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酸の海に沈む  作者: 飛鳥
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第四章 彼の見たもの

霧島涼は、彼の手記を開いていた。宮本が唯一、それも意図的にこの世に残したもの。

いくつものメモを寄せ集めるような形で記されたそれは、煮詰めた感情のはけ口として利用されていたようで、日付も書かれていない。年季の入った焦茶色の表紙と擦り切れた紙。

使い込まれたそれは、宮本の高校時分から書き続けられている。

ただ白い紙面に書きなぐられたそれをそっと目で追う。

それは、狂気と、懊悩と、何かで書かれていた。


・・・


見つけた。見つけてしまった。だれも好きにならないように気を付けていたのに。

運命の人だ、きっと。

でもこれ以上近づいてはいけない。

知られてはいけない。


彼女は一人でいる僕に頻繁に話しかけてくる。無碍にはできない。

それこそ怪しまれてしまうし、ややこしくなるだろう。

実のところ、自分でもどうすればいいのかわからないでいる。

可能ならば、彼女を見ないのが一番いい。

けれど、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。


今日は花の話をした。昨日は好きな本の話を。その前は勉強の話を。

どんどん僕の内側に踏み込んでくる。

これ以上踏み込ませては行けない。彼女のためにも。

けれど、彼女との会話はとても楽しい。

胸の内側がなにか温かいもので満たされるのを感じる。

好きだ。彼女が。


今日も彼女と他愛もない話をした。

日に日に彼女との距離が近くなってゆく。けれど彼女と結ばれることはないだろう。

だから、もう、近寄らないでほしい。

彼女の柔らかそうな腕や、桜色の唇や、柔らかい色の瞳や、真白な首を見るたび、抗いがたい衝動に駆られるのだ。

喉が鳴る。腹が胃液を分泌し始める。

「おいしそうだ」と、本能が牙をむく。

彼女に言えるわけがない。

僕は、君のことを食事的な意味で、おいしそうだと思っているだなんてこと。


僕は昔から”そう”だった。食欲と、好意が結びついてしまっている。

幼いころ、物心ついた時にはすでに、ヒトを「食べ物」として見るようになっていた。

記憶にある中で一番古い、母さんが僕の頭をふわりと撫でるのでさえ、思ったことはあのしろく細い腕はどうしたら食べられるだろうかということだった。

幼稚園のころ。

仲良くしていた女の子の二の腕に噛り付いたことがある。

その頃は自分の思っていることが、感じているものが、他人と同じだと信じて疑っていなかったから、こっぴどく怒られてもそれがどうしてなのかさっぱりわからなかった。

ただ漠然と、他人に噛り付いてはいけないのか、と思っただけだ。

小学校の時。

同じクラスの女子に告白され、僕はそれをOKした。やわらかくて、おいしそうだったから。

ませた子供たちのお遊びは、しかし2日で終了した。

噛り付かれた腕の歯形と、泣き叫ぶ女子にちょっとした騒ぎになったからだ。

向けられる奇異の眼差しと、女子の両親の罵倒に、ようやっと僕は理解したのだ。

ヒトを食べてはいけない。

普通の人間は、人間を見て食欲を覚えない。

自分で自分が異常であることに気が付いた事件だった。


それから、僕は自分が普通の人間ではないことを意識して過ごすようになった。

うまく隠せていたと思う。母さんに習い事をしたいといって、放課後に予定を詰めた。休み時間は予習復習。勉強を教えてほしいといわれて何度か教えたこともあったけれど、でもどうしても鉛筆を持つその指が気になってしまって、結局ほとんど断った。そして本を読むことを覚えた。本を読んでいればみんな気を使って話しかけてこない。話しかけてきても、よほど大事なことでない限りは集中しているふりをして無視をした。


そうやって生きてきた。いきてきた、はずだった。


無視すればよかったんだ、彼女のことなんて。


たのしい。人と話すのは。彼女と話すうちに、同じクラスの男子生徒が寄ってくるようになった。相沢、というらしい。気さくで、こちらが難のある対応をしているのにも関わらず、よく話しかけてくる。明るくて、たのしくて、いいやつ、なんだと思う。


相沢穣は、多分、いいやつだ。彼女と同じでお人好しで、僕のようなのを放っておけない、正義感のあるタイプ。まっとうで、まっすぐで、僕にないものを持っている人間。

見ていたくない。うらやましい。けれど、彼女は相沢に気を許しているようだし、彼女が軽やかに笑う声は聴いていて心地がいい。僕は、彼女を笑わせることはできない。羨ましい。妬ましい。とられたく、ない。


