薬
要は、時間ぴったりに戻って来た。
慎一郎が、時間には驚くほどに正確だと言っていたが、確かにその通りだった。
要は穏やかに微笑みながら、言った。
「決まりましたか?」
英悟と光一が、頷いた。
「オレと光一は、研究所に就職することにした。」
英悟が言うと、要は壮介を見た。
「開さんも同じですね。壮介さんは?」
壮介は、首を振った。
「オレは、研究所に通う。もしもヒトに戻れたら戻りたいと思うし、その時また就活なんて無理かもしれないから。」
要は、すんなり頷いた。
「分かりました。では、追加の処置は必要ないので、他の陣営の皆さんも屋敷の自室へ帰します。」と、手元の紙を見た。「処置の事を説明しておきましょう。人狼以外の方々は、皆さんこちらで休日を過ごしていたと記憶されています。五日目の夜にお休みになり、次の日の朝の、つまり六日目の朝だと思って明日、目覚める事になります。襲撃の傷は薄っすら残る程度で、見た目には分かりません。完全に組織は再生しているので、誰も自分が死んでいたなど思いもしないでしょう。残りの二日は、自由に過ごして頂いて結構です。建物からも出ることが出来ますし、海で遊ぶならいろいろと遊具も揃っています。七日目の昼に迎えの船が来るまで、存分に楽しんでください。」
開は、訊ねた。
「みんな、本当に何も覚えていないのですか?思い出す事も?」
要は、笑って首を振った。
「何も。同じ場面などがあれば、覚えがある、程度は思い出す事もありますが夢を見たか、程度ですね。かくいう私も、一度その処理をされた事があるらしいのですが、本当に何も覚えていません。後から話した内容ならはっきり出て来るのですが、ゲームの最中の事は何一つ。」
英悟は、驚いたように要をマジマジと見た。
「君が?あの…研究所員でも、そんな事が?」
要はまた首を振った。
「その頃は高校二年生でしたから。次の年にまた、同じゲームに参戦させられましたが、その時も何となく覚えがある、程度で全く思い出しませんでした。ここへ来てから、そんな事があった事実を知らされて驚いたぐらいで。ジョンの好意で二回目は記憶を消されず、私は研究所へ来るために猛勉強した次第で。」
ジョンの好意、と要は言った。そんなことに巻き込んでおいて、好意もへったくれもないと思うのが普通なのだが、その研究所に勤めているような人間には、そんな風に思えるのだろうか。だとしたら、なかなか馴染めそうにない…。
開がそんなことを思って黙っていると、要は、立ち上がった。
「さあ、では戻りましょうか。あなた方は明日の朝まで自由にしてくださっていいですよ。他の人達はどんなに起こそうとしても、明日の朝までは絶対に目覚めないので起こそうとしても無駄ですので念のため。それから、これから二日間はあの厄介な時間制限もありませんから、夜中だろうが何だろうが屋敷の中をうろつくことは出来ます。今夜就寝中にあなた方の腕輪から人狼になるのを抑制する薬を投与しておくので、しばらくは大丈夫ですから安心してください。」
四人は、同じように立ち上がりながら、もう出て行こうとする要に慌ててついて行きながら言った。
「しばらくって、いったいどれぐらいになるんです?個人差とかあるんじゃないんですか。」
壮介が、怯えたように言う。要は、チラと壮介を見て、足を止めずに答えた。
「確かに個人差はありますが、短くても3カ月、長くて半年はそれで抑制されたデータが出ています。ただ、これは精神状態にとても関係していて、それというのも人狼が狼の姿になる時は、脳のある部分を使って自分の細胞に指示を出すからです。脳はとても敏感で不安定なので、狼の姿になりたくないと過剰に案じたり不安になったりしていたら、それが逆に引き金になることがあります。なので、あなたはそのことを考えない方がいい。普通にしていれば、見た目は一般のヒトと変わらないのですから。」
壮介は、更に怯えたような顔をして、押し黙った。開は、それを横目に見ながら要に従ってまた、無機質な廊下を歩いていると、さっき見たエレベーターの扉が開いていて、白い防護服の数人がいくつかのストレッチャーを押してそこへ入って行くのが見えた。要は、それを見て声を掛けた。
「ああ、上に行くのか?乗せてくれ。」
相手は、顔は見えないがこちらを見て頷いた。ドアを開けて置いてくれているようだ。
要が足を速めて歩いて行くので、開達も遅れてはいけないと、壮介の背を押しつつそのエレベーターへと駆け込んだ。すると、思っていたより大きなエレベーターで、中にはストレッチャーが三台入っていた。
その上には誰かが寝ているようで、上から白い布がすっぽりと掛けられてある。
一人の裸足の足先が出ていて、そのスラリとした細い親指には、『19』という番号のタグが、まるで荷物の分別のように付けられてある。
19…19は、那恵?
