縺れた縁(2)
父のもとにおはたを兄が連れてきた日。初めて、太郎一はおはたを見た。
大柄で、絖るように白く、不埒な男であれば、肉の柔らかさを抱いて確かめたくなるような、ふくよかな肌。吸い付きたくなるような、赤いぼったりとした唇。
蠱惑的、といっていい女。
だが、どうしようもなく、だらしのないものを感じさせる、躯つきであり、顔立ちの女であった。太郎一は兄に意見したことを思い出した。
「兄者、なぜ兄者があのような娘と?
誰でも構わず、寝床に引きずり込むという娘だというじゃないか」
それこそ兄を自分の室に割り当てられている部屋にひきずりこむようにして、問い糾したのだ。兄はなんと言ったのだったか。
あの闊達な兄が、いつも明瞭に答えを示してくれる兄が俯いたままだった。
あんな女に手を出した兄を軽蔑する気持ちがなくはなかったが、太郎一は、仮初めにでも、情を結んだ娘を切り捨てられない兄を、改めて好もしいとも思ったのだ。
次の日、父からおはたが身重だと聞かされて、仰け反ったのを覚えている。
「多分……。おはたはまんまと一郎太を手に入れて喜びで、小篠にみせつけた謀を口にだしてしもうたんじゃろう」
草太は想像した。
潔く父親になろうとしていた時に、妻になる女の口から、男を手に入れるために、謀を企んだと。
「おそらくは腹の中の赤子も、一郎太の子ではなかったんじゃろう」
おはたの刀傷は腹に集中していた。意識の上での凶行ではなかったと今となっては思いたいが、事実に耐え切れず、無に戻したかった顕れだったやもしれぬ。
「因果は廻るの」
時苧は嘆息して言った。
「?」
「おはたの母は、おもぎというてな、わしの最初の女房じゃった」
「!」
「わしが戦に出ている間に間男を作っておってな。
初めは惚れた女であったし、わしがおらぬ間、心細くも、肌が寂しくもあったろう。そう思うて、赦すことにした。
だが、戦乱の慌しさから、ようやく落ち着きを取り戻し、暫くのち、殿の所用で留守をしていた時にも、違う男を連れ込んでおった。それで、離縁した」
「……」
「おはたは、その後、おもぎが何処ぞの男との間に拵えたおなごよ。
わしは、その後、同じ戦で夫を亡くし、一郎太を抱えた女と夫婦になってな。その女が吉蛾の棟梁の娘であったから、おもぎは棟梁の座の為に自分は放り出されたのだと逆恨みしての。
『いずれ、ぬし様の大事なものを頂きにあがります』といって出て行きおった」
おもぎが言い捨てた、大事なものとは。今はもう、草太にも充分わかっていた。
「初めて引き合わされた時、おはたを一目見て、すぐわかったよ。おはたもにんまりと笑ってな、ぬけぬけと言いおった。
『おっか様の言いつけどおり、一郎太殿を貰い受けに参りました』とな。
恥を偲んで、わしは一郎太に全てを話した。わしの汚れを、お前が灌ぐ必要はないとな。じゃが、一郎太は言ってくれた。
『おはたのおっ母様は親父殿と別れてから苦労したようです。これも、縁でしょう。オレが幸せにしてやります』とのう」
時苧が息子の事を誇らしそうに呟いた。
「わしは一郎太を本当の倅と思うておったよ。婚儀の翌年、生まれた赤子に『太郎一』と名づけたのも、あまりに一郎太にそっくりでな、嬉しかったからよ。一郎太もわしに懐いてくれたし、太郎一を可愛がってくれてな。太郎一なんぞ、わしよりも一郎太の言うことを聞くんじゃからの。わしらは、うまくいっておったよ」
元々、子供好きであったのだろう。祖父は慈しみに満ちた目をしていた。
時苧が、瘤瀬の里の子供達に分け隔てなく接している事を草太は思った。
「おもぎの娘を押し付ける形になってしまったことは申し訳なく思ったが、そんな男に育ってくれた一郎太が誇らしくてな、夫婦になることを承諾したのよ。わしは2人の婚儀を終えたら、吉蛾の棟梁の座を一郎太に譲り、隠居しようと思うておったんじゃ」
そう語る時苧は、本当に嬉しそうであった。
2人はしばし、押し黙った。その幸せが、何故、毀れてしまったのか。
