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12.魔王

「――とうっ、ちゃく!」

 クルツが嬉々として地面に降り立つ。

 その一瞬後にアニエスも隣に降り、遅れてジークとリンケが馬に乗って来る。

 彼らの目の前には、針葉樹の森が広がっている。

 エインタート三日目。ある程度生活スペースを整えたところで、アニエスはこの地の最大の問題に早速取りかかることにした。

「すっげーよかったぁ!」

 案内役の少年は、場違いなほどにはしゃいでいる。空を飛べたことがよほど楽しかったらしい。

 領主館から北の森までは馬の足でおよそ一時間ばかり。見張り塔に駐在官が使っていた馬が一頭と、リンケが自分で調達していたものが一頭あったため、護衛役と魔物の専門家にそれらを使ってもらい、あまり馬に乗り慣れないアニエスとクルツは上空を飛んで来た。

 高度を押さえれば、紋章術で浮かせられるのは自身も含め最大で二人。それ以上となると上級資格が必要となる。

 誰かを一緒に浮かせるのは資格試験以来のことだったため、アニエスはだいぶ緊張していたのだが、その内心を知らない者は無邪気に喜ぶばかりである。出発の際はルーが羨ましそうに見送っていた。

 クルツは一通りはしゃいだ後、己の仕事を思い出す。

「馬は置いてったほうがいーよ。いると魔物から隠れにくいからさあ」

 ガイドらしく忠告し、リンケからは慣れた様子で馬の手綱を受け取った。

「この辺に繋いで、周りを茨で囲っておけばいーよ」

 適当な木に馬を繋ぎ、持参した魔除けの茨の切れ端を地面に配置するクルツを、ジークはやや不安そうに見ている。

「そんなんで大丈夫なのか?」

「わりと大丈夫ですよ。もし魔物に食べられてしまったら、その時は仕方がありません」

「はあ」

 リンケの大雑把な言い分に、ジークは納得したようなしていないような曖昧な表情を見せた。しかし、他にやり方がないのは事実である。

 リンケは「よろしいですか」と改めてアニエスとジークに言う。

「森の中では基本的に戦闘はいたしません。たとえ魔物一匹でも、この少人数で仕留めることは不可能だからです。隠れるか逃げるか、常に二択しかないとお思いください」

「はい、わかりました」

 アニエスは素直に頷く。

 魔物の生命力は獣のそれとは比較にならない。また、最高で中級までの資格しか持たないアニエスの紋章術は戦闘に特化しておらず、実質の戦闘員はジークしかいない。彼も女二人と子供一人を守りながら戦うことは不可能だ。そもそも、アニエスは魔物の討伐に来たわけではない。

 森の奥深くに眠る、魔人という存在を知ることが本日の目的だ。

(話ができればいいけれど)