開は、急いでその上に掛かっている白い布の、頭の方をガバッとめくった。
「那恵!」
光一が叫ぶ。無理もない、自分達が人狼になって、一番最初に襲撃したのがこの、那恵だったのだ。開と英悟はその瞬間は、具合が悪すぎて寝込んでいたので見ていないが、光一は自分が噛んだのだから驚くだろう。
要が、閉まるドアの方に体を向けて、何でもないように顔だけこちらへ向けて言った。
「ああ。綺麗に襲撃してくれてたので、問題なく再生出来ましたよ。」
その言葉に、四人は一斉に那恵の首元を見た。
所々桜色になっている箇所はあるが、傷などどこにも見当たらない。
ほんの数日前のあれほどに深い傷が、これほどに見事に何もなかったように再生されることに、驚くより恐怖を感じた。
「…人狼でもないのに、これほど綺麗に傷がなくなるなんて。」
光一が呟くように言うと、要はさも可笑しそうにクックと笑った。
「人狼ならもっと早い。目の前で見る見る再生していくので、こちらが目を見張るほどです。特殊な薬なので、一般のヒトにももちろん、使うことは出来ますがあまりに高価になるので、今は公表していないのですよ。」
エレベーターは、上昇して行く。開は、誰にともなく言った。
「公表してない?もったいない…。」
エレベーターが止まる。要は顔をドアの方へ向けた。
「巨額になると分かっていても、自分の家族が死ぬか生きるかとなると、人は無理をします。後先など考えない。こちらは支払ってもらえればそれでいいのですが、その家族が助かった後、支払った家族は多額の負債を負うことになる。助かった本人は、家族に恨まれてしまうようになるかもしれない。それが、幸せだと言えますか?もっと治験を繰り返し、もっとコストが下がってから公表した方がいいのですよ。」と、開くドアに向けて足を進めながら続けた。「それに、この薬は万能ではありません。あらかじめ投与しておかないと、死んだ体が傷んで行くのを留めることは出来ないので、再生など不可能です。だから、普段から仕込んでおいて、いざという時自分で投与しないと間に合わないわけですよ。私達のようにね。」
要は、先にエレベーターから降りてこちらを振り返ると、腕を上げて一見普通の腕時計に見えるそれを、皆に示した。開は、自分の腕にまだ巻かれたままの、腕輪に視線を落とした。きっと、あの要の腕時計にも、この腕輪と同じようにどうにかしたら薬が投与されるような細工がしてあるのだろう。
光一が、眠っている那恵の胸が呼吸で上下しているのを確認してから、また白い布をかけ直して、エレベーターから出た。
「…だからと言って、この腕輪は不自然だ。見たところ、那恵にはこの腕輪がもう着いていなかった。オレ達は、いつこれが取れるんだ?」
ストレッチャーが先に通り過ぎて行く。要は歩きながら言った。
「さっきご説明した通り、今夜の投与が終わったら自動的に外れます。後は、勝手に回収しておきますからご心配なさらずに。」そうして先を歩きながら、屋敷の開達がゲームをしていた棟へと抜ける扉の前で、要は立ち止まった。そして、ポケットから普通の腕時計を出して、言った。「これは、腕輪が外れた後の保険だと思ってください。会社を辞めて研究所へ来る準備ができ次第、こちらからお迎えに行きます。壮介さんが通いになるので、土曜になるでしょう。それまでにもし、人狼になりそうになったら、時計の横のネジを引いて、押してください。それで、楽になるはずです。三回まで使えます。使用状況は、こちらでモニターしているので、頻繁に使うようなら早めにお迎えに行くので安心してください。」
時計を渡すと、もう踵を返そうとする要に、英悟は慌てて言った。
「待て、どうやって準備が出来たことを知らせるんだ?オレ達はそっちの連絡先も知らないのに。」
要は、もう一歩戻って行きながら答えた。
「慎一郎に連絡を。慎一郎の連絡先は、後で本人からされますから。」と、さっさと歩き出した。「では、また研究所で。ジョンも私も一足先に帰ります。後は、部下達が手配するので。」
そうして、出入りが激しいエレベーターではなく、階段の方へと向かって、消えて行った。
英悟と壮介、光一と開は顔を見合わせたが、慎一郎が元居た棟へと足を踏み入れながら苦笑した。
「さ、行こう。こんな所に居たら邪魔になる。連中は、無駄なことはしないんだ。用が終わったら、さっさと撤収。後は部下の仕事。オレは君達を連れて来た旅行会社の添乗員って位置付けだから、最後まで君達と一緒だから安心するといい。これからの事を、話しておこう。連絡先を教えるよ。キッチンへ行って、飯でも食おう。」
慎一郎に促され、いろいろなことが一度に起って一度に情報が入って来るせっかちな展開に混乱しながらも、開達は最早慣れ親しんだキッチンへと向かったのだった。




