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9.辺境伯

 まだ日が昇って間もない早朝、図書館の古書修復部にて、アニエスは一人、自分の作業台の前に座り本を読んでいた。

 先日、修復を終えた『精霊記』である。赤く変色していた表紙は、深い緑色の仔牛革に新しく張り替えられた。全体にあるシダの葉の模様は、アニエスが最も気に入っている型押しで装飾したものである。

 また、本文ブロックの上下を保護する花ぎれにもこだわった。ちょうど美しい黄色の糸が手に入ったため、それを使った。本文を読んでいると、常にそれが綴じ目の上部に見えて楽しい。

 『精霊記』は百年以上の昔、異界より来た特別な人物が書き残していった体験記である。普通の人より耳が長いという特徴を持ったその人物は、この世界の人間が見ることのできない精霊を目視し、意思を通わせることができたという。

 本は精霊の基本的な性質を理解するのに役立ち、中身自体は幾度も刷られ、アニエスもすでに読んだことがある。

 今回修復した『精霊記』は初版本であり、文字は手書きで、かつ、古語で綴られている。まだ印刷技術のなかった時代に、人の手により製本された歴史的にも貴重な品である。

 ページの茶色い染みが抜けたことで、くすんでいた本文が明瞭になった。アニエスは学院で非常に熱心に古語を学んできたため、特に辞書など引かずとも、それらの文字をごく自然に理解することができる。いずれにせよ、内容は現在出版されているものと相違ない。

 最後まで読み直しを終え、ぱたんと本を閉じる。開閉にまったく問題はない。上出来である。自身でもそう評せるくらいには、技術を身につけられた。

 すっかり片付けた作業台の上に本と、修復完了後の報告書を置き、しばらく、天井を見上げてぼーっとしていると、やがて仕事場の戸がゆっくり開いた。

 アニエスは立ち上がり、双子の老人たちを迎える。

 いつも一番に職場にやって来る師匠らは、待ち構えていた弟子にわずかに驚きを見せたものの、その用件はすでに承知しており、すぐに柔和な表情に戻った。

「申し訳ございません」

 どうやって切り出すか、迷っていたアニエスだが、反射的に飛び出したのは謝罪の言葉だった。

 老人たちは静かに首を振る。

「あなた様が謝られることは何もございませぬ」

「さよう、さよう」

「いえ。無理を言ってここに入れてもらったにもかかわらず、報いることもできないうちに、早々に去ることになってしまって、なんとお詫びすれば良いのか・・・」

 アニエスの身の内は罪悪感や、他の様々な苦悩で満ちている。決断した後もどこかで往生際悪くまだ迷い、不安に揺れている。

 老爺たちには、そんな未熟な心が手に取るようにわかっていた。

「大丈夫、これが永久の別れではございませぬよ」

 双子の兄のノーマンがそっと言い出す。弟のフーゴも「さよう」と師匠らしく頷いた。

「かの地で、でき得る限りのことをなさいませ。今以上に悪くなることはないのですから」

「そしてもし、不運の風に絡めとられ、どうにもならなくなってしまった時は、ここへ戻っておいでなさい」

 優しく、温かい言葉。それらは胸に深く染み入って、不安をなだめてくれる。

「・・・ありがとうございます」

 アニエスは胸に手を当て、顎を引き、二人の師に心からの感謝を捧げた。

 エインタートの領民から、アニエスは領主になることを望まれた。自らの手で故郷を取り戻すことを、彼らは選んだのだ。

 アニエスはその選択に従った。

 当初予定していた滞在期間の十日を待たず、三日でローレン領を去り、兄たちにエインタートを継ぎたい旨を話し、諸々の手続きと領主になるための準備をひと月かけて行ってきた。

