10.引継ぎ
季節は七月。
ひと月前に訪れた時よりも太陽の位置が高くなり、ローレン領の風は朝からすでに生ぬるい。
ジークはうっすら額に汗を浮かべて荷を運んでおり、ニーナもツイードのジャケットを脱いでいたが、いかにも暑苦しい黒いローブを羽織っているアニエスだけは平素の様子を保っていた。もう十年近く同じ格好をしている慣れがある。
「アニエス様ーっ、馬車が来ましたよーっ」
屋敷の門外から、ルーが車を引き連れ駆けて来る。
メイドのエプロンを取り、頑丈なブーツを履いている彼女も、これからエインタートへ行く。
アニエスの計画では、まだ領民を領地に呼び戻すつもりはないのだが、ルーは断固として付いて行くと言い切り、どうしても引かなかったのだ。
アニエスが身の回りの世話をする者を一人も連れていないのが大きな理由だった。あくまでもジークは護衛の従士であって、女主人のあれこれの世話は当然できず、ニーナに至っては同行者というだけでアニエスの配下ではない。
その点、ルーは幼い頃から公爵の屋敷で働いており、メイドのいろはを叩き込まれている。なおかつ気力と体力に満ちた若さが最大の長所だ。
必ず役に立つからと、彼女の母であるリリーにも強く勧められ、ついでに母娘の主であった公爵からも後押しがあり、アニエスは案の定、断り切れずにルーをもらい受けてしまったのである。
そもそもを言えば、公爵家の別宅に再び世話になるつもりも本来はなかった。
昨日は日暮れにローレン領に辿り着き、駅近の宿を取って翌日エインタートへ向かう予定であり、ラルスには諸々が落ち着いてから改めて挨拶に出向くつもりだった。
なのに、汽車を降りるとホームでラルスが待ち構えていたのである。彼がなぜ知らせていもいない到着日を知っていたのか、アニエスはそこはかとなく恐ろしくて聞けていない。
今はひたすらに、この場を速やかに去ることだけを考えている。
「お世話になりました」
見送りに出て来たラルスへ、アニエスは手早く挨拶を述べた。
「今後もご迷惑をおかけすることになるかと思いますが、何卒よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。お困り事がございましたらいつでもご用命ください、アニエス様」
朗らかに名を呼ばれ、アニエスはわずかに身じろぐ。
王女ではなくなり、《殿下》の呼称が間違いではないにしろ、やや外れるようになったため、呼び名を変えたのだとわかっている。だが、ラルスの口から己の名が出るのはどうも妙な感覚だった。
その動揺を見て取り、ラルスは満足げに笑みを広げる。
「いずれ、貴女様と共に二つの地を治めてゆける日を願っておりますよ」
アニエスは眼鏡の奥で目を瞠った。
(諦めてない?)
辺境伯となったことで、アニエスはラルスの求婚を間接的ながらきっぱり断ったつもりでいた。
しかし当の公爵からすれば、アニエスが爵位を得ようが得まいが、アプローチをやめる理由にはならない。
仮に荒廃した地をアニエスが復興できたとすれば、ますます婚姻の付加価値は高まる。協力を惜しまないという姿勢は心からのものだった。
(ここまであからさまだと、いっそ潔い)
アニエスは慄き、呆れ、ついには感心してしまった。
下心を隠す気がない分だけ、ある意味で信用の置ける相手かもしれないと思う。同時に、やはり安易に頼ることのできない相手だと確信した。
荷を馬車に積み込みながら、やり取りを聞いていた従士は思わず公爵を二度見してしまい、記者は臭いものを嗅いだ時のような顔で手帳にメモを取る。
「アニエス様、馬車の用意は整ってございます!」
そして気の利くメイドが殊更に大きな声で呼ばわり、アニエスはラルスの視線から逃れるきっかけを得た。
「では」
失礼にならない程度の素早さで礼し、駅から手配した馬車に乗り込む。
あからさまに避ける娘の様子をラルスは愉快そうに眺め、馬車の乗車口で警戒心を露わに睨みつけてくるメイドには手を振った。
「その調子でお守りしなさい。それではアニエス様、お気をつけて」
