何もなかった
慎一郎に、要から渡された時計を振り分けられた。
その時計は、一見普通の物と全く見分けがつかないアナログな仕様で、それでも重みがあって、手に取るとずっしりとしていた。しかも、ご丁寧に全て違うデザインの時計だった。
「これは、腕輪と違って自分で着脱できるが、いつ体調が変わるか分からないのが不安だったら、風呂でも何でも着けっぱなしにしておいた方がいいだろうな。ダイバーズウォッチ仕様だから、水没しても大丈夫だし、それに衝撃にも強いから少々の事は耐える。オレも普段は、同じ仕様の時計を身に着けているが、急な事故とかに対応できるし便利だ。」
四人は、それを受け取った。今は左手に腕輪がはまっているのでこれが取れてからにしよう、と開はそれをポケットに入れたが、壮介は右手にもう装着していた。不安で仕方がないらしい。
慎一郎は苦笑してそれを見ながら、四人に連絡先を教えてくれた。そして、それからはこの数日間に何をして遊んでいたことになっているのか、具体的に話してくれた。
そして、今夜は皆、遅くまで飲んで騒いだ設定らしい。いくらなんでも一度死んだのに、すっきりと気持ちよく目覚めるのは無理らしい。だるさも何もかも、深酒のせいにする魂胆らしかった。
そんなわけで、それは綺麗に片付いていてすっきりと綺麗なのに、昼間っから冷蔵庫の酒を片っ端から出して来ては、五人で酒盛りをした。
つまみになるような物も、これを見越してそれはたくさん準備されてあった。
いくら飲んでも具合悪くなるようなこともなく、ただ心地良く酔うぐらいにしかならない自分の体に苦笑しながらも、その日はずっと、五人でただこれからの事を淡々と話しながら、飲んで夜は更けて行ったのだった。
目が覚めると、日が高く昇っていた。
驚いた開は起き上がり、慌てて時計を見ると、今の時間は9時過ぎ。
いつも、5時に起きていたのに、こんなにぐっすり眠っていたなんてと自分の驚きながら、急いで起きる準備をした。そういえば、今朝は5時の閂が自動で開く音もなかったのだとそこで気付いた。
着替えてふと机の上を見ると、昨日手渡された腕時計が目に入った。そうだったと左腕に触れると、そこにあった腕輪がない。
びっくりして見回したが、ベッドにも、どこにも腕輪はなかった。
…注射のあと、勝手に回収しておきますので。
要の言葉が、蘇る。つまり、眠っている間に勝手に入って来て、勝手に持って行ったということなのだ。
そう思うと面白くなかったが、自分は管理される身なのだからと腹をくくり、開は時計を腕に巻いた。
そして、階下へ降りて行こうとドアを開いて、廊下へ足を踏み出した。
死ぬほど飲んだにも関わらず、頭はすっきりハッキリしている。こんなことは、初めてだった。
階段を降りて、居間へ抜ける廊下へと差し掛かると、壮介が先に歩いているのが目に入った。開は、後ろから声を掛けた。
「壮介さん。」
すると、壮介は振り返った。
思っていたより、すっきりとした穏やかな顔をしていた。夜の間に、何か心境の変化でもあったのか、あれだけ不安そうだったのに、そんな様子は全く見当たらなかった。
壮介が待っているので、開は足を速めて追いついた。
「昨日あれだけ飲んだのに、早いですね。」
壮介は、頷いた。
「二日酔いもなくすっきりだよ。体調がいいのが気分良くてな。」
人狼だから、とは壮介は言わなかった。
開が笑って居間のドアを開くと、そこには、ダルそうな顔の面々が、ソファに背を預けてペットボトルを片手に座っていた。
居たのは、那恵、園美、椎奈、さくら、千秋だった。
「あーなあに?あなた達。あれだけ飲んだのに、全然後引いてない感じじゃないの。さっき他の女子達の部屋へ寄って朝ご飯を誘ってみたけど、起きられないから昼ご飯まで寝てるって。」
壮介が戸惑っているようだったので、開が笑って言った。
「あれだけ飲んだらそうなるだろ。それで、片付けてくれたのか?」
昨日、わざと缶や瓶をそこら辺にほったらかしにして寝たのだ。園美が、顔をしかめて言った。
「そりゃほっとけないでしょうが。自分達が散らかしたんだし。でも、あなた達がそんなに元気そうなら、やってもらえば良かったわ。」
皆の腕には、あの腕輪はない。それに、あのゲームの時にあった、いつも付きまとう不安感が全くなかった。
本当に、何も覚えていないのだ。
開は、僅かの間にそれをやり遂げてしまう能力に、背筋が寒くなる思いだった。記憶など、あいまいなものだとジョンが言っていた。もし、今まで自分が当然のように生きていた人生が、実は全く違うのだとしたら…?
