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5.Innocent――無罪――

 自然が溢れていた。春は桜で薄紅に染まり、夏は緑で青く染まり、秋は紅葉で橙に染まり、冬は雪で白に染まった。


 キラはいつも其処にいた。いつもと同じ場所、いつもと同じ景色、いつもと同じ時間に其処にいて、自然を眺めることがとても好きだった。

 いつからか、季節の中に自分が溶け込んでいるように感じられた。


 近代化が進むこの国で、唯一沢山の自然を残しているのはこの街ガーデンだけだろう。この街でなければ人は生きていけないと、キラは常々思っていた。

 この街の人々はいつも緑に囲まれていて幸せそうだった。誰ひとりとして怒ることもない、平和な一日が穏やかに積み重なるように過ぎていく。石造りの建物が続き、蔦が絡まり味わいを出している柔らかい風景。人々は優しく笑い、思いやりが絶えない。罪を犯す者もいないほど、隣人を家族のように愛する人ばかりの街だ。その中でキラも育ち、生きていた。


 キラはお気に入りの場所で過ごすことが多かった。山裾に近い森の中に建つ教会の傍、花畑が広がる場所だ。風が通り、キラの頬を優しく撫でていく。静かで、それでいて森の生き物の息遣いが感じられる落ち着く場所だった。森といっても教会が近くにあるため両親も特段心配するようなことはない。


 ある日、キラはその場所で白い服を着た少女と出会った。長いふわふわとした金の髪を木の枝に絡ませて青い瞳に涙を一杯に溜めているが、可愛い少女だ。

 キラは黙って少女の髪を解いてやる。少女の髪は柔らかくて絡まりやすく、風が吹けば今までの苦労が水の泡になってしまうほどに(もつ)れやすかった。それでも懸命にキラは少女の髪を解き続け、やがて少女の髪は木の枝から離れた。少女が最初に言ったのは、礼ではなかった。


「優しいんだね」


 キラは照れて、いや、と笑う。少女も笑った。その愛らしい笑顔にキラは目を逸らせなかった。どんな大輪の花も敵わないような、咲くように笑う少女だとキラは思った。


「みんな、あたしの髪が絡まったら木の枝を切っちゃうの。あたしの髪は切っても痛くないけど、気はとっても痛いのに」


 少女は悲しそうに目を伏せた。白く小さな、それでいて柔らかそうな両手でふわふわの髪を撫でる。


「でも、君は枝を折ったりしなかった。どっちも傷つけないようにしてくれた。とっても嬉しかったよ、ありがとう」


 少女の笑顔が眩しくて、キラは知らず目を細めながらふと思った。

 この子は“天使”なのだろうと。


「名前? 留美依よ」


 キラが名を尋ねると少女はすぐに答えた。


「僕は煌だよ」


 キラも返して笑う。ルビィは青い瞳を輝かせてキラを見つめた。


「綺麗な目ね。あたしの名前みたいな、綺麗な赤」


 ルビィに言われ、キラは少し困ったように笑った。頬をポリポリと人差し指で掻く。言おうかどうしようか迷って、結局は思いを口にした。


「そう? 僕は血の色みたいであんまり好きじゃないんだけど……」


 家族の誰も赤い目を持たない。勿論、街の中にも赤い目をした人間はいない。不吉な前兆ではと言われたこともあったようだが、そんなことを気にしない両親がキラを慈しんで育んでくれていた。それでも悪気なく心無い言葉を漏らしてしまうことはある。そしてそれをキラが聞いてしまうこともある。


