生贄猫と岩山の竜
「というわけで、あたしが、生贄です、にゃ」
しゃらしゃらと小さな音が鳴る鈴をいくつも組み合わせた首飾りや腕飾り。いくつもの複雑な模様を組み合わせた刺繍で飾った布を幾重にも重ねた衣装。
まるで祭の舞姫のように着飾った猫人の娘は、そろそろと上目遣いに竜を見上げた。
いつもならぴんと立っているはずの耳はぺたりと伏せられたままだ。不安げにゆらゆらと揺れる尻尾も緊張でもこもこに膨らんでいるし、首の後ろから背中にかけての少し長めのたてがみも、もふっと立ち上がって……いや、逆立っている。
そうやって全身に怯えを漂わせ、ぷるぷる震えながら自分を見上げる猫人の娘を、竜は呆気に取られた顔でじっと見つめ返した。
自分の半分もない大きさの二本足の、猫と人を掛け合わせたような種族が自分の生贄にだって?
そんなこと、いつ要求したっけ?
さっぱりわけがわからず、竜はもう一度大きく首を捻る。
ふむ、と吐息を漏らす口の隙間から、ギザギザに生え揃った真っ白な牙と赤く長いトカゲのような舌がちらりと覗き、娘はさらに震え上がった。
シャリシャリと軽やかに鳴る鱗の音も、娘の怯えに拍車をかける。
「もう一度確認するけど、生贄だって?」
「はい、です、にゃ」
急に放たれた竜の声に、娘の震えはぷるぷるからガタガタに変わる。
膨らんでいた尻尾はシュッと細くなり、耳をこれ以上ないくらいにまで伏せて、さっきまで見上げていた青い目もぎゅうっと瞑ってしまう。
「そんなこと、言ったっけ?」
じっくりと、いくら考えてみても、やっぱりさっぱりわからない。
少なくとも自分はそんな要求なんてしていないはずだ。
なのにこれはどういうことなんだろう?
竜はやっぱり首を傾げてしまう。
「あの、それって、誰から聞いたの?」
「あ、え、だ、誰から、ですか、にゃ」
「実は心当たりがないんだよね。なんでそんなことになってるのかな?」
ゆっくりと首を下ろして、竜は娘の顔を覗き込んだ。
が、おそるおそる、薄ーく薄く開けた目のすぐ前にあった大きな竜の顔に、娘は「ひっ」と小さく声を上げて、そのまま固まってしまう。
「あ、ちょっと、どうしたの!」
とうとう緊張に耐えかねたのか、娘はいきなりぱたりと倒れてしまった。
* * *
「う――にゃ?」
うっすらと目を開けると、そこは影の降りたほんのりと暗い場所だった。
いつも皆で寝てる郷とは違って、ひんやりとした土と石の匂いがする。穴兎を捕まえようと、穴倉に頭を突っ込んだ時のような匂いだな……と、そこまで考えて、娘はパッと目を開けた。
さっきまで、自分は竜の前に生贄として立ってたのではなかったか。
「あ、起きた?」
「あ、にゃ、竜様」
「ここは僕の巣穴だよ。ねえ、お腹空かない? 鳥を焼こうと思うんだけど、どうもうまくできなくてさ。君、焼いてくれないかな?」
「鳥、ですか、にゃ」
娘がひくんとしゃっくりでもするように飛び起きると、竜は、にいっと笑うように目を細めて、「うん」と頷いた。
羽をむしってはらわたを抜いて、用意してあった香草やら塩やらを擦り込んで……いつも母の手伝いでそうしていたように下ごしらえをして、娘は鳥を焼いた。
竜が集めた薪に火をつけて、遠火で焦がさないように注意しながら、じっくりじっくりと炙る。
そのうち、うっすらと焦げ目のついた鳥からおいしそうな匂いが立ち昇り始め、たっぷりの脂がポタリポタリと滴り落ちてはじゅうっと音を上げる。
最初は竜様のご機嫌を損ねないよう、美味しく美味しく焼き上げなければと気が張っていたはずなのに、気づいたら目の前の鳥の焼き上がりに夢中になってしまっていた娘のお腹が、ぐうっと鳴った。
「にゃ!」
その、大きな音にハッと我に返った娘は、おそるおそる竜を窺い見る。
竜はすぐに娘の視線に気がついて、また、にいっと笑った。
「お腹すいたでしょう? 食べようよ」
「え、でも」
「食べて落ち着いたら、ちょっと話をしようか」
竜と鳥を交互に見比べて、とうとう娘の口の端からポタリと涎が落ちたところで、ようやく娘はこくりと頷いた。
* * *
「それじゃ、僕が“口寂しい”って言ったから、生贄って話になったの?」
竜が積み上げた果物とよく焼けた鳥を頬張って、娘はこくんと首肯する。