 そして今日、ついにエインタートへ旅立つ。

 これから王城に出向き、ちょうど昨日、戴冠式を終えて王に即位したばかりのカイザーから、爵位を賜る。それでエインタート領主と認められるわけである。

 未練がないと言えば嘘になる。修復士はアニエスが幼い頃から夢見ていた職業であり、せっかく一人前と呼ばれる程の技術を身につけられたのだから。

 後悔の一番は何よりも、この理想の職場を去らねばならないことだった。

「どんな事も、人生の糧となりましょう」

 作業台から、ノーマンが古書修復のナイフなどが入った革の道具入れを取り、アニエスに持たせる。


「《あなたに成し得ることは、あなたにしか成し得ない》」


 アニエスはしっかりと、それを受け取った。



 ◆◇



 爵位を王から賜る叙爵式は、アニエスが想像していたよりも簡易なものだった。

 小さな謁見室にて、立会人もゴードンなどの側近たち数名くらいのもので、実に地味に済まされた。

「まさか王になっての初仕事が、妹に爵位を授けることになろうとはな」

 式を終えると、カイザーは王の威厳を脱ぎ、椅子に深く腰を降ろした。

 昨日の疲れが顔に窺える。

 戴冠式の日は、朝から八頭立ての馬車に乗り込み、父の葬儀にも使った大聖堂に向かい、そこで戴冠の儀式をし、そしてまた馬車で城へ戻り、その後はずっと宴会だったのだ。

 城門の外におびただしい数の人がひしめき、カイザーはバルコニーから民衆らへ、昼と夜の二度ほど顔を出したりなど、とにかくせわしない一日を過ごした。

 アニエスも他の兄弟たちと共に参列し、兄の即位を祝福する凄まじい民衆の声を聞いている。今日も街は祭り騒ぎの余韻が収まらず、露店などが多数並び、普段の倍の人で賑わっていた。

「お忙しいところ、ご迷惑をおかけして申し訳ございません」

 アニエスは兄にも深く謝罪した。

 父の遺言とはいえ、女に爵位を授けることには前例がない。であれば、多方面への反発は避けられない。その矢面に立つのはアニエスではなく、カイザーなのである。

 カイザーはそれを承知の上で、溜め息まじりに「良い」と告げた。

「私がお前に決断を委ねたのだ。――だがこうなった以上は、その称号にある役目を求めることになる」

 不意に兄の雰囲気が鋭くなり、アニエスは居ずまいを正す。

「『辺境伯』の位の意味はわかるな? その責任も」

「はい」

 辺境伯は貴族の最上位の称号である。

 その特権の大きなものは、軍事行動の自由。

 貴族は独自に兵を持つことを許されているが、武力行使には必ず王の許可がいる。しかし辺境地は常に敵国と交戦する可能性があり、王に許可を仰ぐにも距離があり過ぎるため、王は自由に軍団を用いる権限を辺境伯に与えていた。

 現在、スヴァニル王国に敵対している国はないが、エインタートには魔物がいる。それらへ緊急的に武力行使が必要な際、即座に兵を動かせるように、アニエスは辺境伯の位を授けられたのだ。

 無論、王家の血を引いていることも考慮に含まれている。他にこの位にある者は、南の地方を治めている彼らの叔父しかいない。

 これからアニエスは『王女』でなくなり、公の場では『エインタート辺境伯』とかえって仰々しく呼ばれることになる。

 王女はあくまでも呼び名であって役職ではなかったが、辺境伯には領主として、また、国境を守る者としての責任が伴うのだ。

(・・・と言っても、兵士の一人もエインタートにはいないのだけど)

 そんなことはカイザーも承知だったが、つまりはアニエスがしておくべき心構えを説いたのである。

 なすべきことは、山積している。

 思わず溜め息を吐きそうになるのを、アニエスは堪えた。

「王として、私はほとんど何もお前にしてやれないだろう」

 カイザーが言う。統治権を委譲した上は、エインタート内のことはアニエスが解決しなければならない。誰にも頼ることはできない。十分にわかっている。

 アニエスが体の横でひそかに拳を握ると、カイザーの言葉は続いていた。

「だが、兄として相談に乗るくらいのことはできる」

 アニエスは目を瞬いた。気づけばカイザーの眼差しは険しさが薄れ、労わるようなものになっている。

「必ず手紙を寄越せ。たまには顔も見せに来い。良いな?」

 それはまるで、彼や彼女の父がいかにも言いそうなことで、アニエスはさらに驚いてしまった。

「辺境伯としての責任感も矜持も必要ではあるが、だからといって誰にも頼れないなどとは思うなよ。少なくとも、お前には兄と姉が十五人もいるのだ。・・・一人は行方も知れんが、活用できるものは遠慮せず活用しろ。それはお前自身のためではなく、お前が守るべき領民たちのためだと思え」

