雨
「あの時セルリアンが側にいてくれなかったらおれちんは…正直どうなっていたか分からない…」
止まない雨の中。
彼女の孫をそっと置いてからあるき出した。
歩く度にぐじゃぐじゃと鈍い音がした。泥にまみれて苦悶の表情を浮かべたまま息絶えた人間たち。
モノクロの景色が歪んでいく。
自分はどこに向い何をしようとしているのか?
見付からない答えを求めて歩き続けるしかできない。
もしかしたら歩を止めてしまうのがただ怖かっただけなのかもしれない。
現実と言うのはどうしてこんなにも残酷なのだろうか?
彼女の事が大好きだった。
誰よりも誰よりも一番大切だった。
どうしてこんな事になってしまったのだろう?
自分は彼女の側にいたかっただけなのに。
彼女と共に生きていたかっただけなのに。
………。
自分の願いが彼女の願いと全く同じ事に気付き、吐き気を覚えた。
それは……彼女が自分に掛けた残酷な願いと同じだ…。
違う。彼女と自分は違う。
自分はただ限られた時間でいいから一緒にいたかった。
彼女とは違う、本当にそう言えるだろうか?
もしかしたら自分だって彼女と同じように永遠の命を彼女に与えてしまったかもしれない。
時間と言う概念があるこの世界で永遠に二人で生きていく事はできない事が分かっていながら永遠を求めると言う矛盾。
分かる事と理解する事は違う。
もしかしたら彼女もその願いがこんな結果になる事、心のどこかでは分かっていたのかもしれない。
それでも彼女は自分と永遠に一緒に生きていく事を想像していたのかもしれない。
彼女のいない世界でそれを確かめる術はないが…。
「……ん、ん」
後方から僅かなうめき声が聞こえた。
僅かに聞き取れる小さな小さなうめき声。
彼女そっくりの小さな女の子が僅かに体を動かしたのだ。
全神経を嗅覚に集中させ元の場所へ戻る。
最初に自分の立っていたところ、自分が自我を失いかけたその血生臭い場所で聞こえる僅かな呼吸音、そしてこの匂いは彼女と同じ匂いだ!
まさか!この小さな人間の子供が…。まだ生きてる………?
必死で傷だらけの小さな手を伸ばし触れたモノを握り締めようとするが震える手では何も掴めない。
小さな子供は他の気配に気付いたのか目線を上にやり微かに開いている目で俺を見た。
瞬間、その子の頬がひきつるのが分かった。
二本足で立っている真っ赤な獣の姿を見れば誰だって畏怖の感情を露にし、『化け物』、そう叫ぶだろう。
それがこの世で一番強く愚かな人間のすべき動作だろう。
だが。
その子は違った。
激しく降り続ける雨の音に飲み込まれその子供の声は俺の耳に届かなかったが、唇の動きで分かった。
「…、…、…」
その子は俺の本当の名前を呼んだのだ。
愛しい愛しい彼女がつけてくれた俺の名前を。
その子は力を振り絞り俺に触れた。
「…、…、ごめんね、…。こんなに傷つけて…最後まで一緒にいてあげられなくて、ごめんね…」
ああ。
何て事だ…。
俺は…俺は…、何て事をしてしまったんだ!
その子の閉じいく瞳の中に彼女がいるのがはっきりと分かった。
彼女は俺を責める訳でもなくいつもの笑顔で見つめてくれていた。
う、う、うーーーわーーー。
俺は…一体…。
何て事を…。
こんな自分に最早生きる価値など無い…。
自分の爪で触れられるところ全てを切り刻んでいく。
またしても真っ赤な景色が辺り一面広がって行く。
切っても切っても痛みすら感じないのに、後味の悪い怒りや後悔が鮮血と共に溢れ出るだけだった。
どんなに血を流そうが自分は死ねない。
「もうよせ」
どれだけそうしていたのだろうか。
一人の女の声が俺の手を止めた。
「もう自分を傷付けるのはやめろ」
その女は真っ直ぐに俺を見て小さく首を縦に動かした。
とうの昔に雨は止んでいた。