 不安も恐怖も尽きないが、怯えてばかりもいられない。言葉が通じるのならば、まずは交渉を。これが領主としての初仕事となる。

「それからアニエス様に一つお願いしたく」

「え? はい、なんでしょうか」

 我に返り、アニエスは再びリンケのほうへ意識を戻す。

「魔物は外から来る者の匂いに敏感ですから、周囲の風向きを操作していただけませんか? 我々の匂いが上に抜けるようにしていただければ、気づかれずに動けるかと」

「あまり広い範囲はできませんが、大丈夫ですか?」

「はい、我々の周辺だけで問題ないと思います。できるだけ固まって移動しましょう」

「わかりました」

 アニエスは風の紋章術を発動し、直径数メートルの範囲で緩いつむじ風を起こす。毛先がわずかに浮く程度のかすかな風だ。匂いをごまかすだけならこの程度で十分である。

「んじゃ、付いて来て!」

 クルツが先導し、四人は暗い口を開ける森の中へ入っていった。



 ◆◇



 森の空気はしっとりと露を含んでいた。

 蛇のように張り出した木の根に苔がむし、気をつけなければ足を滑らせてしまう。前を行くクルツはそれらを身軽に飛び越し、リンケの足取りも慣れたものである。

 アニエスは時々ジークの手を借りながら、なんとか付いて行く。街歩きしかしたことのない彼女に森は少々きつい。

 それでも、ここはまだまったくの原生林ではない。ある程度のところまでは樵の手が入っている。クルツが案内できるのもそこまでだ。

 少年の父は樵の子であり、元々は彼が森のガイドをしていたのだが、二年前に魔物に襲われ、片足が動かなくなってしまった。

 クルツは昔から父親の仕事に勝手に付いていき、道を覚えていたため、父親のかわりにガイドを務めるようになったのである。

 相当の危険を伴う分、それなりの額を要求して儲けていたが、近頃は魔王への挑戦者も減り、もっぱらリンケしか客がいなかったようだ。そこで、アニエスのもとに就職しようと考えたわけである。

「――先生、シヴラトだっ」

 クルツが木の根を跳んで戻って来た。すかさずリンケが、近くの大木の根本へアニエスとジークを誘導する。

「お静かに。アニエス様、風向きを下のほうへ変えてください」

 言われた通りにして息を潜めていると、影が差した。

 ほとんど音もなく。

 大木の後ろに、それに匹敵する巨大なトカゲがのっそり現れた。

 アニエスは咄嗟に我が口を両手で覆う。息すら漏らしてはならない。全身が戦慄し、恐怖しながら、それでもアニエスは身を捻って食い入るように怪物を見つめた。

 棘のようなトサカが木々の葉先をかすめる。後ろ足で立ち上がることができれば、森からその頭をひょっこり出せそうだ。

 灰色の鱗に苔がむし、よく見れば草や花まで背の中ほどに咲いていた。まるで太古から森にある石像のようである。

 肥大した腹を地面に擦らせながら、尾を左右に動かし去っていった。

「もう、いいでしょう」

 リンケに言われて木の根から身を出すと、先ほどのトカゲが通った跡が地面に残っている。その横幅を歩くと六歩も入った。

「魔王以外にも、やばそうなのがいますねえ」

 ジークも冷や汗を拭っている。その緊張を和らげるようにリンケは笑みを見せた。

「まだ昼間ですから、大抵の魔物は寝ています。あのように動いていても寝惚けている場合が多いので、先に見つけて隠れてしまえば問題ありませんよ」

「その辺は俺にまかしといてよ。目だけはいいからさ。ね、ね? アニエス様。俺、役に立つっしょ?」

 雇い主へのアピールも欠かさないクルツである。緊張感のない二人の様子に、アニエスも少しだけ気が抜けた。

「もうすぐ魔王の寝床に着きます」

 リンケが予告してから間もなく、四人は開けた場所に辿り着いた。


 そこだけ木々が薙ぎ倒され、緑の天蓋にぽっかり穴があいている。青い空から注ぐ光の下、異形の影が一つ、ぽつんとあった。

「あちらが魔王です」

 リンケが小声で示す。

 彼女が魔人と名付けた通り、確かにそれは人型だった。頭も手足も、人間のパーツと形が似通っており、体格も大柄な成人女性といったところだ。

 だが、あくまでも人型に近いというだけで、全体としてはやはり化け物である。

 石灰を塗りたくったように白い肌のところどころを、鍾乳石のような分厚い鱗が覆う。乳房に似た膨らみはあるが、それは単に鱗が盛り上がっているだけかもしれない。

 人間なら耳のある部分に、大きな巻き角が二つ生えている。赤紫色の長い髪がそれに一部絡んでいた。

 何より目を惹くのは、黒く巨大な翼である。蝙蝠に似て飛膜でできているようだ。翼の先が地面につき、ソファのように湾曲して、魔王はそれに深く腰掛け目を閉じていた。

 明らかに人間でないが、人間のようなもの。

 恐ろしくはあったが、先程のトカゲよりアニエスは恐怖を感じなかった。むしろ、魔王のサイズに拍子抜けしたくらいである。

 ひとまず四人は倒木の後ろに隠れ、様子を窺う。

「あれは、起こしてもいいもんですか?」

 ジークの尋ねに、リンケが頷く。

「この間起きたばかりなので、おそらくまだ深い眠りにはついていないはずです。近づけば気配で起きると思いますよ。起きなければ、今日は帰ったほうがいいでしょう。無理に起こせば彼女は怒る」