「・・・は、い」

 有無を言わさず、頷かされた。

(兄とはどこまでも兄らしい)

 カイザーには、己の息子よりも年下の妹を見捨てる選択肢など最初からないのだ。責任感の強い者は情にも厚い。長兄の長兄たる所以をアニエスは知ったような気がした。

「・・・これを」

 謁見室を辞する前に、ゴードンからは冊子を渡された。

 本ではなく、二つ穴を開けて紐で綴じただけの紙の束だ。女性的にも思える繊細な文字で、『はじめての領地経営』とやけに可愛らしい題が書かれている。

 このひと月、アニエスは就業後にゴードンから領主の仕事についてレクチャーを受けてきた。冊子はその講習内容と、アニエスが必ず直面するであろう課題への対応策をまとめたものだという。

 ゴードンも決して暇ではない。彼は王城の庶務や、政策の企画立案、それに必要な情報収集・調査等を行う補佐官たちの長を務める。表に出る機会は少ないが、カイザー同様にこの兄もいなくては国が立ち行かない。

 講習も冊子も、その激務の合間を縫って用意されたものであるのだ。

「・・・ありがとう、ございます」

 それしか、アニエスには返せる言葉がなかった。

 やや青みの入った灰色の前髪の隙間から、覗く紫の瞳はやはり陰気で、これといった感情も浮かんでいなかったが、

「幸運を祈る」

 妹の肩を軽く叩き、兄は励ましと共に送り出した。



「――アニエスっ!!」

 謁見室を辞し、そのまま王城の玄関口に向かっていくと、突如、怒号に呼び止められた。

 アニエスは地が割れた音かと思い、危うく転びかけた。

 次兄が前方から大股でやって来ており、その巨体に思わず恐怖し、足が竦む。陽気な表情を見る限り、怒っているわけではなさそうである。

 後ろに、武官らしき男を一人伴っていた。

「今日が出発だそうだなっ!」

 間近にデュオニスが迫り、できることならアニエスは耳を塞ぎたかった。そんな無礼を働く度胸は欠片もないが。

「・・・何かご用で」

「餞別だ!」

 アニエスの声など聞こえず、デュオニスは連れの男の背をばしりと叩いた。遠慮のない音が玄関ホールに響く。

 男のほうもさすがに痛かったのか、一瞬表情を歪めたが、すぐに姿勢を正した。

「こいつはエインタートの出身でなっ、きっと役に立つぞ! 持って行け!」

「・・・は」

 なんの脈絡もなく人間の餞別を押し付けられ、アニエスは目を点にするしかない。

 男は若かった。まだ二十代のように思える。膝丈の紺のコートは武官の制服であり、体躯もそれらしく鍛えられている。ただ、顔のつくりは優しげで、後ろ側に跳ねた髪が柔らかい茶色をしており、武器を振るう者にしては穏やかな雰囲気だ。

「・・・この方は、一体」

「ジーク・バラック下士官だっ。二十年前にエインタートから家族と王都に移ったんだとっ。聞けば、お前は私兵の一人も持っていないそうではないか? それではなんだと思ってなっ、部下の内からお前に仕える者を募ったら、こいつが名乗り出たというわけだっ」

「・・・いえ、あの」

 アニエスは、何を言うべきかを必死に整理しながら言葉を紡ぐ。

「兵は、復興が進んでからおいおい募りますので・・・無理に部下の方に来ていただくことは」

「辺境地など、ならず者しか集まらんぞ? 統轄できる者が一人は必要であろうっ。まさかお前にはできまいてっ」

 予想外に正論を返され、アニエスは早々に言葉に詰まってしまった。

 下士官は、一部隊を率いる士官のもとでその補佐を行い、場合によっては士官のかわりに指揮を務めることもある役職だ。兵の統率に関して、アニエスよりもふさわしい人材であることは明白である。

 しかし、人一人をやると言われて、簡単に受け取れる程アニエスは豪胆ではない。

「・・・お気遣い、ありがとうございます。ですが、エインタートの状況はどのように転ぶかわかりません。せっかく立派な職に就かれているのに、それを投げ出させるような道は、勧められません」