開は、少し不安になったが、それでもそれを表には出さずに、そのまま女子達に加わって楽しく話した。
男性陣は、昼を過ぎて置き出して来た。
慎一郎が、バナナボートでも乗りに行くかと皆を誘っていたが、今日はアクティブに遊ぶ気になれないと皆、断っていた。
こうしてみると、慎一郎はしっかりと添乗員の仕事をこなしている。
皆の食事の手配をして、夜は和食をというと、その夜の夕食はきちんと調理された懐石料理がワゴンに乗せられて運ばれて来た。
実際のところ、自分達はこ1日しかこうしてリゾートしていないわけなのだが、皆の中ではたっぷり遊んだ気持ちになっているらしく、夜になり、体が回復して来た皆の顔は晴れやかだった。
「あー明日には帰るのかあ。」恭一が、残念そうに言った。「最初は会社の付き合いだって、あんまり期待してなかったのに、おもしろかったなあ。ここまで無料でいろいろマリンスポーツが出来て、飯も旨い旅行ってないんじゃないか?追加料金も無いしさあ。」
隣りの進が、笑って言った。
「お前、ほんと楽しんでたからなあ。食ってるか寝てるか海行ってるか。オレはさすがに疲れたよ。もうそろそろ帰りたい。明日は船で何時間かかるんだったっけ、慎一郎さん?」
慎一郎は、皆の食事が滞りなく進んでいるか見ていたのだが、言った。
「帰りは航路が違うので、二時間ほどですかね。最初10日間ということだったんですけど、本当に七日でよろしいんですか?」
開は、ふと顔を上げた。そういえば、そうだ。ここへ来るときは、十日間という話だったのに、まだ一週間なのだ。いろいろあり過ぎて、忘れてしまっていた。
進が、苦笑して首を振った。
「みんなで決めたことだ。最初からかなり楽しんでた松本部長だって、休暇終わってすぐ仕事は疲れるから家での時間も持ちたいって言って、それで切り上げることにしたんじゃないか。恭一は元気過ぎるんだよ。」
同じように食事の手を止めて聞いていた光一も、開と少し視線を合わせてから、また手を動かし始めた。
…そういうことになっているのか。
開は、余計なことは言わない方がいい、と思って黙って食事を進めた。大人数なのに思ったより早く人狼ゲームが終わって、ジョン達運営側は早いところ皆を追い返したかったのだろう。
善次が、ビールを手に言った。
「オレだけじゃないだろうが。小森だって帰りたいと言ってたぞ?最初は酒が飲み放題だし何でも食べ放題だし、自炊だと聞いてたのにそこそこ作ってもらえることも分かったしこりゃいくら居てもいい、と思ったのんだが、出来るのがマリンスポーツだけってのがな。オレ達の歳じゃ、疲れるんだよ、連日だと。テレビだって映らないしここにあったDVDは全部見る勢いだったんだからな。」
それを聞いた角治が、苦笑した。
「まあまあ松本部長、それでもたくさん飲んだし楽しめたでしょう。いくら飲んでも誰も何も言わないんですからね。」
善次は、肩をすくめて言った。
「まあ…これほど何の心配もなく飲んだのは初めてだし。それにしても、かなりの酒量だぞ?これ、ほんとに追加料金なしでいいのか?」
慎一郎は、笑いながら頷いた。
「最初に言ったじゃないですか。命の洗濯ですよ。その代わり、次の健康診断で数値が悪くなっても責任は負えませんがね。」
「ああ、それがあったか。」
善次は、笑った。
開は、それを見て複雑な気持ちだった。実際は、善次は最初の段階で薬で仮死状態になって地下で眠っていたのだ。健康診断の数値が、悪くなるはずなどなかった。
進が、食べ終えたようで箸を置いた。
「それで、明日の予定を聞かせてもらっていいか。」
慎一郎は頷くと、側の台の上に置いてあったプリントを持って来て、皆に配った。
「明日は、朝食は皆さん、ご自分で冷蔵庫なりでなんなりと探して召し上がって置いてください。11時には船が迎えに参りますので、荷物を持って乗り込んでください。昼食は、船の中でお弁当をお配りします。その後、初日に乗り込みました港にて解散です。」
園美が、ふむふむとプリントを見ながら言った。
「時間に余裕があるから、朝もゆっくり出来そうね。お土産買えなかったなー。土産物屋さんないもんねえ。」
慎一郎は、苦笑した。
「港のターミナルで買って頂くよりありませんね。今回は、リゾートだけの予定でしたから。」
椎奈が、笑って園美を見た。
「そうしようよ、園美。ターミナルで買おう。どうせ買うのって、家族にだけだし。」
「職場の人はみんな居るもんねえ。」園美は、笑って同意した。「そうね、そうしよう。」
和やかに食事も終わり、もう今夜は寝るだけだな、と開がホッとしていると、視界の端で英悟とさくらがそっと出て行くのが見えた。
開は気になったが、そのまま見送った。




