第五章 酸の海に沈む
幸せだ、そう思った。満たされた腹、彼女が「ぼく」になっていく感覚に僕はそっと目を閉じる。今、彼女は僕の血となって体を巡っている。肉となって体を支えている。魂となって、寄り添ってくれている。そう感じるごとに高まる鼓動と、泣きそうなほどの幸福感に僕は彼女の詰まった腹を撫でる。
「ごちそうさま…今日も、おいしかった。」
誰に聞かせるでもなくそうつぶやく。
満たされている。体も、心も、自分のすべてが、彼女と一つになって、彼女で構成される。どんなに幸せなことか。僕以外の人間は分からないし、知らないのだろう。
1ヶ月…正確には、29日前まで、その容量いっぱいに彼女が詰まっていた冷凍庫をうっとりとした眼で眺める。その中に納まっていた彼女は、手を食らい、足を食らい、胸を、腹を、眼球を、内臓を、その体の肉という肉を食らい尽くし、血を啜り、髄を啜り、骨を砕いて焼き、粉にして飲み、残っているのはきれいにした頭蓋だけだ。髪のひとすじ、爪のひとかけらさえも残ってはいない。彼女の体のうち、唯一残しておいた頭蓋は、一人用には大きい食卓机の上、がらんどうの眼窩にこちらを向かせておかれている。
この世界でたった一回だけの、この世で最もおいしい食事だ。彼女―――香織にも、参加してもらわなければ。
何も知らない人間が、もし僕の食事風景を見ていたとしたら、こんなにも滑稽で、恐ろしいものはほかにないとでもいうだろう。柔らかな暖色の明かりの下、テーブルには豪華な食事と人間の頭蓋。それらを前によだれを垂らして恍惚とした表情を浮かべている男。ああ、なんと、悍ましいことだろう。恐ろしく、滑稽で…魅惑的だ。退廃の美、と芸術家肌の人間なら称するかもしれない。
けれど、僕にとっては何ともないこと、だ。
さて、準備をしなくては。明日の朝、僕は、彼女と溶ける。一つになる。彼女が好きだといった日の出を見ながら。この身を酸に溶かして、彼女の頭蓋を抱いて、逝くのだ。ああ、どんなに甘美なことだろう、幸福なことだろう。他の人間は味わうことがないだろう、最上の幸福。悦び。それをもうすぐ、手に入れる。
山の端から、日が昇る。清々しい空気。抱いた彼女の頭蓋をさらりとなでる。そこに、あの柔らかな黒い髪はない。食べてしまったから。
けれど、いいのだ。もう、かまわないのだ。だって、彼女は僕になったから。僕のなかにいるから。
だから…いいのだ。
そうして僕はうっそりと笑む。
「ほら、香織。日が昇ってきた。…きれいだなあ。君とみているから、余計に。…はは、ちょっと気障だったかな。ね、香織」
するりとその頭頂部に唇を寄せる。
「ずっとね、生まれてこなきゃよかったんじゃないかって、思ってたんだ。けれど、君に恋をして、君を愛して、君を腹に収めて、やっと生まれてきてよかったと…心から、そう、思ったよ。香織、君は…」
目を閉じると、彼女の笑顔がそこにある。幸せだった?そう、問いかけると彼女はほほを染めて、まるで花のように笑って―――。
「…うん。今日も、君を愛してる。来ない明日も明後日も―――死んでも、君が好きだよ。ずっと、ずっと」
香織の唇があった場所にそっと口づけを落とす。
そうして僕は、酸の海に沈む。
焼けるような痛みが、ふっと軽くなった瞬間、僕は消えゆく自分の命に確かな安堵と、幸福を覚えていた。ああ、きっと、香織も―――
誰も知らない、僕らの愛