 アニエスに付いて来るということは城勤めを辞めるということで、その後の保障は何もない。

 ここに安定した暮らしがあるのならば、それを大切にすべきである。本人のためにも、アニエスは受け入れてはいけないと思った。

「――あの、よろしければ発言しても?」

 その時、青年が遠慮がちに右手を挙げた。

 デュオニスが許可し、青年ジークは「えーっと」と何か考えるようにまず口にする。

「その、私なんぞのことをお気遣いくださって、身に余る光栄にございます。ただ、エインタートへ行くことは私の両親の願いであり、私自身の本望でもあるのです」

「・・・本望、ですか?」

「はい。両親は王都でパン屋を営んでおるのですが、もしエインタートが復興すれば、そちらに帰りたいと常々申しておりました。そんな時にデュオニス様にお話をいただき、これこそ私の為すべきことと思ったのです」

 そうして、ジークはその場に跪いた。

「どうかぜひ、お邪魔でなければお連れください」

 そんなことをされれば、アニエスは慌ててしまう。

「ですが、まだ他に兵士もおりませんので・・・あなたの力を発揮できる仕事は何も」

「兵士の仕事でなくとも、なんでもお命じください。瓦礫撤去から雨漏り修理まで、お好きなように使っていただいて結構です」

「それは、さすがに申し訳ないような・・・」

「どうかお気になさらず。私にとっては両親への孝行ともなります」

 ジークの態度は揺るぎない。何を言っても崩すことができないようで、アニエスは言葉に詰まった。

 本来、爵位を持ちながら従者の一人もないのは異常である。その点、王城で訓練された武官を得られるのならば願ってもないことだったが、アニエスは、この青年を本当に道連れにして良いものか、判断をつけられずにいた。


「あら、何をしているのです?」

 すでに十分混乱している、そこへさらなる人物が現れた。

 デュオニスらの背後から、ハイヒールをかつかつ鳴らしてエリノアがやって来る。兄とは違い、姉は用がなければ城になど来ないはずである。特に戴冠式のあった今は、彼女の経営するホテルや小売店は満員御礼で忙しい。

 しかし、現にエリノアは目の前にいて、しかも、後ろに一人伴っている。アニエスは、嫌な予感しかしなかった。

「どうした? クリスタならば今朝早々に帰ったぞっ」

 エリノアはまずデュオニスの尋ねに応えた。

「何か誤解されているようですが、私はあの女に一時たりとも用があったことなどございませんわよ? むしろ城に残っていたなら出向きません」

「そろそろ仲直りせんかなあ、お前たちはっ」

「さあ、それはあちらの心構え次第でしょうね。ところで兄様はなぜこのようなところに?」

「なに、アニエスに餞別を持たせようと思ってなっ」

 デュオニスは簡単に経緯をエリノアへ説明した。この時のジークはひとまず立ち、脇に避けている。

「いいじゃないの。兄様直々の推薦なのだから、ありがたくもらっておきなさい」

 アニエスが散々悩んだことを、エリノアはあっさり決めてしまう。そして反論の隙すら与えない。

「ついでにこの子も連れて行きなさい」

 すかさず、自分の連れを笑顔で押し付ける。

 今度は女であり、こちらも二十代のように見える。一瞬、少年と間違えそうになるベリーショートに、上下ツイードのズボンとジャケットを着ていた。ズボンは脛の辺りから細く絞られ、かなり機動性に特化している。

 男装にも思えるが、これは昨今の職業婦人の間で流行になりつつある格好だ。街中でもぽつぽつ見かけ、すれ違う年配者たちにほぼ確実に顔をしかめられている。

 アニエスのローブと、スカートに見せかけた幅広のズボン姿も、時には彼らの不興を買うのだが、エリノアの連れの格好は彼らにとってもっと刺激的だった。

「お初にお目にかかります。私は、婦人雑誌『アスター』記者のニーナ・クロップと申します。ぜひぜひお見知りおきをっ」

「・・・記者」

 まるきり予想外のところから人を連れて来られ、アニエスは呆然とした。

(記者を連れ行けとは一体・・・)