娘はニャイカと名乗り、竜はベンスヴェルクサーリルと名乗った。もっとも、竜の名前は長すぎてニャイカには覚えきれなかったため、「サーリルでいいよ」ということになったのだが。
「ええと、岩山の竜のサーリル様が、最近口寂しいから、誰か探しに行こうかなって言ってたって、ミーツェが聞いてきた、です、にゃ。
それで、お腹が空いた竜様がここを見つけたらみんな食べられちゃうって、郷で大騒ぎになって、くじ引きで生贄を決めようってことになったです、にゃ」
「口寂しいから探しにって――あ」
いつそんなことを、と考えて、サーリルはすぐに思い出した。
最近、この辺りを通る旅人がいなくなったせいで、なぞなぞ通せんぼ遊びができないのはつまらないなあ。口が寂しいなあ。
なんてぼやいていたことを。
まさか、それが伝言ゲームのように伝わって、こんな小さな猫人の娘が生贄に、なんてことになるなんて。
竜は緑がかった銅色の鱗を鳴らして小さく首を振り、しゅう、と、まるで溜息のように吐息を漏らす。
「たぶんね、誤解があると思うんだよ」
「誤解、ですか、にゃ」
誤解とはなんのことだろう、とニャイカは小さく首を捻り……それから、まさか竜様が食べたいのは自分のような肉の少ない小娘ではなかったのかと青くなる。だから、もっと太らせようと鳥を食べさせたのか。
若いほうが肉が柔らかいからと、くじ引きをしたのは若い十代の仔猫ばっかりだったのだが、それは間違いだったのか。
ニャイカがまたぷるぷると震えだす。
サーリルはしばし考えて、ぺたりと寝そべったままくいっと尻尾を伸ばした。その先でニャイカの背中をトントンと叩き、落ち着かせようとする。
それから、重ねた前脚の上にとすんと顎を乗せて、「あのね」ともう一度、しゅうっと息を吐く。
「生贄とか、いらないし。僕はこれでも紳士な竜のつもりだよ」
「紳士ですか、にゃ?」
「あ、もしかして、疑ってるね?」
竜はぐうっと首を伸ばして、ニャイカの顔を覗き込んだ。
にいっと笑うように目を細めて、口角を上げる。
「僕は、君たちみたいにお喋りできる相手を食べたりなんて、しないよ?」
「でも、でも、竜様は、この岩山の下を通る旅人になぞなぞを出して、答えられなかったら食べちゃうって」
「え?」
ぽかんと口を開けて唖然とするサーリルに、ニャイカは「あの、あの」と慌ててぱたぱたと耳を振った。
「だ、だから、この街道をみんなが使わなくなったんだって、聞きました、にゃ」
「ええ? 僕、食べたことなんてないんだけど」
サーリルがまた困り顔に戻り、ううむと唸る。
「あんまり暇だったから、通りかかった旅人に、なぞなぞ遊びを持ちかけただけなんだよ。でも、ただなぞなぞを出すだけじゃつまらないだろう? だから、答えられなかったら大事なものを置いてってね、って約束にしたんだ。
そういえば、子供を置いてこうとする旅人がいて困ったことが何度かあったなあ。さすがに生ものは受け取れないから、すぐ追いかけて返したけど」
「――にゃ! それですにゃ!」
ぴこんと耳と尻尾を立てて、ニャイカが飛び上がった。
「あたしが聞いた話だと、この道を通るには、竜様にひとり差し出さなきゃいけないってことになってますにゃ!」
「ええー? ちょっと待ってよ。僕、なぞなぞ持ちかけてるだけだよ? それに、生ものは今まで一度も受け取ってないし」
「なぞなぞは知らないけど、あたしが聞いたのはそういう話でしたにゃ。だから、みんな、この岩山には近づいちゃだめだって言ってたですにゃ」
「うそぉ……」
サーリルはがっくりと項垂れる。
ニャイカは、そんな彼のようすに「あれ?」と首を傾げ……。
「サーリル様は、もしかして、怖くない竜様……」
「悪い竜め! ニャイカを返せ!」
急に大きな声が響いた。
穴倉の中にわんわん響くよく知った声に、ニャイカはパッと振り向いた。
「にゃ、ミィミル!」
尻尾を限界まで膨らませ、身体中の毛をぼうぼうに逆立てた若い猫人ミィミルが、鼻息荒く弓を構えていた。
慌てて立ち上がるニャイカを認めて、ミィミルはにこっと笑う。
「ニャイカ、助けにきたぞ! 生贄なんて、俺は反対なんだ、にゃ! 悪い竜がいなくなればいいんだ、にゃ!」
きりきりと弓を引き絞るミィミルに、サーリルは大きく目を見開いた。
「悪い竜め、覚悟しろ!」
ミィミルは狙いを定めてつがえた矢を射った。
