エピローグ 彼らがのこしたもの
「本当に…彼らは幸せだったんだろうか。…いや、幸せだったんだろうな。疑いようもなく。きっと」
細く、吐息と同等とも感じる声で霧島は呟いた。隣に座る久瀬はこちらに目を向けない。人がいい、やさしくてわかりやすいこいつがなぜ刑事なんて言う職業をできているか。それは、たぶんこいつが何にも影響されないからだ。
「まあ、たぶん。手記を読む限り、それを後悔した感じも、哀しんだ感じもしなかったですし。幸せ、だったんじゃないですかね。もっとも、人の幸せなんて言うのはその人の主観であって、他人である僕らがわかるものじゃあない。僕らにできるのは、せいぜいその気持ちを想像して、可能な限り寄り添うだけでしょう?」
久瀬は、ぴったりと前を見つめたまま朗々とした声で言った。この男は、自分が自分以外になれないのを知っている。どんなに凄惨な現場を見ようとも、被害者に、加害者にどんな過去があろうとも、おのれの価値観と法と、正義をもって判断することができる。寄り添いはするけれど、共感はするけれど、決して自分と同一視はしない。そういう、男だ。
「…情けない上司だと、思うか。こんなことで」
わからなくなるなんて。そうつぶやいた声は先ほどよりもさらにかすれていて、少しでも物音がしたならば聞き取れなかったことだろう。しかし、ここは警察署内でも奥まったところにある、普段何もなれば人のほとんど入り込まない過去の事件の調書が置かれた資料室だ。
備え付けられパイプ椅子に腰を下ろして、ぼんやりと青いファイルの背を眺めながら発せられた声は、何に遮られるでもない。
「いいえ」
久瀬の声は存外はっきりと返された。静かな部屋に、久瀬の声だけが滲み、消えてゆく。
「先輩は…霧島警部補は、やさしいんでしょう。やさしいから、残された思いをそのまま拾い上げてしまう。ぼくは他人の幸せが何なのかそこまで深く考えてあげることはできません。ぼくはぼくで、ぼく以外の人間は総じて他人だ。ぼくにはぼくの感じる幸せしかわからないし、それでいいと思ってます。けど、先輩は違う。先輩はほかの人の幸せを自分のことのように受け止めて、ほかの人の痛みを自分のことのように受け入れてしまう。それで笑って、それで泣くことができる。先輩がいま苦しいのは、きっと、そういうことですよ」
久瀬の声には、哀れみも嘲笑も交じってはいなかった。まっすぐで、分かりやすい男だ。本当に、単純に、思ったことを口にしているのだろう。
「お前は…強いよな。そういうところ」
「そんなことないですよー。…臆病なだけですって。誰かに同調して、自分との違いを見つけて傷つくのが嫌なだけです」
苦笑する声は誠実だ。
「…霧島先輩は、霧島先輩ですよ。ほかの誰でもなく、霧島涼という人間です。あなたが考え、何を受け取り、何を拒絶するのかは、僕にはわかりません。それはほかの人でも同じことで、みんな、それぞれ、自分の生きたいように生きてる。だから…いいんじゃないですかね」
ようやっとこちらを向いた久瀬は、いつもの顔でへらりと笑った。
「何か一つだけ信じて、ただそれだけを貫いてあるくのも、いろんなことやモノに触れて迷いながら歩くのも、立ち止まって考えるのも。それが人生って、やつでしょう?」
なんて、かっこつけすぎましたね。そういいながら久瀬は照れたように頬をさする。
「…迷っても、いいんだろうか」
「いいと思いますよ、僕は」
随分と情けない声で吐き出した声に、穏やかな久瀬の声が返ってくる。
分からない。何が正しいのか。幸せなのか。好意とは、愛とは、どのようなものなのか。
あれを愛と称するには、自分が人生で見てきたものは、未熟すぎる気がして。けれどそう、許されるのなら。何が大切で、何を大切にしたいのか、悩んでもいいのなら。
「…ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
この話の終わり