 王都では様々な種類の雑誌や新聞が日々発行されている。

 スヴァニルには平民の通える公営の学校や、文字を教えてくれる私塾が多数あり、一般の識字率が高い。

 政治評論、有名人のゴシップ、特定の分野の者へ向けた情報発信等々、真実から根も葉もない噂まで印字され、手ごろな価格で手に入り、それが庶民の娯楽の一つともなっていた。

 特に王家の話題はよくトップニュースを飾り、次から次へと話題提供を惜しまなかった先代の王などは、記者たちに非常にありがたがられていた。

 アニエスの名も、一度か二度くらいは新聞に載ったことがある。特に保守派に傾いた論評ばかりを繰り広げる新聞の中で、『恥ずべき王女』としてエリノアを筆頭にフィーネらと共に名を連ねられたのだ。

 叙爵式が密やかに行われたのも、それらのマスコミを刺激しないようにするためであり、戴冠式翌日の出発も、余計な取材が来る前に騒ぎに乗じてさっさと辺境へ逃げてしまおうという魂胆のもとにあった。

 なのに、よりにもよってエリノアが連れて来たのは記者なのである。

「この度はエインタート辺境伯へのご就任、まことにおめでとうございます。女性初の叙爵という、歴史的に貴重な一歩を踏み出されたことに、僭越ながら同じスヴァニルの女性として感激に堪えません!」

 ニーナ記者は途轍もない早口だったが、内容は不思議とよく聞き取れた。

「私どもの社が新たに創設いたしました婦人雑誌アスターは、まさにアニエス様のような輝く女性たちを取り上げ、社会においていかに女性が重要であるかを知らしめることを目的としております。アニエス様の、ご自分の意思を強く持って生きていらっしゃるお姿が、いまだ日陰に留められている女性たちを照らす希望の光となるのです。つきましてはぜひっ、ぜひともっ、我が誌でエインタート復興までの軌跡を独占取材させていただきたく、エリノア様にお頼みし馳せ参じた次第にございますっ」

 アニエスは途中から、一体誰の話をしているのだろうと思っていた。

 今この時も含めて輝いた覚えなど一瞬とてなく、人の手本になれるほどの意思を示した行動を取ったこともない。領主就任に関しても、大半は場の流れと勢いとやむにやまれぬ事情に押されて、ならざるを得なかったというのが本当のところである。

(断ってはいけないんだろうか)

 エリノアを見やると、微笑みを返された。

「この雑誌、私が出資しているのよ」

(・・・つまり、断ってはいけないのか)

 姉の説得はエインタート復興以上の難事である。観念するしかなかった。

「嫌そうな顔をしないの。あなたにとっても悪い話ではないのよ? 雑誌で定期的に取り上げてもらえば、自然と関心が集まり、人も集まる。何もかも足りない辺境地なんだから、何でも利用して宣伝していかないと、人も物資も手に入らないわよ」

「・・・そうですね」

 アニエスは力なく頷く。

 ただ、それは強要されたせいばかりではなく、頭の中で姉の言葉が兄の言葉と繋がったためでもあった。

(自身は何も持っていないのだから、何でも利用すべきというのは、確かにそうなのかもしれない。自分のためではなく、領民のために)

 アニエスは取材許可を得て喜ぶニーナから、デュオニスへ視線を移した。

「兄様、どうか一つだけお約束ください」

「おうっ、なんだ?」

「もし私が領主を降りねばならなくなった時は、この方――バラックさんの処遇を、必ず以前と劣らぬように取り計らい願います」

 そこだけは譲れず、アニエスは必死の思いを眠たげな目に込めて訴えたのだが、デュオニスからは失笑を買った。

「わかったわかったっ、その時は我が家で面倒をみようっ」

「・・・ありがとうございます」

 こうして、一人で向かうはずだったエインタートへは、新たに二人の供を加えて、向かうことになったのだった。



 アニエスらは午前の便の飛行船に乗り込むべく、街の喧騒をすり抜け、王都郊外の発着場に向かった。

 今日までは、まだ王都の外に出て行く便は混雑していない。スムーズに乗り込めるはずだったが、ここでもまたアニエスは呼び止められた。

「アニエス姉様っ!」

 搭乗口付近で馬車を降りると、なぜかそこにいるはずもないシャルロッテが駆け寄って来ていた。

「・・・シャル?」

 一応、地味な茶色のワンピースで、街娘のような格好に扮してはいる。しかし身につけている金細工のイヤリングや、鮮やかなグリーンに染められている頭のリボンは見るからに高級な品であるとわかる。

