瘤瀬の里(1)
時が経ち、緑が瘤瀬に芽吹く。
だが、眼下に拡がる、かつて諏和賀の城下だった土地は荒涼として、草木も生えてはこない。烏が不吉にぎゃあぎゃあと鳴き、野犬が屯しているのみ。
風に晒された骸が転がり昼夜の別なく亡霊が出ると旅人が怯え、罪びとさえも、近寄られない、見捨てられた地。
瘤瀬は深い山のなかの僅か10家屋くらいの里ともいえない、群落だ。
その瘤瀬をさらに見下ろすような尾根の頂きに、若者と娘の姿があった。
「瘤瀬の里は、助かったとはいえない。もともとこの里は先代のお館さまが、棄てられた異形の者、死にかけた病人怪我人の、最後の安らぎの場として用意された里だ。
土雲たちの刃に晒されなかったのは、単に襲う価値すらなかったからだ」
若者が呟くように言った。
その年は20を越えた位か。顔立ちは端正ながら、精悍な面持ち。
細身であるが、野良着の上からでも均整のとれた、逞しさが窺いしれる。
「価値」
娘が言葉の意味を噛み締めるように呟く。
「里人のなかでも、達者な者は吉蛾衆の下で働いていたからな。小屋や田畑が残っていたとて、人がいなければ、滅びたと同じことだろう」
若者が無念そうに呟く。戦乱の折、若者はまだ10にもなってなかったのではあるまいか。
「オレ達は生き抜いぬいて、昔の緑豊かな、諏和賀の里をオレ達の手で取り戻すんだ」
若者が静かに、だが熱く語った。
「でも……。小鷲、どうやって?」
娘が尋ねる。穏やかななかにも、かすかな反発。
「ご領主様一族は皆様、討たれて亡くなられたし、土地はまだ塩が抜けない。私達、頭領に連れてきて貰って、この瘤瀬でずっと暮らしてきたわ。諏和賀を覚えてない者も多いし、忘れたいと思っている者も……」
口を噤んだ。娘と青年はこの問題になると、いつも言い合いになってしまう。
それでも。
「ここでひっそりと暮らしていきたいと思っている者も多いわ」
そう反論を唱える娘は17、18くらいか。戦乱のことすら、覚えていないかもしれない。
あるいは、覚えているにはあまりに凄惨な記憶で、思い出さないよう、封印をしてしまったのかもしれぬ。
言葉とおり、彼女の記憶が始まったのは、瘤瀬の里からだろう。
「だけど、やつらの目を怯えながら暮らしている今の暮らしは、やっぱり歪なものだ」
小鷲は強くかぶりをふる。
彼は既に幾度となく戦闘を経験してはいた。が、戦乱のなか目の前で肉親を殺された訳でもない。そして、自身の命も奪われる恐怖に怯えながら為す術もなく、焼け野原となった棲家を、異臭のたちこめる死体の中を、泣きながら彷徨った記憶はない。
蹂躙された記憶がない故、発する事の出来る、傲慢ともとれる言葉であった。
小鷲自身、同じ戦乱で、殆どの肉親を亡くしもしたが、皆とは違う心の創であった。
その違いに、小鷲は果たして気づいているのか。
小鷲は己が勝ち取るべき未来を見つめているあまり、隣の娘の透明な悲しさのこもった瞳に気づかなかった。
(みんな、あなたのように強くないの。あなたは戦うために生きている人。
でも、まだあなたは生まれてさえいない。今日から続くと無意識に思っていた明日を、いきなり切り取られた絶望を知りはしない。自分のどうしようもない無力さに、のたうちまわったことはない。愛した者を手の間からこぼしてしまった虚しさを、わかってはいない……)
彼女は言葉を飲み込んだ。
「今の瘤瀬はじい様が先の戦のおり、こはと、お前のように身寄りのなくなった子供を集めて、じい様が頭領となり、仕込んだ忍ぶ里さ。ある目的の為だけの」
「目的」