 ルビィはむうっと頬を膨らませる。そんなことないよ、と彼女は一生懸命に言った。


「誰かがそんなことを言ったの? もしも誰かがそんなこと言っても聞いちゃ駄目。赤は血の色だけじゃないもの」


 そう言ってルビィは赤い物を指折り数え始めた。唇を尖らせながら、あれやこれやと思い出しながら真剣な面持ちで挙げていく。


「リンゴでしょ、イチゴでしょ、トマトも赤いし、赤ピーマンも赤いでしょ。ニンジン……はどっちかっていうとオレンジだから……」


 その様子を見てキラは苦笑した。ルビィがキラをきょとんして見上げる。


「どうかしたの?」


 その純粋な質問に、キラも純粋に答えた。


「さっきから食べ物ばかりだね」


 ルビィは挙げた物をもう一度数え、あっと声をあげた。まるで新発見でもしたかのようにホントだ! と言うとキラを見て笑った。


「ほら、食べ物は赤い物が多いでしょ? 人間にとって食べるのは大切なことだから煌の目が赤いのも大切なことなんだよ」


 無理矢理こじつけただけのような理屈も、彼女が言えばそう思えた。キラは優しくルビィを見つめる。


「秋の紅葉はみんなを楽しませるための紅だし、血の色だって言っても生きてることの象徴だよ? どうして怖がるんだろうね」


 ルビィはくるくると踊り回る。また絡まるのではという懸念さえ忘れるほどに、白い服とふわふわの金の髪が風に乗って更に“天使”のようにキラには見えた。


「だから煌はその目に負けちゃ駄目よ? とっても綺麗な宝石みたいな赤い瞳。ルビーかな、ガーネットかな? 宝石にたとえるならどれだと思う?」


 碧い宝石の瞳がキラを捉え、閉じ込めた。キラはサファイアの海に呑み込まれ、紅い宝石の名を思い出す。そしてキラを閉じ込めた瞳を持つ少女の名を呟いた。


「ルビー……かな」


 きゃはっと声を挙げ、ルビィは両手をぱちんと叩いて合わせた。紅薔薇の唇がにっこりと笑う。


「やったぁ! やっぱり紅玉はルビーだよね!」


 碧玉も紅玉も持つ彼女はどれだけの美しさを独り占めしているのだろう。この世に二つと存在しないだろう美を、彼女は所持している。しかしそれ故につらい目に逢うこともあるかもしれない。

 キラは目の前で笑うルビィがいつか涙を流してしまうのではないかと心配になった。

 今はまだ平和だけれど、いつこの平和が崩れるかなど分からない。この街は針の上にようやく立っている幸せなのだから。どちらかに傾けば必ず――落ちる。


 キラはそっとルビィに手を伸ばした。ルビィはきょとんとしてキラの手を受け入れた。ふわふわの髪を撫でれば少しくすぐったそうにルビィは笑う。その笑顔の儚さもキラは知ってしまった。この細い首に手をかければすぐに消えてしまう。命が消えることはとても容易く、造作もないことに思えた。


「煌? どうしたの? 泣いてるの?」


 言われて初めてキラは自分が泣いていると知った。こんなにも無垢で純真なものに触れたからだろうか。キラは微かに頷く。


「僕らの幸せは沢山の犠牲の上に成り立っているんだと思ったからだよ。留美依はあまりに綺麗だから、いつかそのせいで傷つくんじゃないかと思ったら何だか悲しくなって」


 まだ幼いルビィにはよく解らなかったようだった。首を傾げて、それでも自分については多少知っているつもりだとキラの言葉の意味を理解しようとする。だからルビィはそっとキラを包むように抱きしめた。それはルビィの小さな躰ではできないことだが、ルビィもキラも、包みあるいは包まれたと感じるには十分すぎるほどの優しさだった。


「あたしは大丈夫よ。煌のように繊細じゃないもの。綺麗かもしれないけど、硝子細工のように壊れてしまわない自信がある」


 ルビィはキラの首に手を回して頬と頬を寄せた。


「煌はいつか全てに絶望してしまうような気がする。自分にできること以上のことをしようとして、それができなかった時に。他の人がしなかったことを代わりにしようと頑張りすぎてしまう気がする」