 彼女の細部にまで至る身だしなみへのこだわりは、奇天烈レギナルトのそれと根の部分では共通している。

 走ったことで息を切らしている妹の背に手を添え、なぜ一人でここにいるのか困惑していると、やや遅れてフィーネが小走りにやって来た。

「やあやあ、間に合ったね」

 こちらは特に変装するわけでもなく、普段通りのシャツにロングスカート、前のボタンを開けた長めのジャケットを引っ掛けた姿である。

「フィーネ姉様まで・・・まさか、見送りに来てくださったのですか?」

「そんなところ。シャルが、どうしても君に渡したいものがあるそうだ。だろう?」

 フィーネに促され、シャルロッテは丸めていた背を伸ばす。よく見れば、胸の前に小さな箱を両手で抱いていた。

「あの、まずは、お人形を直してくださってありがとうございましたっ」

「・・・あぁ、うん。でも結局、私が急いで直してしまったから、後できちんとした職人に見せたほうがいいと思う」

 つい最近まで、葬儀の日にシャルロッテに押し付けられた人形のことをアニエスはすっかり忘れていたのである。

 エインタートへの出発の日が迫り、誰かに預けようかとも思ったが、城中が戴冠式の準備で忙しく頼みそびれた。

 それならば直接、人形修復の工房を探して持って行っても良かったのだが、ふと、これが妹の我儘を聞く最後の機会になるのかもしれないと思うと、アニエスは自分で直してみたくなった。

 夜の時間に古書修復の道具を使い、粘土と接着剤で人形のヒビを埋めて色を塗り直し、千切れた髪の端を整え、短か過ぎて気になるところには黄色の糸を継ぎ、ドレスは泥をブラシで落として無残なフリルを取り、新しいものを付け直した。

 完全に元通りとはならなかったが、ぱっと見は問題のない仕上がりにできたため、ゴードンの教習を受けに来たついでの時に、城の侍女へ預け、妹の部屋に届けておいてもらったのである。

「所詮は素人のやったことだから、またすぐに壊れるかもしれない」

「ううんっ、大丈夫、大丈夫です、姉様の仕事なら!」

 シャルロッテは力強く断言し、手に持ったものをアニエスへ押し付けた。

「これ、父様のお部屋で見つけましたっ」

「・・・え?」

「アネット・シェレンベルクから父様宛に送られたお手紙、全部ですっ。アニエス姉様のお母様の名前で合ってますよね? 私、間違ってませんよね?」

 アニエスは頷き、箱を開けてみると、確かにそこには白い封筒が詰まっていた。エインタートでララ・メラーが持っていたものより、枚数は少ない。

 フィーネが、後ろでからから笑っていた。

「部屋中をひっくり返して、その伯爵令嬢が君の母親だっていう証拠をやっと見つけたらしいよ。金庫に入っていたらしくてね、鍵を探すのにも手間取って、やっと開けられたと思ったら、他にもたくさんのラブレターの束があって、その仕分けもシャルががんばったらしい」

「そんなわざわざ・・・」

「だって私、他に何も姉様にして差し上げられることがありませんもの」

 ヘーゼル色の大きな瞳に、シャルロッテはじわじわ涙を溜めていく。

「ご自分では気づいていらっしゃらないかもしれませんけど、姉様はすごいんです。なんでも直してくださるの。そして私の失敗や我儘を全部許してくださるのよ。そんなの世界中で姉様だけです」

「・・・シャル」

 アニエスは、顔を覆って泣きじゃくる妹を片方の手で抱き寄せ、そっと頭を撫でた。

「ありがとう、シャル」

 シャルロッテも両手を姉の背に回し、抱きしめる。

「どうかお怪我をなさらないでね。姉様ならエインタートだってなんだって、きっと直せます」

「うん・・・ありがとう」


 別れの挨拶が済むと、飛行船は空へ浮かび上がり、新米領主を辺境地へと運んでいった。

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