今後
出て行く二人の背を見送ってから、光一が言った。
「大変なことになっちまった。まさか、こんなことになるなんて思ってもなかったよ…オレの人生で、一番面倒なことみたいだ。」
開が、もうあきらめた様子で言った。
「なってしまったからには、もうなるようにしかならないってオレは思いました。だから、研究所へ行こうって思ったんです。体に何かあっても、そこならみんなオレを知ってるんだから、おかしなことにはならないでしょう。あの要って人はオレ達が居る場所を下界って言ってましたけど、本当にそんな感じですよ。オレはもう死んで化け物になってしまって、あっちでは正体を隠して本当は居ちゃいけないのに生きてるふりをするような。」
英悟は、息をついて頷いた。
「確かにな。もう、マンションなんて意味がなくなった。まだ買って半年しか経ってないのにな。」
開は、驚いたように英悟を見た。
「え、でも英悟さんはあっちへ戻るんでしょう?マンションのローンは研究所が払ってくれるみたいじゃないですか。住宅手当って言ってましたよ。」
英悟は、苦笑して首を振った。
「いや、その後の話で気が変わった。どうせ一生住めるかどうかも分からないものに、金を払っていくなんておかしなことだ。さっさと売るよ。で、買った値段では売れないだろうから、その差額でも請求して払ってもらうさ。」
光一が、同情したように言った。
「さくらと、結婚するつもりで買ったんだろう。今度のことで、結婚も出来なくなったな。出来たとしても、子供が出来ないから相手にそれを打ち明ける必要があるだろうし。」
英悟は、それには笑って手を振った。心底おかしそうだ。
「ハッハ、いや、そのつもりだったんだがな。現にあのマンションは、さくらが探して来て、住みたいって駄々こねたから買ったんだよ。売ろうって思ったのは、そのせいでもある。」
開は、え、と身を乗り出した。
「どういうことですか?さくらは、大切なんでしょう。」
英悟は、長い溜息をついた。
「そうだと思ってた。あいつは、オレの理想の女なんだって。どんなことがあっても、お互いに信じて誰が敵になっても、自分達だけはお互いの味方でいようって、言っていたのはあいつだ。なのに、見たか?あいつはいとも簡単に、自分の命が惜しくてオレを裏切った。そしてそれが当然のように、オレに投票してオレを殺した。涙も見せずに。そんな女を、嫁にしようとか思うと思うか?」
それを聞いた三人は、顔を見合わせた。そして、開が言った。
「でも…あんな状況になるなんて普通じゃあり得ないし。普段ならそんなことはしないでしょう。それに、さくらはこんなことがあったことを、一切覚えてないと思うんですよ。あの連中なら、きっと完璧に記憶の書き換えとかしてしまうと思う。だから、英悟さんが普通にしてたら、きっと今まで通りに行くとは思いますけど。」
英悟は、クックと笑って首を何度も振った。
「無理だ。もう信じられないな。あんな女だったことが、結婚前に分かっただけでもラッキーだったと今は思ってるよ。だから、オレはマンションのローンが何とかなるなら、あいつの居る会社は辞めて、新しい人生を始めることに異存はない。開と同じように、会社を辞めて、研究所とやらに勤めることにする。」
開は、英悟の決心が硬いようだったので、もうそれ以上は反対せずに置こうと、黙って頷いた。すると、壮介が言った。
「オレは…まだ家から通勤してたし。両親になんて言って職を変えるかとか、考えると頭が痛い。やっと入った上場企業だったしな。二人共、かなり喜んでくれていて、仕事も落ち着いた今は、嫁をもらえとそればかりだったのに…」
続きは、尻切れトンボになった。確かに、ジョンが言っていた通りなら、結婚は出来ても子供は望めないだろう。壮介は、まだ28歳だった。だが、立場では光一達三十代半ば組と同じだったので、同期のように話をしていたので、老けて見えているだけだ。
光一は、顔を歪めた。
「お前はまだ28歳だもんな。オレは37だし、もう結婚も子供もやめとくかーっと思ってたところだったから、そうショックでもないんだが。それより、この能力があれば、世間でもかなり有利に渡り合えるなとは、こうなった当初から思ってはいたんだ。お前達よりオレは馴染んだのが早かったし、とっくに人狼だった慎一郎と一緒に、軽々襲撃にも出掛けて行くことが出来たじゃないか。意識もはっきりしていたし、頭がぼうっとすることもない。だから、お前達ほど悲壮感はないんだ。このまま放り出されても、オレは人前で変化してしまわない自信すらある。だが…どうしたものか。英悟や開みたいに、研究所にどっぷり浸かって今生きている社会を捨ててしまっていいのかとか考えてしまう。ジョンを見たか?要もそうだが、それよりジョンのあの、浮世離れした感じ、あれを見ても、研究所が一般的な社会ではないのではないかと想像出来るだろう。」