このところ、乾いている。胃が重いし、苦しい。彼女を不躾に眺めながら、考えるのはその“味”のことばかりだ。細い手首に噛り付いて味見をしてみたい。腱が集まっている場所だからさぞかし歯ごたえがあって、比較的浅いところに太い血管があるから食いちぎれば赤い血が滴って、彼女の血は、さぞかし、あまいの、だろう。

おなかが、すいた。彼女をたべられたら、胃に収められたら、彼女を貰えたら、どんなにか。


彼女が、お弁当を作ってくれた。いつも学食のパンばかり食べているから、心配だといって。相沢に冷やかされながら、屋上に行って三人で食べた。少し風が強くて、食べにくかったけれど。アスパラの豚肉まき、たまごやき、ブロッコリーと人参の胡麻ドレッシングあえ、プチトマト。いつも詰め込むだけの食事が、彼女が用意したというだけでこんなにも温かい。

心から美味しい、と思った。


僕は味覚が鈍い、らしい。何を食べても、ほとんど味を感じない。それが普通のことだと自分では思っていたし、食事をとるときの他の人間の反応を見てなんとなく、自分はおかしいのだろうと思うくらいだ。それでも、彼女の作ったものは、おいしい。


ふと、普通だと、思った。朝起きて、顔を洗って、服を着替えて、登校して、彼女におはようを言って、おはようを返されて、相沢におはようを言って、おはようを返されて。授業を受けて、休み時間には三人で雑談をして、お昼には一緒に食事をとって、帰り支度をして、三人で街を歩く。分かれ道で相沢と別れてまた明日、を言って、また明日、を貰って、彼女を送っていって、また明日を言って、また明日、を、貰って。まるで自分が、普通の人間になった気分だ。

これで、本当に、ぼくが普通だったら、どんなによかったか。


彼女と二人で夏祭りに行くことになった。相沢は家の用事があるとかで来られないらしい。

気を使われたのかもしれない。最近、というよりもずっと前から、気づいてはいる。多分、あいつは、彼女が好きだ。僕に近づいたのも、きっと、彼女と話すきっかけがほしかったから。けれど、相沢は彼女に似てお人好しだから、かかわるうちに僕に愛着でもわいてしまったのだ。

まったく、ふたりとも、やさしくて、あたたかくて、かわいそうな人だと思う。

僕なんかにかける情なんて、捨ててしまえばいいのに。


・・・


文字を追う指を止め、無意識にひそめていた息を吐き出す。誰もいない、がらんどうの捜査本部に一人座る自分の耳に入ってくるのは、紙をめくる音、手袋をはめた指で文字を追う微かな擦過音、心音、時折思い出したように吸ういきの音。それだけだ。手帳を開いたまま机に下ろし、目を閉じて思索する。

手帳の、ほとんどの部分に五十嵐香織の名前は出てこない。ただ、神経質そうな、細く角ばった字で彼女、と書かれているだけだ。まるで、名前を書くことさえおこがましいとでもいうように。どれだけ荒れた字で書かれたところでも、彼女、という言葉、そして五十嵐香織の名前だけは、丁寧に、まるで名前そのものが宝物であるかのように、書かれていた。

いつくしむ様に、尊ぶように、かなしむように、崇拝するように。大切だ、という思いを、いかほどに詰め込めばこのような書き方ができるのかと思うほど、そこに綴られた文字からはある種の妄執を感じる。


それは―――たしかに、ひとつの、愛だろう。


重くなる胸を無視するように、得体のしれない何かにつかまるような感覚を振り払うように、軽く頭を振る。疲れをごまかすために数度深呼吸をすると、少しだけ頭の中がクリアになった気がした。

再びそっと手帳を持ち直す。

読まなければ。

先ほどまでとは違って震える文字が続く紙面に、再び指を添わせ始める。


・・・


どうしよう


そうだ、忘れていた。食べたら、なくなってしまうのだ。

そんなにすぐ食べたらもったいないよ、食べたらなくなっちゃうんだから、なんて。

彼女が、言うから。


たべたくない。たべたら、なくなってしまう。

いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ いやだ 


いやだ、いなく、ならないで


こわい。初めて、だ。自分がこんなに怖くなったのは。化け物、気持ち悪い、そんなことを言われても、どこか他人事だと思っていた。だって、どうすることもできない。ぼくは、僕、だ。味覚がほとんどないのも、人の肉がおいしそうに見えることも、人の血肉の味だけがはっきりわかることも、ぼくにとって、当たり前で、おかしいことなんて一つもないと思っていた。恐ろしくなんてなかった、おかしくなんてなかった、だって、僕は、ぼくしかいない。ほかがどれだけ違っても、そんなことは関係ないと思っていた。そう、思っていたのに。いま、僕は、ぼくが怖い。人が、人を食べるということ。僕が、彼女をおいしそうだと思うこと。食べたいと思うこと。