「おはたを切り殺した一郎太を見て、頭に血がのぼっての。
気づいたら、『貴様など、親でも、子でもない!』と一郎太に向かって吠えておったわ。
わしは、その時の。見捨てられた傷ついた獣のような一郎太の顔が、忘れられぬ」
時苧は辛そうにいった。
「無論、そんな謀にたばかられる奴が愚かじゃ。仲間を斬捨て、逃げ出した弱さも、わしが仕込み足らなんだ証よ。ただ、……哀れでの」
好きな女に疎まれる為に、情事を仕組まれた。
仕組まれたことだとわかっていても、身重になった女を棄てる事は出来なかった。
それなのに、すべてを棄てて得ようとしたものはまやかしの幸せですらなかった。
「わしはこっそり彼奴の行方を探した。瘤瀬に迎え入れようと思うてな」
時苧はいったん言葉を切った。
これから、言い出す自分の言葉を厭うているかのように。
「だが」
時苧は深い、昏い呻くような声をもらした。
「愚かにも、一郎太が土雲衆として、ここに攻め入るまで、気づかなんだ」
「!!」
半ばから想像していたが、やはり草太には衝撃だった。
時苧にもその衝撃は未だ癒えないらしく、食いしばった歯の間から言葉を続けた。
一郎太が出奔してから数か月後。諏和賀の家中の人間。もしくは吉賀の里の村人たちが惨殺される事件が起こり出した。
「吉蛾の衆がいくら網のように策を張り巡らしても、都度、巧妙にその網を抜けよる」
度重なる裏をかいた襲撃に、内通者がいるのではないかとの声が囁かれ始めた。
その手口、襲撃方法。吉蛾と同じ匂いがしていたのだ。
ある満月の晩、それは起こった。
襲撃してきた一団とまみえた武士の一人が、一郎太の顔を馬上に見出したのだ。
「おそらく一郎太は己を誇示する為にその武士を生かしておいたのじゃろう」
忍ぶ者は、姿を見た者を生かしては帰さない。鉄則の掟だ。そのような意図は、当然あったことだろう。
土雲の首領の素性が諏和賀にもたらされてより、更なる襲撃が諏和賀を襲った。
天候不順な年には、湖の堰を崩し、土砂崩れを起こすかと思えば、奥方と同い年の女だけ陵辱して屍体を晒しものにし、外から内から諏和賀を恐怖に陥れた。
「一郎太は執拗に奥方を付け狙った。なにゆえか、わからなんだが……。
命を狙うなら、わしなり、太郎一を狙うと思うんじゃがの。元々奥方も、吉蛾の出じゃ、女にしては胆力がある。そもそも、お館様が吉蛾に下がっておった奥方を見初められたのも、奥付きの女達の護衛として、小篠共々また城に上がられたときよ」
(伯父貴は。いや。一郎太は奥方様に惚れていたからか?)
草太と同じ事を祖父も考えていたのだろう。時苧が嘆息した。
「確かに奥方様は一郎太を選ぶのだろう、とわしらが考えていた事は確かじゃ。しかし、あやつは潔癖な男じゃったから。祝言前に奥方様といざこざはなかった筈じゃ。それにしても奥方様は、狙われていることを差し引いても病的に太郎一の影に怯えられてての」
ごくん、と白湯で喉を潤したのち、時苧は続けた。
「小篠には心当たりがあったのかもしれぬが、姉妹の絆は堅いの、太郎一にすら明かさなかった。
……あるいは数年にも及ぶ、太郎一の執拗な襲撃に心が病まれてしまったのかもしれぬ。
奥方のご寝所に一郎太の短刀がつきたっていたこともあったしの。
いつでも命は簡単に取れるのだぞ、との彼奴一流の脅しよ」
時苧はいったん言葉を切った。そして、口を再び開いた。
決然とした響き。もう先程のように、己を悔い、悄然とした響きはなかった。
「わしのゆえに、そこまでの闇に墜ちたのかもしれぬ。
しかし、闇に墜ちたは、彼奴の弱さよ。そのままにしてはおけぬ」
父は決意した。息子を今一度討つことを。
そして。
「いつか、取りかえしのつかぬことになるやもしれぬ……、と。若君がお生まれあそばされた時から、ぬしの弟を替え玉に仕立て、お館様のお許しを得て修羅に戻ることにし、この瘤瀬の里の者を忍ぶに育てることにしたのよ」
それこそが、諏和賀を知悉した男の、唯一知り得ないものだったのだ。