「では、俺が先に行きます」

 ジークが倒木の陰から出る。腰の剣に手を添えながら、足取りは臆せず魔王へ向かう。

 あと数歩という距離で、彼女はゆっくり、瞼を上げた。

「――客か」

 声は男のように低かった。もしくは男よりも低い。腹の底に響く。

 寝起きに、武器を持った者が目の前にいても慌てる様子はない。身じろぎもせず、悠々とジークを眺め、さらにその後ろへ視線を走らせた。

「行きましょう」

 リンケに促され、アニエスらも倒木の陰を出る。

 近くで見れば、魔王の双眸は人間で言えば白目の部分が黒く、黒目の部分が白かった。さらに真っ白な肌だと思ったものは、きめ細やかな鱗だった。

 魔王はリンケの姿が視界に入るや、硬い口元を緩めた。

「またお前か。なら討伐隊ではない、か」

「その通りです」

「つまらんな」

 そう言いつつも、魔王は喉で笑っていた。

 ところが、それが急に止まる。

「お?」

 異形の瞳が、アニエスを捉え大きく見開かれた。

 嫌な予感がし、反射的に身を引こうとしたが間に合わない。

 立ち上がった魔王に、アニエスは胸倉を掴まれた。

「っ、おい!?」

 咄嗟に、ジークが魔王を引き離すため、彼女の岩のような腕を掴む。しかし、それはびくともしない。

 魔王はアニエスを引き寄せ、その首元に顔を埋める。ひ、とアニエスの喉が勝手に鳴った。

 拘束はほんの数秒。彼女はアニエスを地面に降ろし、にんまりと笑んだ。

「やっと来たか」

 おかしなことを口走る。

「・・・え?」

「何度寝たかわからんぞ。どれだけ手間がかかってるんだ」

「・・・は」

「さっさと出せ」

 そうしてアニエスの体をまさぐり始める。

 悲鳴も上げられず、娘が恐怖で腰を抜かす前に、ジークが力ずくで間に割って入った。

「待て、ちょっと待て。なんの話をしているんだ?」

 主を背に庇いながら、ジークは右手を剣に、左手を魔王の前に突き出す。すると魔王は威嚇するように、低く唸った。

「魔王よ、お聞きください」

 続いて、リンケが言葉で割って入る。

「こちらの方は私の主で、あなたの前に現れたのは今が初めてです。もしや、他の誰かと勘違いしてはいませんか?」

「・・・他の?」

 多少は顔なじみであるためか、魔王にリンケの声は届いた。

 場の殺気が薄れる。おそるおそる、ジークの後ろから顔を覗かせるアニエスを改めて眺め、魔王は腕組みした。

「前に来た者ではないのか?」

「・・・はい。初めて、参りました」

 引き攣った喉を震わせ、アニエスはなんとか答える。魔王はしばらく怪訝そうにしていたが、やがて納得した。

「・・・お前らの区別は難しい」

 気が抜けたように、再び翼をソファのようにして座り、そのまま目を閉じる。

「魔王、魔王、少しだけ話をお聞きください。魔王」

 完全に寝入る前に、懸命にリンケが呼び覚ます。

(制御が全然きかない)

 アニエスはもうかなり怖くて仕方がなかったが、この奔放な魔人相手ではうかうかしていられない。

 勇気を振り絞り、彼女の前に身を晒す。

「あの、はじめまして。私は、アニエス・スヴァニルと申します」

 何から切り出していいのかわからなかったため、アニエスはとりあえず自己紹介をした。

 魔人がどこまで人の社会を理解しているのか定かではなかったが、できる限り噛み砕きながら、自分が森の外の土地(厳密に言えば森も含む)を統治する役目を持つ者であることを話す。