 つ、とルビィの頬にも涙が伝い、顎先からキラの頬に伝った。別の温かさに、キラは僅かに躰を強張らせる。


「あのね、自分にはできることしかできないの。今の煌にできることは、あたしのために笑うことよ」


 キラは小さく笑った。歳下の少女にそう言われては示しがつかない。そっと離れるルビィの青い瞳に、キラは対になる紅い瞳を向けた。涙に濡れたそれはとても美しく輝いてお互いを映し、ほとんど同時に優しく笑った。



* * * *



 長い年月が経った。楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去り、落ち葉の如く降り積もった。(まばた)きする()に一年が過ぎ二年が過ぎ、十年が過ぎた。

 ルビィは美しい娘になり、キラは風景写真家になった。キラの写す景色は一瞬にしかない美しさを切り取り、留めていた。


「時間は永遠に動き続ける。生きてるものは時間と共に美しくなり、段々と醜くなっていく……それさえも美しいと感じるけれど、人の生命のように、自然にも同じものは何ひとつとしてないんだよ」


 キラは桜の花を写しながら学校の制服姿のルビィに言った。ルビィはキラの瞳の紅と桜の花を見つめ、幻想的な世界にいるような不思議な感覚を覚えた。


「この桜もずっと前から此処にいて、幾度となく花を咲かせるけど、毎年同じ花は咲かない。この世界に生まれる命に同じものはないんだ」


 だから、とキラはルビーの瞳を細め、柔和に微笑する。


「僕はその一瞬を永遠にしたいんだよ」


 キラはそう言ってルビィを振り返った。微笑を浮かべたルビィがキラに寄り添った。


「あたしのことは“永遠”にしてくれないの?」


 碧い瞳が紅い瞳と交錯する。二人の心も交差し、キラは微苦笑した。それから愛おしげにルビィの髪を撫で、言った。


「留美依は僕の目が永遠にしてるよ。形にして目に見えるものじゃないと、不安?」


 困ったように言うキラにルビィはぶんぶんとかぶりを振る。


「ううん。でも、よく解んない。煌の目が永遠にしてるってどういう意味なの?」


 キラは恥ずかしそうに視線を逸らしてからふっと唇を上げ、優しく笑った。


「僕の目がカメラだってことだよ。僕がいつも留美依を永遠にしてる。カメラには留美依の一瞬が収まりきらないと思うから」


 言われたルビィも一瞬ポカンとしてから恥ずかしそうに笑った。紅薔薇の唇が嬉しそうに微笑み、頬を桜色に染め、碧い瞳でキラを見つめた。


「あたしが、煌の目に映ってるってこと?」


「うん」


「これからもずっと?」


「うん、ずっと」


「ホントに?」


「ホントだよ」


 そして、どちらからともなく、ごく自然で当然のことのように二人は唇を重ねた。それは永遠のような一瞬の時間だった。その後僅かに顔を離し、気恥ずかしそうに二人で笑ってそっとお互いを抱き寄せる。