ひっそりと隣の男の言葉を繰り返して呟く、ぬばたまの髪の、ほっそりとした姿の娘。
木立のなかの白百合のように可憐な顔を半ば隠した娘の髪が、ふわ、と揺れた。
火傷の跡と、鳩のような愛くるしい黒い瞳が見えた。
娘のかたわらには蝶が舞っていた。いかなる技か、娘には獣はおろか、虫も懐く。
「そう。生きて、生きて、生き抜く術を身に付ける為のな!」
小鷲がひょいと、こはとを抱き上げる。
「きゃ!」
抱き上げられた腕の中から小鷲を見下ろすこはと。小鷲の瞳が、悪戯っ子のようにくるめいた。
「子供で諏和賀の里を一杯にするんだ!」
「……小鷲」
こはとが小鷲の頭を軽く叩こうとする。こはとも、嬉しそうに瞳を煌めかせた。
いつか。この娘と幸せになる。悲願と両立させてみせる。小鷲がこはとの瞳をみつめて請うた。
「オレの子供を産んでくれるか」
こはとを見上げた小鷲はいった。
「小鷲!」
こはとが小鷲の頭に抱きつきかけた。
と。
こはとをおろしざま、小鷲はひょい、ひょいっと石を投げた。
「わっ」
叢が、ざわめく。木の枝から落ちた者もいた。
「おっ前らあぁぁぁっ!」
小鷲が握りしめた拳を震えさせた。
見られていた恥ずかしさ半分、いい場面を邪魔された鬱憤半分といったところか。
「わあっ」
その場にいた者達が一斉に歓声をあげて、蜘蛛の子を散らしたように逃げ回る。躯のあちこちが欠けている者が多かったが、動きは軽快だ。よく見れば、火傷の跡が衣の中から覗いている者もいる。
みな、戦乱の折り、親とはぐれた子ども。
大きい者は小鷲や、こはと位の者から、小さいものは12、3歳くらいの者まで。
大人がほぼ殺され、その下の世代の子供はまだ生まれていない。
そのなかには。
「こら、待て、菜を!」
小鷲がこの悪戯の首謀者をその中にみつけ、捕まえようと手を伸ばした。逃げ損ね、ついに捉まった少女が、わざとらしい悲鳴をあげた。
「この山猿っ!来年16になるくせして、どーせコイツらをお前が唆したんだろうっっ!おまえも乗るんじゃないっ、疾風!」
一方の腕に菜をと捕らえたまま、更にもう一人、大柄な少年をも捕まえようとする。
小鷲が襟首を捕まえ羽交い絞めにした娘は、こはとより、一つ、二つ下か。
山猿と呼ばれた少女は、美しくなりそうな、だが、凛とした顔立ちをくしゃくしゃにして大声で騒ぎ、暴れていた。
隙をみて噛み付こうとしては、小鷲に阻まれている。
こはとの嫋やかな美しさとは違う、生命力溢れる生命そのものの美しさ。
「あーん、こはと姉者あっ、疾風兄者あっ 小鷲兄者が苛めるうう」
菜をは、戦法を変え、珍しく、甘え路線にいくことにしたようだ。気持ち悪いので、疾風と呼びかけられた少年の反応も冷たい。
「さらばだ、菜を。お前の尊い犠牲をオレ達は忘れはしない……」
小鷲の手を逃れた疾風は、高見の見物を決め込んだようだ。その言葉を聴いた途端、菜をは仮面をあっさりと捨てた。
「ひっどーい、疾風兄者っ!それが兄の言うことなの?!」
戒めからじたばたと逃れようとするが。
細身だが、鋼鉄のような腕に阻まれ、身動きもままならない、菜をであった。
「生死をかけた戦いの場で、兄も、妹もあるか。」
疾風の声が冷たく響く。
「うううー、えい、はなせ、このっ、このっっ兄者は、ここが弱いんだっ!」
菜をは、戦法を戻し、攻撃に転じた。小鷲の脇をくすぐりに入る。
「おとなしく成敗されろ、この山猿!!」
そうはさせじと、小鷲が菜をの頭にぐりごりと拳を入れる。
じゃれている小鷲と菜をを微笑んで見守っているこはと。
だが、そっと、顔に髪を垂らした。