 魔王は一応、大人しく聞いていた。

「――あの、それで、魔王と呼ばれているあなたは、この森にいる魔物を統べる方なのでしょうか」

 肝心なことを尋ねると、魔王は鼻で笑った。

「・・・違うのでしょうか」

「《魔王》はお前らが勝手に付けた名であろう。気に入ってはいるがな。《魔王様》ならもっと良い。己より強い者をお前らはそう呼ぶのであろう?」

 上機嫌に彼女は語る。

「我は今、お前らが言うところの《休暇中》だ」

「・・・休暇中」

 意識なく、アニエスはその言葉を反復していた。

「ついこの間まで魔界の覇権争いに駆り出されていたのだ。ここには寝に来ただけだ。魔物どもなど知らん」

 当人はあっけらかんとしている。

 ついこの間と言うが、彼女の存在は二十年前から記録に残っている。魔人の時間感覚は、どうやら人間のそれと大幅にずれているらしかった。

 長く生きる魔の生物ならではだろう。地上の魔物でも、百年二百年生きるものはざらにいる。

 例えば、先の巨大トカゲなどもそうである。


「――来た!」

 唐突に、クルツが声を上げた。

 アニエスらが魔王と話している間、ずっと倒木の上に乗り、周囲を警戒していたのだ。

 彼が指すのは四人で辿って来た方角。木々を避けながら、灰色のトカゲが魔王の寝床に顔を出した。

「隠れろ!」

 クルツが警告しながら走り来る。アニエスはジークに引っ張られ、遠くの倒木の後ろに身を隠した。

 巨大トカゲ、シヴラトの進路には魔王がいる。彼女は逃げもせずに悠々とそこにある。

 シヴラトを見上げると、威嚇時に広がるはずのトサカが閉じている。つまり、シヴラトは魔王が見えていない。寝ぼけているのかもしれなかった。

「まずい!」

 焦ったのはリンケだ。

 彼女は物陰から飛び出すと、シヴラトに向けて右手を掲げる。途端、トカゲの顔に大きな炎が灯った。

 リンケが火の紋章術で、魔物を起こそうとしたのである。彼女が扱える属性はこれ一つだ。

 狙い通り、シヴラトは目元を焼く熱に驚き、のけぞる。

 しかし、遅かった。

 すでに間近まで迫っていたシヴラトの腹に、魔王が手を添えていた。


 ぼん、と何かが破裂する音がした。

 肉片が飛び散り、おぞましい獣声が上がる。


「ああああっ!?」

 同時にリンケも悲鳴を上げた。

 彼女は腹を半分消し飛ばされたトカゲの姿に、絶叫し続ける。

「シヴラトぉぉっ! 生ける化石がぁぁぁっ!!」

「っ、ジークさん、ジークさんっ、リンケ先生をっ」

「はい!」

 まるで相手が我が子であるように、のたうち回る巨大な魔物に駆け寄ろうとするリンケを、ジークが羽交い絞めにして引きずり戻す。

 目の前の惨状を眺める、魔王は血濡れた右手を舐めていた。

「あぁ・・・まったく、ここは良い場所だ。たまに寝込みを襲ってくる雑魚どもがなかなか愉快」

 奇怪な双眸をぎらつかせ、悦に入る。

「あれ、たぶん逃げたほうがいいやつだ」

 クルツはアニエスのローブを引っ張る。

「逃げましょう。興奮してる時のあいつはマジでやばいんです。討伐の人たちもめっちゃ殺されかけてました」

 そこまで言われ、逃げずに交渉を続ける勇気は、どんなに振り絞ってもアニエスの中には元より存在しない。

 そもそも、魔王がただの休暇中の魔人で、森の魔物が彼女に付き従っているわけではないと判明した以上、何を交渉すれば良いのかわからなくなっていた。

(また一から考え直さなきゃ)

 しかし、どうしろと言うのか。

 放心状態のリンケを引きずって森を脱出しながら、アニエスは頭が痛くなった。



 ◆◇



 疲労を抱え、アニエスらがやっと館に戻れたのは昼下がりのことである。

 門前で待ち構えていたニーナへの対応は一旦ジークに任せ、アニエスは汚れた服を着替えるため階段を上る。

 安全のため、いまだ寝る時はエントランスで男女とも雑魚寝だが、さすがに着替えは別室である。

 おそらく領主の部屋として使われていたと思われる二階の奥の一室を、ルーが懸命に掃除して、壊れた屋根をジークが直し、アニエス専用として整えてくれていた。あとはベッドが届けばその部屋で眠れる。