「初めて留美依を見た時、“天使”だと思ったんだ」


 キラが静かに切り出した。桜の花びらがはらりと舞う。てんし? とルビィが聞き返す。


「とても純粋で、自分より自然を大切にしていて、誰かが傷つけば涙を流すくらい痛みに敏感な“天使”なんだって」


 ルビィはおどけたように言う。


「あたしが天使なら煌は精霊だね」


 キラは驚いて思わずルビィの方に視線を移すが、ルビィのふわふわとした金の髪しか見えなかった。ルビィはクスクスと笑った。


「いつも自然の中に溶け込んで、まるでその一部みたい。昔話に伝わる精霊は、元は自然で、たまに形を持って現れるんだって。それが、木霊(こだま)って呼ばれる精霊」


 ルビィはキラの紅い瞳を思い浮かべながら伝えた。降ってくる桜の花びらを受け取るように、キラの背から手を離して掌を上に向け、空へ両手を伸ばした。


「煌はまるで木霊みたいね。自然の中にいる時が一番幸せそう」


「留美依といる時も幸せだよ」


 ルビィは頬を更に染めて微笑する。掌に桜の花びらが舞い降りてきた。


 キラはルビィを抱き寄せる手に力を込め、金の髪に顔を埋める。この幸せがいつまでも続けば良いと願いながら。

 それからも沢山の時間をキラとルビィは過ごした。時には二人の写真も撮った。しかし、キラが望んだ幸せは長くは続かなかった。

 キラの手から、それまで大切に抱えていた全てが奪われてしまった。



* * * *



 目の前が紅蓮に染まる。それはかつてルビィの挙げたリンゴでもイチゴの色でもなく、死と恐怖の色だった。

 何が起こったのか分からずにキラは辺りを見回した。生まれ育った街が炎に包まれている。何故、こんなことになっているのか、キラには判らなかった。


 突然の轟音と震動だった。あちこちで火柱が上がり、煙が辺りを覆い尽くす。建物が崩れ巻き上げられた粉塵に人々の悲鳴が被さり、死の匂いが満ちた。まさに地獄絵図そのものだった。


 キラが呆然としていると、誰かがキラの手首を掴んで走り出した。キラは連れられるがままに走る。


「ほら、早く走って! あいつらから逃げなきゃ……っ!」


 その声の主はルビィだった。長いふわふわの髪が目の前を走っていく。白く儚い手が、いつしか離れる。キラは驚いて立ち止まってしまった。


 必死にルビィの名を呼ぶが、近くで銃撃音がしてキラは立ちすくんだ。


 こんな幸せな街が攻められれば、ひとたまりもない。平和すぎて犯罪などほとんど起きなかった。誰かが悪意を持って攻めてくることなど、考えもしなかった。どうして考えつかなかったのだろう。どうして此処を壊してしまおうというのか。


「そ、其処の若いの……婆を連れて行ってはくれぬか」


 キラは声をかけられ、視線を彷徨わせた。すぐ近くで老婆が腰を抜かして座り込み、手をブルブルと震わせながらキラを呼んでいる。キラは老婆を背負い、歩き始めた。しかし、何処へ行けば良いのだろうか。


「遂に、国軍が攻めてきおった……わしらはもう殺される運命なのかもしれん……」


 老婆はそう言ったきり口をつぐんだ。動かなくなり、一気に脱力する。バランスを保てず、キラの背からズルリと老婆は滑り落ち、地面にどさりと音を立てて転がった。


 キラは驚き慌てて老婆に屈みこんだが、老婆は既に息絶えていた。発砲された跡があり、傷口からは真っ赤な血が溢れていた。


「まだガキが残ってるぜ。珍しいな。赤い目をしてやがる」


 男の声がしてキラは顔を上げた。武装した屈強な男が銃を構えてこちらを狙っている。男は二人組なのか、もうひとり同じように武装した男がやや後ろで立っていた。


「殺すんだろう? そういう命令だし」


「ああ、()るさ」


 男が引き鉄に力を込めるのをキラは呆然と見ていた。何も考えられなかった。どう動いても確実に被弾するだろう。全く想定していない終焉だった。


 瞠目したキラに男は声をかける。


「ま、ゆっくり眠るんだな。此処の街の奴らは全員いるぜ。寂しくないだろ?」


 キラは怒りで目の前が真っ赤になった。炎の色とも、老婆の血とも違う、怒りの赤だった。だが向けられた冷たい銃口が真っ直ぐにキラを狙い定めていて、何もできなかった。


「じゃあな、少年」


 銃弾が飛び出してくるのをキラは黙って受け入れるしかなかった。それが胸を貫いても叫び声ひとつ挙げなかった。そうすることでしか、抵抗の意志を示せなかった。


 衝撃がひとつあり、後からじわりと痛みが広がった。躰が意志に関係なくゆっくりと倒れていく。立ち上る黒煙のせいで見えない空を仰ぎながらキラは地面にひっくり返った。


「いやあああー!!」


 背後から罪のない(Innocent)叫び声が、聞こえた気がした――。


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