そう言われて、開も英悟も黙った。
すると、それまで黙って四人の話を聞いていた、慎一郎が控えめに口を挟んだ。
「確かに、研究所は一般社会とはかなり違う。」三人が慎一郎を見る。慎一郎は続けた。「とんでもなく頭のいい者達の集団だ。普段はこちらに合わせてくれるから、日本語しか話せなくても支障はないが、あいつらはほとんどが多言語を操るから、時に何を言っているのか、何が起こっているのか分からなくてイライラすることもある。今言っていたように、ジョンを筆頭に皆浮世離れしている…頭が良すぎて感覚が少しおかしいから、あいつらの常識で動いて居る場所なんだ。皆まで言わなくても察してしまう奴らだから、こっちは説明して欲しければそう言わなければ説明してくれない。大概がそんなことも分からないのか、と面倒そうな顔はするが、それでも説明はしてくれる。あいつらは、一般社会のことを、下界と呼ぶ。来てみたら分かるが、本当にそれがぴったりの言葉だ。」
開は、首を傾げた。
「…山の上とか?」
真面目な顔だ。慎一郎は、声を立てて笑った。
「ああ確かに山の上なんだが、その他の意味でもな。」
光一は、これ見よがしにため息をついて開を呆れたように見てから、慎一郎を見て、言った。
「慎一郎はどうしてるんだ?人狼にされて、恨んでないのか?」
慎一郎は、すぐに首を振った。
「恨むものか。オレは、人狼になりたいと思った。自分の細胞が適応すると知った時は心が躍った。そして、自ら志願して人狼になりたいばかりに人狼ゲームに参加した…オレの、前回のゲームのことだがな。オレは元々が、研究所の人間だ。ただの研究員だったが、今は検体として自分の体を研究している。これほど優秀な体はないぞ?ヒトがどれほどに劣っていたのか、オレはこの体になって実感している。今更元へなど戻されたくない。ヒトがどれほど脆いのか、それを研究していたオレには嫌になるほど分かるからな。」
光一は、目を丸くした。
「え、お前も研究員だって?あの研究所は、とんでもなく頭がいいやつらの集まりだって聞いてたが、その一員ってことか?!」
慎一郎は、肩をすくめた。
「オレだって、あそこへ行くまではそこそこ頭が良いんだと自負していたさ。だが、医師免許がなんだと今では思ってる。オレはそれを持ってるが、あそこにはそれを取れるのに取ってないヤツらがわんさか居るんだ。オレより遥かに頭がいいさ。オレは日本語の他に英語は話せるがドイツ語は聞き取れる程度。だがあそこでは三か国語など当たり前、使えない言語を探す方が難しいんじゃないかという奴らばかりなんだ。なんでもすぐに習得してしまう。そんな奴らばかりだ。オレは、自分が恥ずかしくなった…研究所で議論するのがつらかった。だが、人狼になってからはそれがなくなった。勘もよく働くし、何よりオレの頭脳は前以上によく働いてくれるんだ。だからオレは、子供を残せなくても人狼からヒトへと戻るつもりなんてないのさ。」
開は、それを茫然と聞いていた。医師免許を持つ慎一郎が劣等感を持つほどの、エリート頭脳集団。自分なんて、高校だってやっと行った中の上ぐらい、大学も何とか親に行くのを許された中の上の私立大学だった。
そんな想像も出来ないほど頭のいい奴らの中で、仕事して生きて行けるんだろうか。
開の暗くなった表情を見て、光一がそれを悟ったのか、それとも自分もそういう気持ちになったのか分からないが、言った。
「…だな。オレも、そんな中に入ってやって行けるのか不安だよ。猿でも見るような目で見られるんじゃないかって。」
しかし、慎一郎が首を振った。
「猿じゃない、狼だ。」何の冗談だと慎一郎を見ると、慎一郎は大真面目な顔だった。「研究所の奴らは、人狼のオレ達にはそれなりに敬意を払ってくれる。何しろ、オレ達は選ばれた細胞の持ち主なんだ。誰でも人狼になれるわけじゃない。それは、ジョンに聞いて知っているだろう?」
光一も開も、壮介も英悟も真剣な顔で頷いた。
「さっき言ってたな。」
慎一郎は、頷いた。
「そういうことなんだよ。あの薬に適応できる細胞を、生まれながらに持っている。ということに、みんな敬意を払ってくれるんだ。適応できるはずが出来ずに狂った奴だっているが、オレ達はこうして適応した。自分という存在に、誇りを持っていいんだよ。」
そういう考え方なのか。
開は、思った。だが、人狼になってしまった自分という存在を肯定しなければ、これからの人生がつらくなることも分かっていた。
なので、ただ黙って、慎一郎に頷いた。自分は人狼なのだ。誰もがなれるはずのない、人狼になったのだ。その細胞を持って生まれたことに、感謝しなければ…。




