切れた蜘蛛(1)
時苧がすい、と立ち上がった。風に揺れる草のような、自然なしぐさ。あまりに自然だった為、草太は何も不思議に思わなかった。
からり、と障子をあける。草太が振り返った。
「こはと?」
こはとが佇んでいた。呆然としているようだが、珍しく彼女は何も獣も連れていない。否。獣が勝手に彼女についてくるようにも見える。
「どうした、こはと?」
穏やかに時苧が尋ねる。ちらり、とこはとの全身を見遣る。
「あ……」
こはとは身動き出来ないようだった。
「何故ここにいる?」
おだやかな声は崩さないが、普通の者であれば、いや剛の者でも脚が竦むような気を発していた。
「わたし……、わたしは……」
おびえたようにこはとは視線を泳がせる。なにか、糸が切れたような、こはとの表情。
「糸が切れたか。ぬしは今、彼奴に切られたぞ」
時苧の言葉に、こはとと、草太、はたしてどちらの顔に衝撃が走ったのか。
「え」
何を言われたのか、わからなかったのか。こはとの瞳が、救いを求めて、草太を映す。
しかし、こはとの瞳に映ったのは、すでに立ち上がり、一頭の獰猛な獣のような、草太の瞳だった。
--こはとには、草太の、瞳の深い慟哭の色は果たして見えただろうか。
時苧が淡々と、悲しげにいう。
「ぬしらは、先の戦の折、わしが城下を回って集めた子らよ」
こはとも覚えていた。
焼け焦げた町の中で泣いていたのだ。頭領が彼女を見つけてくれて、涙を拭いてくれた。そして瘤瀬の里の子になった。
「ぬし、本当の名前を覚えておるか」
時苧が静かに、こはとに訊ねる。
「こはと、私はこはとです」
こはとは必死に言った。
「それはわしがぬしに与えた名前よ。ぬしだけよ。この里の者で、一つしか名をもたぬのは」
時苧はこはとの言葉を遮った。言い逃れを赦さない気迫で。
草太も普段は、小鷲という通り名である。真の名を明かさないのがこの里の掟であった。
「それも、お館さまの血筋をみつけさせない為よ」
その言葉に、こはとのなかで、わずかに気配が揺れた。しかし、時苧は気づかなかった。
「わからない……っ、私は……っ!!」
こはとは呻いた。
「親のことは覚えておるか」
時苧は重ねて訊ねた。こはとは首を振った。懸命に振った。そうすれば、全ての厄災が、夢と消えるとでもいうように。
「ぬしはあの時三つか四つ。一番ひどい処にいた童の記憶が曖昧であっても、誰も不審に思うまい」
時苧は痛ましげに呟いた。
「ぬしは、何も色がなさすぎたのよ」
記憶を喪っていても、くせ、は残るものだ。匂い、話し方、歩き方、暮らすやり方。
無論、親を殺された衝撃で、家を焼けだされた衝撃で、ましてや自分が襲われた衝撃で。記憶や、言葉、光を喪った者は多い。果ては現と夢の境がなくなってしまった者もいた。
こはとは思い出した。焼け野原にいる前の唯一の記憶。
『気配を消せ。諏和賀を探り出せ。』
気配を消せ。諏和賀を探り出せ。気配を消せ。諏和賀を探り出せ。気配を消せ。諏和賀を探り出せ。気配を消せ。諏和賀を探り出せ。気配を消せ。諏和賀を探り出せ。気配を消せ。諏和賀を探り出せ。気配を消せ。諏和賀を探り出せ。気配を消せ。諏和賀を探り出せ。
気配を消せ。諏和賀を探り出せ。
気配を消せ。諏和賀を探り出せ
気配を・・・・・・
繰り返される言葉と、目の前に広がる、闇夜よりも昏い瞳がこはとをぐるぐると取り巻く。それがこはとの世界の全てであった。こはとが、言葉と、瞳に押しつぶされる。
「いやあああああああああああっっ」
我知らず、こはたとは、のたうち回っていた。
いかなる暴虐が、その脳裏で行われていたものか。嗜虐性の思考の者なら、涙をとめどなく溢れ出させ涎を垂れ流し、胸を掻き毟るその姿に、艶めかしさや、興奮を覚えたかもしれぬ。
「あああああっっっ」
草太は微動だにせず、激しい怒りを眸にしながらも冷たい容貌で、こはとの背後の土雲を睨み付けていた。
涙に縁取られたこはとの瞳が草太の瞳を見、凍りついた。
コノヒトハアタシヲスキジャナインダ。
今や、お互いを敵と見出した恋人達を時苧は痛ましげにみつめがら。
「ぬしの事を土雲が放った間者である事はわかっていた。草太とも夫婦にさせてやりたいとも思うていた。だが、諏和賀に害なす者は生かしておけぬ」
鎮痛な声でこはとに、というより、草太に言い聞かせるかのように搾り出した。
「「……」」
草太とこはとの視線が合った。
二人の間に満ちた闘気が風を呼び、あちこちで衝突してはパシパシ、と軽い音が響く。
忍ぶでまず、徹頭徹尾学ばされるのは、”どんな姿になっても良いから生きて還る”事だ。事と次第を報告しおえて初めて、任務は全うする。その為、里に辿りついてから死ぬ者も多かった。
そこには、”肉を斬らせて骨を絶つ”という論理はあっても、”死ぬ気で挑む”や”相打ちに持ち込む”という考えはない。
『気力で負けている者が、優位の者に勝つ等、有り得ない』という教えのもと、格上の者と死闘を繰り広げさせられる。
草太はこはとが己より格下なのを知っている。そして恋人だった女だ。そこに、こはとにも勝機がある。糸の切れた蜘蛛はもう誰の管制下でもない。生き延びる為に、目の前の二人を殺すしか、ない。
と。葉が落ちた。
やがて殺意と凶気が交叉した。
否、草太と小はとの姿が、交叉したのだ。肉を絶つ音と。骨が砕ける音と。それは、一瞬のうちに交わった。
まるで、恋人同士の戯れあっているような動きであった。
りんりんりん。
何処かで鈴の音が鳴っている。
優しく、己をあやす声が聞こえる。
(母様……?)
あなたは、まだ生きていなかった。
わたしも生まれ出でていなかった。
りんりんりん。
愛おしげに私を見降ろしてくれる、母様。
ようやく、わたしはこのとき、孵ることが出来た。
あなたは孵ることが出来るかしら?
りんりんりん。
愛してくれた人との、突然の別離。
私は誰かの手によって、あの人から引き離された。
あなたは、わかっただろうか。
わたしを……、救うことが出来なかった虚しさを。
愛した者を喪う悲しみを。
りんりんりん。
気配を消せ。諏和賀を探り出せ。
気配を消せ。諏和賀を探り出せ
気配を・・・・・・
繰り返される言葉と、目の前に広がる、闇夜よりも昏い瞳。
それから。
わたしの世界は、あなた一色になった。
わたしのことを、あなたは本当に愛していた?
りんりんりん。
あなたの瞳のなかには、わたしがいたけれど。
けれど。
り……。
彼女の体は恋人に抱きとめられることもなく、地に崩れ落ちた。