「お帰りなさいませアニエス様っ」

 階段を上る途中で、ルーに下から声を掛けられた。出かける時はクルツを羨ましそうに見ていた彼女だが、今はどこか楽しげだ。何かの作業をしていたのか、腕を捲っている。

「お怪我などはされてませんか?」

「はい。ルーさんも留守番ご苦労様でした。何もありませんでしたか?」

 念のため尋ねれば、ルーは元気に「はい!」と答えた。

「アニエス様、お着替えされますよね? 先程湯を張っておきましたので、よければお入りください」

 これにはアニエスも驚く。

 一階のゲストルームを抜けた奥の部屋に、浴槽が置いてある。キッチンで湯を沸かし、それをいちいち浴槽に入れなければならないため、基本的に風呂というものは使用人のいる家にしかない。

 よほどの風呂好きでなければ、毎日湯舟に浸かる習慣もスヴァニルにはない。髪だけ洗面器で洗ったり、体を拭いたりするのが一般的である。

「ルーさん一人で湯を張ったんですか?」

「ええ。こう見えてわたし力持ちですから。クルツなんかよりも役立ちますよっ」

 ふん、と吹き出す得意げな鼻息が見えそうだった。地味に気にしていたらしい。

「そんな・・・大変だったでしょう。わざわざすみません」

「このくらい、なんてことないですよ。さあ、冷めないうちにどうぞ。ただいまタオルとお着替えを持って参りますね」

「あ、いえ、着替えは自分で持って来ます」

 会ったばかりの他人に、下着などを触られることがアニエスは慣れなかった。とはいえ、洗濯はルーに頼むことになるため、無駄な抵抗ではある。

 ともあれ、アニエスは着替えを取りに二階の部屋へ行く。夜は雑魚寝ということもあり、この館で夜着を着ることはまだない。いずれも黒い外出着を適当に見繕い、風呂場へ向かう。

(お風呂は久しぶりだなあ)

 ゆっくり浸かれる湯舟は嫌いではない。

 リラックスして今後のことを改めて考えようと計画し、補修中のゲストルームを抜け、奥の廊下に繋がる扉を開けた途端、耳をつんざく悲鳴が響いた。

「っ、!」

 ルーの声である。廊下の奥、開け放たれた扉のほうから聞こえる。

 なぜか森での光景が脳裏をよぎり、アニエスは弾かれたように走った。同時に、ルーが廊下に飛び出してくる。

「アニエス様ぁっ!」

 半泣きの少女が腕に縋りつく。

 何があったのかを聞く前に、扉の向こうからもう一人、湯気とともに現れた。

「・・・っ!」

 アニエスは、今度も悲鳴を上げられなかった。


 目の前に全裸の男がいる。


 長身。浅黒い肌。若い。焦げ茶の短髪。胸元や腕を這う大きな刺青。全身濡れて、床に水溜まりができている。

 視覚情報は、とにかく異常事態であることだけをアニエスに告げていた。

(ルーさん・・・ルーさんだけは)

 かろうじて、回った頭で少女のことを思う。せめて彼女だけは逃がしたい。

 その身を盾とするため、アニエスは勇気を振り絞って踏みとどまった。


「よぉアニエス」


 すると、男が気さくに片手を挙げた。

(・・・え?)

 唐突に、名を呼ばれたことにアニエスは困惑する。その間に男は大股で迫り来て、ルーが金切り声を上げた。

「風呂ありがとな。おかげで一年分の垢がいっぺんに落とせた。ついでにタオルも貸してくれないか?」

 わけがわからぬまま、男は勝手に喋っている。

 不意に、アニエスは何か懐かしい感覚を抱いた。

 近づいたことで見えた黄色の瞳。その体に刻まれている刺青は、アニエスの身に描かれた紋章と似ている。

 というより、紋章だ。紛れもなく。

 アニエスは、信じられないものを見る思いで男を見上げた。


「・・・ファルコ兄様、ですか?」


 男は、くしゃりと笑った。


「おう。元気か?」

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