四人用の馬車にはルーと、ニーナもまとめて乗り込み、ジークは外の御者席の横に収まる。他に馬車や馬を手配するのは金の無駄であるため、身分関係なく同乗だ。手配代もなかなか馬鹿にはできない。
ラルスに馬車を借りても良かったのだが、彼もこの後仕事に行くのだろうから遠慮した。これ以上、世話になりたくなかったというのもある。
アニエスは動き出す車窓から、ラルスと、その斜め後ろで頭を下げるリリーに目礼をした。
リリーも本音はアニエスに付いて来たがっていたが、高齢のララを長屋に一人残すわけにはいかないため、現時点では諦めざるを得なかったのである。
いずれ、ララもまとめてエインタートに移す手筈が整えば、アニエスも手放しで彼女たちを迎え入れることができる。
「アニエス様、公爵様には騙されないでくださいねっ」
斜め向かいに座るルーは、馬車が走り始めてもまだ憤慨していた。
「お屋敷で働き始めてから、もう何人の女の人を見たかわかりませんっ。恋人に浮気がばれそうになるたびに、わたしたちに口裏を合わせるよう強要してきて! あの方のせいで男の人がまっったく信用できなくなりました!」
「・・・大変でしたね」
アニエスは己の父が同類であったことを思うと、なんとも言えない心持ちとなった。不貞は許容されるべきではないが、おかげで自分が生まれたという事実もあり、否定しにくい。
「ローレン公の浮名はお若い頃から有名ですからね」
ニーナは茶色の仔牛革の手帳をぱらぱらめくる。
「ゴシップにもよく取り上げられていましたよ。特にあのご面相ですから、もし先王がいらっしゃらなければ、きっと何度も一面を飾っていたことでしょう。結婚にはどうやら慎重なようでしたが、アニエス様に目を付けられるということは中央政界への進出を狙っている線も考えられますね。地位は公爵とはいえ二代前から辺境に押し込まれてしまっていますからね。野心に駆られる男というものは、女性を道具か足場のように扱うのですからまったく腹が立ちますね」
ニーナは、にやりとアニエスへ笑ってみせる。
「いざと言う時は公爵の悪心を記事にしたため、援護いたしますのでご安心くださいませね」
「いえ、ご心配には及びませんので」
もうラルスがどんな人物であっても良いから、とにかく事を荒立てたくはないアニエスである。幸い、ニーナも「そうですか」とあっさり引き下がった。
「ところでアニエス様、今日からはまず何をされるのですか?」
一通り陰口を叩き終えたところで、さっそく取材に移行する。
「ええと・・・まずは、駐在官の方から事務書類等の引き継ぎを行います。その後に拠点となる領主館の点検と、時間が残れば北の森の様子まで見に行ければ、良いかと」
「北の森、とおっしゃいますと《魔王》ですね?」
「はい。領内の魔物をどうにかしないことには、復興作業に取りかかることができないので」
「魔王退治ですか!?」
「いえそれは、まだ、なんとも・・・」
アニエスは、肝心の魔王というものの存在をはっきり把握できていない。王宮の報告書には、ただただ強力な魔物であるとだけ記され、具体的なことは何も書かれていなかったのだ。
どうやら調査団は直に魔王と接触したわけではなく、近隣の噂を集めて報告書を作成したようだ。よって、どういう生き物なのかがよくわからない。
王を冠する名の通り、魔物の群れのリーダーたる存在なのか。それを倒せば領内の魔物は散り散りとなるのか。
もし倒すのならば兵を集めるか、国王軍に依頼することもできなくはないが、後者の場合、非常に費用がかかることを事前にゴードンから説明されている。軍の旅費と滞在費をすべてアニエスが持たなければならず、身内割引は存在しないのだ。
父の遺産は莫大でも無限ではない。投資すべき局面を見極める必要があった。
(魔除けの茨をうまく使えたら、良いけれど)
例えば、森の周りに茨を這わせ、魔物たちを閉じ込めてしまうなどということは、ぼんやり空想している。あまりうまくいく気はしていない。
ひとまずは、見張り塔にまだ滞在している専門家の意見を仰いでから、計画を練ろうと考えていた。
ニーナは「なるほど」のフレーズを繰り返しながら高速でメモを取る。ほとんどノープランである今の話の中に何をメモすべきことがあったのか、アニエスは自分の発言を頭の中で再生し、幾分か不安になった。
