13.ファルコ
アニエスの兄弟たちは、皆それぞれに個性的である。
例えばその能力、性状、趣味、容姿など、際立ったところのない者はいない。確かに王家の子であるとわかった今も、アニエスは本当に彼らと半分でも同じ血を受け継いでいるのか怪しく思う。
五番目の兄、ファルコに関しては特に思う。
「さすがにでかいなあ」
濡れた頭を拭いながら、兄は館の中を歩き回る。乱暴にタオルで擦るので、後を追うアニエスにも飛沫がかかる。
「兄様、ファルコ兄様っ、お待ちくださいっ」
呼びかけても一向に止まらない。目に付く扉を片端から開け、建物見物に勤しんでいる。
(何しに来たんだろう)
すでにかなり辟易しながら、アニエスはひたすら兄を呼び続けた。
七年前に行方をくらました彼のことを、アニエスはもう死んだものと認識していた。他の兄弟たちも、スヴァニルの国民も、ほとんどがそう考えている。
本当の生死がどうであれ、二度と城に帰らないのであれば公人としては死んだも同然だ。もっとも、生きていた時でさえ、ファルコはなんの役目も持たない人間だった。
彼はアニエスの十歳上で、七年前の時点ですでに成人していたにもかかわらず、上の兄たちのように国政に携わることもなく、かと言って何か別の仕事をするでもなく、城下を無為にぶらつく日々を過ごしていた。
そうやって大人しく放蕩息子をしているだけならば、臣下を大いに困らせることはなかったかもしれない。城外をうろつく悪癖は、ニコラス王やその奔放な側室たちも同じなのだ。
しかし、ファルコはおかしな方向に働き者だったからいけない。
例えば、式典の日に大聖堂を一夜にして七色に塗り替えた。
例えば、違法賭博で巻き上げた札束を鐘楼の上から振り撒いた。
例えば、無断で温泉を掘り当て、翌日埋められるまで王都広場を源泉かけ流しの湯屋にした。
――このような《ファルコ伝説》がいくつも残っている。
その一挙一動で人々を驚かす。とかく奇抜で限りなく無意味な行為をファルコは好んでいたのである。
異彩を尊ぶ若者たちは彼の信者となり、世間一般には当然のごとく憎まれた。
彼の奇天烈な行動は往々にして人様に迷惑をかける。
大聖堂の模様替えなど、国家侮辱や信仰への冒涜とも取られかねない所業で、さすがに堪忍袋の緒が切れたカイザーによって、ファルコは投獄されたことがある。結局、ニコラスが後で許してやってしまったが。
そんな噂を人づてに聞いていたアニエスが、あえてファルコに近寄ることはなかった。彼が出て行く直前の頃にはアニエスも十を過ぎていた。そろそろ、自分が付き合える人間と付き合えない人間の境がはっきりしてきた年頃である。
よってファルコとの間にこれという思い出はない。避ける以前に、彼はほとんど城におらず、逆にアニエスはあまり部屋から出ないほうであったので、まず顔を合わせる機会がなかった。
アニエスがファルコについて覚えているのは、ほんのささいなことである。
城の廊下で、向かいから兄がやって来て、「よぉ」と手を挙げる。すれ違いざまに、「元気か?」と頭をなでて去って行く。
たったそれだけのことを、唯一覚えている。
世間の非難を浴び、臣下からも厳しい諫言をもらっている人が、背筋を伸ばして堂々と歩く姿が印象深かった。
後ろめたければ背は丸くなる。常にうつむき加減で、人の顔をろくに見れなくなる。己の血を疑っていた当時のアニエスはそうだった。
だからその時、兄は後ろめたいことが何もないのだとわかった。たとえ周囲がどれだけの迷惑を被っていようとも。
飄々としている態度を世間はまた非難したが、ファルコはそれに対して一つも言い返さず、己を改めることもなく、ある風の心地良い日に、城を飛び立っていった。
それから風がどこをどう吹いたのか。
なぜかファルコはエインタート領へ流れつき、勝手に風呂に入り、全裸でうろつき、悲鳴を聞きつけた従士に剣を突き付けられ、アニエスが大急ぎで仲裁し、とにもかくにも服を着せた。
