好きな場所で寝ていたのだろう。正確に把握できていなかったその頭数と種類は、アニエスの予想を遥かに超え、数百、あるいは数千といた。
襲われればひとたまりもない。
しかし魔物たちは実に大人しく、草の間に伏せ、アニエスらを見つめるだけである。主の命令を待つ健気な犬のようだった。
「これで良いか」
すべての魔物を一吼えのもとに従わせた、魔人は得意げである。
この期に及んで更に見せつけられる彼女の力も、魔物の大群に取り囲まれている状況も、不思議なことにアニエスはさほど怖く感じなかった。どころか、わずかに安堵さえしていた。
ギギは確かに恐ろしい。
力強く、狂気的な性格で、賢しくもある。危険な相手であることには変わりない。
だが約束を守ってくれた以上は、信用すべき同盟者である。
「ありがとうございます。――それと、これからも、よろしくお願いいたします」
心からの感謝と、生まれたばかりの信頼を込めて、アニエスは深く頭を垂れた。