(不用意なことを言わないようにしよう)
警戒レベルを引き上げる。しかし、そんなことにも慣れている記者はお構いなしだった。
「では、復興に着手する前の現在のお気持ちなどをお聞かせください」
「・・・がんばろう、という気持ちです」
◆◇
「こちらがエインタート領民の戸籍です。王領になってから転居や除籍した者の記録はこちらに。それとこちらが日報ですね。量が多いので内容ごとに分類し直しておきました。後ほどご確認ください」
机の上に載せた書類の山を、一つ一つ示してアニエスに説明していく。
シビル駐在官は必要な書類を見やすく、かつ、探しやすくファイリングして新領主を待ち構えていた。
引継ぎの後、彼は汽車を乗り継いで王都へ帰る。遠方の務めを果たした後には、王城でそれなりのポストが用意されるだろう。シビルは終始明るい表情でいる。
「あと、こちらも」
書類の他に、小さな箱をアニエスへ差し出した。
まるで宝飾品をしまっておくような入れ物だと思い開けると、実際にイヤリングが一組収められていた。
金の留め具に、クリスタルがぶら下がっている。陽に透かすと、透明な石の中に淡い緑の光が見えた。不思議な宝石である。
「これは?」
「《精霊の耳飾り》です。異世界人にそれを付けてもらうと、言葉が通じるようになるそうです。エインタートには異界の門がございますからね」
「これが・・・」
アニエスの瞳が、好奇心でわずかばかり大きくなる。
その昔、紋章術をこの世界に伝えた異界の者が、自分と同じく迷い込んだ異界の人間が困ることのないようにと、霊峰ダラムタルで採取された希少な鉱石を使い、開発したのがこの《精霊の耳飾り》である。
王国には五組ほど現存し、異界の門が特に頻繁に出現するとされる領地にそれぞれ配られていた。とすれば、エインタートはそれだけよく異界の門が開く場所だということだ。
「私が五年勤めていた中でも、三回ほど門が出現しましたね。空に突然裂け目ができて、とても不思議な光景でしたよ。ただ残念ながら異世界人ではなく、鳥が一度出て来ただけでしたが」
シビルは笑って話し、イヤリングの次には冊子を取り出す。
「こちらに異世界人が現れた時の対応手順をまとめておきました。基本的には、ただちに国王へ報告していただいて、指示を仰ぐ形になります。特に危険性を感じない相手の場合は、普通に客人として扱っていただければ問題はないかと」
またその冊子も、舌を巻くイラスト付きで懇切丁寧に解説してあった。
(優秀な人だ)
アニエスは、できれば残って自分を助けてくれないかと、懇願したいのをなんとか堪えた。説明が始まる前に、シビルが「やっと娘に会えます」と涙しか誘わないことをぽつりと漏らしていたためだ。聞けば転勤が決まる直前に生まれた娘らしい。
「あとは、たまに魔王退治に来る人たちがいるのでその対応ですね。そちらの機会のほうが多いかもしれません。もっとも、だいぶやられたので近頃は挑戦者も少なくなってきておりますが、ついこの間もギルドの一団体が参りましたのでこちらを」
と、今度は魔王退治一行への対応をまとめた冊子も出て来た。至れり尽くせりである。
ギルドとは、平たく言えば傭兵集団を指す。各地に様々な一派の拠点が存在し、その歴史はそれなりに長い。幼い頃から師が弟子に戦闘術を仕込み、戦争や魔物退治の仕事を請け負ってきた。
平和な世では半ば何でも屋と化しているが、魔物退治ならギルド、というのは今でも一般的だ。ただし、ギルドによってその実力はピンキリである。
中には、ただのならず者集団でしかない場合もあり、積極的に活用したいかと言えば、あまりそうではない。ゴードンの指南書にもその辺りの注意が記されていた。
エインタートへ魔王退治に来るのは、ほぼ有志の団体。依頼されていないのだから報酬は金ではなく、魔王とまで称されるほどの魔物を倒して得られる名声である。つまり、切に名声を欲している無名の者たちが集まって来るわけで、その実力は推して知るべし。