その服も、上半身はシャツもなく、前の開いた上着を羽織るだけで半裸に近く、日に焼けた肌の色も相まって、どこのゴロツキかと思う。
今まで何をしていたのか。なぜエインタートへやって来たのか。
行動のすべてが謎だった。
「兄様、王城へは行かれたのですか」
話が進まないので、やむを得ずアニエスは歩きながら訊く。
どんな暮らしをしていたのかは不明だが、国内外に知れ渡った父の訃報は、さすがに耳にしているはずである。
また、アニエスがエインタート領主になっていることを知らなければ、いくら奇想天外な兄でも人の家の風呂に浸かることはないと信じたい。それなりに王家の情報を集めていたことが推測される。
あるいは王城へ戻るついでにエインタートへ寄ったのかと勘繰るが、
「そのうち行く」
ファルコはアニエスを一瞥もせず、投げやりに答えた。
(お墓参りもされないのかな)
王城へ帰るよう説得すべきなのか迷う。それが世間的に正しい行動であると思う一方で、何を言っても無駄であろうと思う。妹ごときの言葉で心が動く人間ならば家出はしない。
「何もないな」
一階二階の部屋をすべて見て回り、ファルコが端的な感想を漏らす。結局、アニエスは説得を諦めることにした。
「家具などは今、一通り手配しているところです」
「いつ届く?」
「えっと、早くて来週ですが」
「ふうん。わかった」
何を承知したのか、ファルコが踵を返す。
「兄様?」
「まかせろ」
訝しむ妹の頭をなで、玄関から出て行った。
そこで待ち構えていた記者の手を逃れ、空へ浮かび上がる。後から外に出たアニエスも、その姿を上空に小さく見た。
(・・・帰った?)
そう思った数時間後。
「アニエース!」
夕暮れ時、大声に呼ばれて外に出ると、ベッドやら棚やらソファやらが空から降ってきた。
ルーやジークなども騒ぎを聞きつけ、家具と一緒に着地したファルコに唖然とする。
「こんなもんで足りるか?」
ベッドは同じ形のものが人数分、布団やシーツまですでにメイキングされている。まるで店の展示品をそのまま持って来たかのようだ。
(わざわざ紋章術で運んだの?)
ファルコは上級術士であると、フィーネから聞いたことを思い出す。レギナルトのように八つすべての紋章を身に刻んでいるわけではなかったが、両の上腕と左胸、それから背に四つはある。うち二つはアニエスの身にもある水と風の紋章の、上級のものだ。本来なら服の下に隠れているはずのものまで、図らずも確認できてしまった。
「兄様、この家具はどちらから」
「安心しろ。盗品ではない」
そんなことは大前提にあって然るべきだが、ファルコの周りではそうでもないのかもしれない。アニエスは深く追及しないことにした。
「ローレン領のお店から、来週には届けてもらえる予定だったのですが・・・」
「早くベッドで寝れるほうがいいだろ? 眠そうな顔してるぞ」
「・・・もともとです」
そうは言いつつも、実際、アニエスはいつもより瞼が下がり気味である。単純な疲労と、不安、慣れない場所に慣れない人々と枕を並べている緊張で、眠りがどうしても浅くなるのだ。夜中に誰かが寝返りを打つだけでいちいち起きてしまう。
ベッドを部屋に運び込んで一人眠れるのであれば、今よりもう少し疲れは取れるだろう。それを思えば、ファルコの厚意は多少強引でも感謝できるものではある。すでに注文していた分は客間などになんとか詰め込むしかない。
「お心遣い、ありがとうございます。代金を教えてください」
「いい。叙爵祝いだ。ついでに夕飯も獲ってきたぞ」
ファルコの指すほうを見やれば、ベッドの陰に巨大な猪の死体が横たわっていた。
「っ・・・」
アニエスは思わず息を呑む。
普通の猪ではない。牛のように大きな、毛足の長い白猪だった。
「おぉ、マナフっ」
どこからともなく、リンケがひょっこり顔を出す。シヴラトの件からは立ち直れたらしい。白猪の傍にしゃがみ込み、熱心に観察を始めた。