放たれた矢は竜の身体目掛けてひょうっと一直線に飛び……けれど竜の硬い鱗に当たってカツンと弾かれてしまう。
「あ、そんな……」
「ミィミル!」
たちまちミィミルの眉尻が下がる。
まさか、渾身の一矢が竜の鱗に通用しないなんて。
かくなる上は……。
腰の小剣を抜き放とうとするミィミルに、ニャイカが慌てて走り寄る。
「ミィミル、待って、待ってにゃ。サーリル様は悪い竜じゃないの、にゃ」
「ええと、改めて言うけど、やっぱり誤解があると思うんだよ。とりあえず、その弓も剣も危ないからしまって。それから、ちゃんと話し合おう?」
矢の当たったあたりの鱗を軽くペロリと舐めてから、サーリルは「ほんとに困ったなあ」と、水色の目を細めて呟いた。
* * *
「ええとね、僕は単に、お喋りしたりなぞなぞ遊びをしたりする相手がいなくてつまらないなあって言ってただけなんだ。
生贄をくれなんて言ったことは、一度もないよ」
並んでちょこんと座る猫人ふたりに向かって、サーリルはじっくりと噛んで含めるように説明した。
だから、すべては伝言のなせる誤解なのだと。
「僕は楽しくお喋りして、なぞなぞを出し合って遊んだりしたいだけだし、これまでだって一度もひとを食べたりなんてしたことないんだ。
僕が生贄欲しがってるとか、誰か差し出さなきゃここを通さないとか、そんなの僕自身もびっくりしてるくらいだよ」
「竜様が、お喋りしたがってるなんて、想像もしなかった、にゃ」
ミィミルはほんのりと耳を伏せて、しみじみと呟いた。
「いきなり矢を射かけてすまなかったですにゃ」
「うん、怪我はないし、誤解だったんだから、それはいいことにしよう。
でも、その代わり、お願いがあるんだ」
「お願い、ですかにゃ?」
ミィミルとニャイカはきょとんと顔を見合わせる。
竜のお願いって、いったいどんなことだろうか。
「僕を、ふたりの郷に案内してよ。
もう、こんな行き違いが起きないように、ちゃんと挨拶をしたいんだ。あとは、僕のお喋りやなぞなぞ遊びの相手もお願いしたいな」
「でも、サーリル様、なぞなぞに負けても、たいしたものは出せませんにゃ」
「そこは、まあ、例えば、僕のために鳥を獲ってきてくれるとか、鹿か何かを焼いてくれるとかでもいいんだけど……それじゃダメかな?
その代わりと言っちゃ変だけど、僕がいれば、郷を変なものが襲ってくることはないと思うし、僕が負けたら狩りのお手伝いもするよ」
ミィミルとニャイカは、ううんと唸りながらまた顔を見合わせた。
悪い取引ではないようにも思えるし、どうしたものか。
「よし、竜様を案内しよう!」
「ミィミル?」
「話のわかる竜様なら、きっとみんなも仲良くできるよ。それに、竜様が郷のみんなと仲良くなれば、心強いのは確かだにゃ!」
ミィミルの言葉に、サーリルはにいっと目を細めて頷いた。
ほんのりと口角を上げて、笑みのような表情になる。
「そうと決まったら、ふたりとも僕の背に乗って。郷まで一緒に行こう」
きらんと目を輝かせるふたりの猫人は、いそいそとサーリルの背によじ登った。竜の背に乗る機会なんて、これを逃したら次はないと言わんばかりだ。
その後、ミィミルとニャイカにより、郷を訪れたサーリルと猫人たちはすぐに打ち解けることができた。
最初こそ、恐ろしい竜の姿に郷の猫人たちはパニックを起こしかけたけれど、すぐにその背で手を振るニャイカとミィミルの姿に気が付いたのだ。
つとめて礼儀正しいサーリルの態度とニャイカとミィミルふたりのとりなしで、サーリルは別にひとを獲って食べたりする竜じゃないことを納得できた猫人たちは、ようやく胸を撫で下ろした。
単に話し相手となぞなぞ遊びの相手が欲しいだけだというサーリルに、真っ先に飛びついたのは好奇心の塊でもある仔猫たちだ。
少し困ったのは、サーリルの「お喋り」が、夫人たちの井戸端会議よりもずっとずっと長く続いてしまうことと、いいなぞなぞを思いついたサーリルが、誰彼かまわずなぞなぞ遊びを持ちかけずにいられないことだろうか。
だが、郷の仔猫たちに竜の背登りは一番人気の遊びだし、サーリルの「高度なドラゴンジョーク」さえやり過ごせば、彼はとても頼りになる隣人だ。
そんなわけで、今やサーリルと草原の猫人たちは大の仲良しだ。
郷の広場は、毎日サーリルがお喋りに興じる声や仔猫たちのはしゃぐ声が響いて、とても賑やかである。