それが、こんなにも、恐ろしいことだったなんて、知らなかったんだ。

僕は、彼女が好きだ。すきで、すきで、食べてしまいたい、し、彼女を、彼女のすべてをぼくのものにできたらと思う。彼女の気持ちを貰って、彼女の体を貰って、彼女を、ぼくのすべてで感じてみたい。歯で、舌で、彼女をあいして、食道で、胃で、彼女をかんじて、腸で、細胞で、体のすべてで―――彼女が、ほしい。

けれど、そう、彼女を、食べてしまったら、彼女はなくなってしまうのだ。いなくなってしまうのだ。二度と僕の声に答えてくれることはなく、二度と僕に料理を作ってくれることはなく、二度と僕に、あの、花の咲いたような、笑顔をくれることはないのだ。

それがどんなに恐ろしく、どんなに哀しいことか。解りたくないし、一生分かりたくなんてない。

苦しい。やはり、かかわるべきじゃなかったんだ。彼女に一目ぼれをしたあの日から、徹底的に無視をして、気づ付けて、近寄らせなければよかったんだ。そうすれば苦しまなくてよかったのに。そうすれば、彼女だって、僕にこんな思いを、向けられずに、済んだのに。


月曜日。どうしても、彼女の顔を見ることができなくて、結果、彼女を突き放すような物言いをしてしまった。彼女はでも、一瞬悲しそうに笑って、それだけだった。咎められることもなくて、只いつも通りに話しかけてくる。そのくせ、気まずくなって僕が謝ると、あからさまにほっとした様子で、僕を許す。

傷ついたくせに、怒りも、悲しみもしないで、ただ困った顔をする。

彼女は、やさしい。やさしくて、そして…臆病なのだと、思う。一度懐に入れた人間に嫌われるのを、恐れている、気がする。気がするだけだけれど。ああ、どうしよう。惚れた弱みだろうか。そんなところも、かわいくて仕方がない。

結局、僕が謝ったことで僕の態度のことはうやむやになってしまった。

流されている自覚は、ある。けれど、今の平穏を破ってまで、彼女に嫌われてしまいたくはなかった。


どうしよう、どうしようもなく、彼女が、好きだ。けれど、きっと我慢などできない。彼女に思いを告げたら、彼女がそれに答えてくれたら。僕は、彼女を胃に収めてしまう。今でさえ、こんなにも求めているのに。食べたい。一つになりたい。けれど、彼女は一人しかいない。代わりなどいない。食べたらいなくなってしまう。なくなってしまう。どうしたらいいんだろう。


もうすぐ、冬だ。冬が終われば、春。春には、卒業してしまう。僕も、相沢も、彼女も。決めなくちゃいけない。考えなくてはいけない。彼女に対するこの気持ちを、どう、すべきなのか。


彼女は、卒業後大学へ進むらしい。相沢は就職しようと思っていることを教えてくれた。彼女は僕なら、成績がいいし頭がいいから、推薦で入学して特待生になれると思うよ、と言ってくれた。けれど、僕は大学に行くつもりはなかった。学費はそれで済んでも、住むところや食べるもの、何かにつけてお金はかかる。家から通える範囲にすればいいのだろうが…これ以上、家には、いたくなかった。


うちは、母と僕の、母子家庭だ。…僕のことで、僕が幼いころに、離婚したらしい。おぼろげに覚えている父の姿は、いつか見た汚いものを見るかのような目で僕を見下ろして「ばけものめ、」と言った姿だけだ。母は…僕のせいで、気を病んで、僕に気を遣うようになり、僕におびえるようになり、そして、僕を嫌悪するようになっていった。

そうやって、今では、口もきかない。自分が殺したと思われるのは嫌なようで、そして自分が殺されるのも嫌なようで、家に帰ってもほとんどいない。いたとしても目も合わせないし話しもしない。机の上に置かれている、千円札だけが母が僕を認識している証拠だった。


進路希望には就職、と書いてある。相沢が、受けるところ決まってないのなら同じところを受けよう、と言ってきたので適当に返事をしたら小突かれた。最近、特に容赦がない気がする。僕としては、どうでもいいのだ。バイトでも、何でもいいから働いて給料をもらって。家から出られればそれでいい。