魔王退治に関する日報のほうも見ると、どうやらアニエスが一度帰った後にも挑戦した団体があったらしい。それを加えて負傷者は累計で五十五名とある。
「死者は、ゼロ、ですか」
アニエスは、そこが一番気になった。
「ええ幸いにも。魔王はある程度、話の通じる相手であるようです」
「どういうことですか?」
「はいはい、そちらのご説明は私の担当ですね」
ここで、部屋の隅に待機していたリンケがずずいと出て来た。
眼鏡の位置を直し、彼女はその奥の菫色の瞳を光らせる。
「はじめに一点だけ訂正を。件の魔王は魔物ではなく、《魔人》です」
「・・・魔人?」
「はい、新しく分類名を作りました。よろしいですか? 魔人というのは、《魔界》からやって来た人型に近い生物を指します。確か、アニエス様は私の著書をお読みくださっていたのでしたね。魔界のことはそこでも触れていたかと思いますが」
リンケが語る内容は、まだセオリーにはなっていないが、魔物の起源に関する議論の中では有力説としてよく取り上げられる話だった。
「そもそも魔物はこの地上の生き物ではございません。魔界――これは異世界とはまた別物です。私たちの住む大地の遥か上、空を超えた星に存在する魔物の世界とでも申しましょうか――そこから何らかの理由でやって来て、地上の動物と交わり、現在のような多種で独特な生態を持つ生き物となったのです。一方で、私が魔人と申します件の魔王は、魔界から直接やって来た純血種なのです」
リンケは説明しながら、どんどん早口になっていく。
「彼女は地上の魔物とは比べ物にならないほどの非常に強い魔力を持ち、なおかつ人間と同等の知能を有しています。言葉を操るだけでなく、どうやら独自の文化も持っているようです。まさに魔人です。なぜ地上に来たのかはまだ聞き出せておりませんが」
「ちょっと、待ってください」
さすがに、アニエスは口を出さずにはいられなかった。やや興奮し始めていたリンケだったが、ここは大人しく黙る。
「魔王とは、会話が可能なのですか?」
まずそこである。人型の、そして言葉を話す魔物などアニエスは知らない。
「ええそうなのです。驚くべきことに。彼女との会話をそのまま論文に書くだけで世紀の大発見と称されるでしょうね。その前に彼女が確かに純血種であることを証明する必要はありますが」
「・・・女性、なのですか?」
「あ、いえ、単に見た目がそれらしいので。実際、性別があるのかはよくわかりません。生態調査が不十分なのです。会話はなんとか成り立つのですが、かと言って必ずしもこちらに協力的ではないもので」
(それでもある程度話の通じる、人型の魔物・・・)
そこに対戦者の死者がゼロだったことも加えて、アニエスには希望が見えるような気がした。
「もしかして、その彼女は――」
言いかけた、途端。
北向きの窓の外が光り、轟音が響き渡った。
「っ!?」
咄嗟に耳を塞ぐ。まるで巨人の雄叫びのような音に、建物全体が震えていた。
「大丈夫ですか!?」
開け放した扉の外にいたジークが、慌てて中に駆け込み、主の無事を確かめる。
アニエスはそれに頷き、窓の外を見やると、北の空にあった雲の塊に不自然に大きな穴が開いていた。先程、轟音と共に地上から飛び出した光が、遥か高くの雲を貫いたのだ。
呆然としているアニエスの耳に、続けてシビルの間延びした声が届く。
「あー、起きたみたいですね」
「・・・起きた?」
尋ねにはリンケが答える。
「魔王はほとんどの時間を睡眠に費やしておりまして、十数日から数カ月周期で目覚めた時には大抵、《あくび》をするのです」
「今の衝撃が、あくびってことですか?」
ジークは苦笑しながら、「そりゃ敵わんわ」と小声で漏らす。
エインタート近辺に住んでいる者にとっては、すでに日常茶飯事の現象であり、ルーなども特に慌てる様子なく、見張り塔の外にいた。
(死者が出なかったのは、ただの偶然、なのかも)
人が死んでもおかしくはなさそうな衝撃だった。
甘い考えを打ち砕かれ、ぼうっと窓の外を見つめ続けるアニエスのもとへ、メモを取り続けていたニーナが寄っていく。
「アニエス様、今のお気持ちは」
「・・・がんばらなきゃ、という気持ちです」