「お一人で仕留められたのですか?」
「こいつは鈍いからな。わりと簡単だ」
「そうですか? マナフは弾性に富んだ分厚い表皮に覆われているので、本来は傷をつけることすら難しいのですよ。旅中は魔物退治をよくなさっていたのですか?」
「他に食うもんがなくて狩ってただけさ」
ファルコは腰に手を当てて笑う。その傍らでアニエスは驚愕し続けていた。
「・・・魔物を食べるのですか?」
特定の地域にそういう文化があることは、アニエスも聞いたことがある。だが王都に住む者にとってはゲテモノ食いだ。馴染みはない。
「食ってみりゃうまいぞ?」
「マナフは筋肉が少ないので美味ですよ」
リンケまで勧めてくる。シヴラトの惨状には心乱したが、稀少種でなければ特に保護愛はないらしい。彼女はあくまでも学者なのである。
ファルコは、つとジークのほうへ視線を走らせた。
「お前、捌けるか?」
「え? ええ、おそらくは。獣の解体ならば経験がございます」
「じゃ、まかせた。おい」
と、続いてルーに声をかける。
ルーは「はい!?」と気をつけの姿勢で硬直してしまう。やや柱に隠れているのは、男の裸を見てしまった羞恥心と気まずさと、まだ多少残っている恐怖のためである。アニエスも気まずさがないではないが、相手が兄で、しかもファルコだと思えば割り切れる。しかしルーはそうもいかない。
ファルコは怯える娘に安心を与えるように、殊更明るい笑みを浮かべた。
「さっきは見苦しいもんを見せて悪かった。お詫びにお前の部屋にベッドを運んでやるから、場所を教えてくれ」
「へ? いっ、ぃぃいえいえそんな! お運びいただくだなんてまさか!」
「いいからいいから」
「ファルコ様、そういったことは私が後で」
「いいからいいから」
ジークの申し出も軽くあしらい、ファルコは唐突にルーを抱き上げるや、ベッドに乗せ、それごと紋章術で浮かせてみせた。
「ふわぁぁぁ・・・っ」
ルーは震えて、言葉もない。その表情を見るに、恐怖ではなく感動で震えているらしいことがわかる。
「そこから右とか左とか指示してくれ」
「うっわいいな! ファルコ様、俺のもやってください!」
すかさずクルツが駆け寄り、同じようにまとめて浮かせてもらう。上級術士であれば、まだまだ余裕だ。
ファルコはアニエスのほうを見やった。
「早く乗れ」
「結構です」
珍しく、アニエスははっきりと断った。
「――稀代の傑物か、単なる阿呆か。突如現れた放浪王弟の思惑は何処」
ベッドと少年少女を運んで行くファルコを見送っていると、背後でニーナがぶつぶつ言いながらメモを取っていた。
「・・・あの、すみませんが、ファルコ兄様のことを記事にして良いかはご本人と、カイザー兄様たちとも相談させてください」
とりあえず、ファルコの所在情報は王都の兄へ伝えねばならない。それは暗黙の義務である。その際にうっかり政治的なものが絡む可能性も、なきにしもあらずなので、みだりに外部へ情報を流すわけにはいかなかった。
「心得ておりますとも」
ニーナは即座にメモ帳を閉じ、営業スマイルを作る。
「うちはゴシップ誌ではございませんからね。あくまでもエインタートの復興事業を中心に書いて参りますし、原稿は発売前にお見せいたしますのでどうぞご安心を。ですが、これまで生死も不明であられたファルコ様のご登場はなかなか衝撃的です。記事にするかはともかく、取材だけでも是非に許可いただきたく存じます。せめて、なぜエインタートへ来られたのかだけでもお聞かせいただければ」
(それは本当に私も聞きたい)
心の声が、危うく口から漏れそうになった。
何か目的があるのか、ないのか、しばらく留まる気か、それとも今日中にでもふらりと出て行ってしまうのか、一寸先の行動も読めない。
理解し難く、御し難い。
そんなところが、森の魔王とほんの少しばかり重なる兄だった。