そんなことよりも、彼女と会えなくなってしまうことの方が問題だ。

言ってしまおうか。君のことが、好き、なのだと。こうして紙に思いを吐き出すだけで泣いてしまいそうなほどに苦しくなるのだと。それくらい君を愛していると。

けれど、それだけでは終われない。僕は、君を、ごちそうを目にした時と同じように―――比喩ではなく、おいしそうだと、思っていると。

もし、嫌われてしまったら。けれど、その方がいいのかも知れない。嫌われて、遠ざけられれば、彼女がなくなることなど、ないのだから。


結局、言えないままに年を越し、冬休みが終わり、三学期が始まった。就職は、相沢と受けに行ったところに内定をもらったので、そこにした。面接でしつこく本当にここでいいのか、と聞かれたのが鬱陶しかったが、働けるならどこでもいい。それに、ストーカーでは、ない、が、彼女の第一志望の大学に近いのも、理由だ。

バカみたいだと思う。まだ、自分の気持ちを、彼女に言えてもいないのに。


…言って、しまった。君が、好きだと。

久々に二人きりで、帰る道に浮かれてしまっていたのかもしれない。

言って、しまった。

君が、好きだと。けれど、君を、おいしそうだとも思っている、と。

彼女は、かんがえさせて、といって、走って行ってしまった。

嫌われただろうか。

やはり、言わなければよかった。


神様


神なんて、信じていなかったけれど、今この瞬間くらいは神と呼ばれているものに感謝してもいい。

まさか、彼女が、この気持ちに、答えてくれるなんて。

彼女に、私も好きだと言われた時、どれほどうれしくて、どれほど悲しかったか。

僕を傷つけないための、嘘だと思った。だって、誰でも、死ぬのは怖い。けれど、彼女は、僕と一緒ならそれもいい、と言ってくれた。

「私が、宮本君の、血になって、肉になって、宮本君の一部になれるなら、それでもいいよ」

そういった彼女は、確かに僕と同じ匂いがした。


彼女の生い立ちを聞いた。父親が事故で亡くなり、母親が再婚して妹がいる、そうだ。

義理の父親は、本当の親のように自分を可愛がってくれるけれど、それでも本当の父親じゃない。

母も義父も、妹が生まれたからと言って私と妹を区別することはなかった、と。

妹は、本当の妹ではないけれど、「お姉ちゃん」と言って自分を慕ってくれるいい子だと。

けれど、義父と、母と、妹が仲睦まじく話しているのを見ると、自分はここに、必要ないのじゃないかと思う、と。

大事にしてくれているけれど、優しくしてくれるけれど、私は、ここに必要ないものなのだと思ってしまう、と。

話を聞いて、思わず彼女の頭を撫でた。寂しかったんだろう、というと、泣き出してしまって、内心すごく、焦った。

宮本君に食べてもらえれば、私は、大好きな宮本君の一部になって、ずっと、一緒にいられるでしょう、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら彼女は泣き笑いの表情で言った。

その言葉を聞いて、僕ははっとした。そうだ。食べたら、無くなってしまう。けれど、僕の血になって、肉になって、ずっと、一緒にいられるのだ。ずっと、ずっと。

僕はうれしくて、苦しくて、彼女を抱きこんでしまった。

彼女の唇は、涙の味がした。


彼女と、いつ、ということについて話し合った。今すぐはだめだ。ぼくは、彼女を余さず食べたい。全部ほしい。それには、それなりの準備が必要だろう。僕は卒業して就職し、お金を貯めてどこか、彼女をいただくのに適した場所を用意しよう、と決めた。彼女も、怪しまれないように普通に大学に行くらしい。第一志望が通ったので、僕の職場にほど近い大学で学ぶ、という。

慎重に、すすめよう。準備を万全にして、彼女をすべてもらって。

けれど彼女がいなくなるのは、さみしいから、僕は死のうと思っている。

死ぬのは、怖いだろうか。


卒業式が終わって、入社式も終わって。環境が変わっても僕らは変わらなかった相沢とは、同じ職場だがあまり話さなくなってしまったが。彼女に告白し手、付き合うことになったと告げた時、少しだけ見えた諦めの色にああ、やっぱり、と思っただけだ。

彼女とは可能な限り会って一緒にいる。そばにいるだけで心が満たされていくのを感じる。

けれど、体はせかすのだ、おなかがすいた、彼女が食べたい、と。


着々と、貯金ができている。いつにするのかは、彼女と決めた。彼女が大学を卒業してからだ。大学を卒業してしまえば、遠くの会社に就職するから、と言ってしまえば時間が稼げるだろうから、と。

人一人を胃に収めるのは、少し時間がかかるだろう。3食、たくさん食べて、1月くらいはかかる、と思う。参考までに、と彼女の体重を聞くと、言いよどみながらも43kgだと教えてくれた。多少の前後はあると思うけれど、1日1.5kg。食べられない量じゃない。


言ってしまった。彼女の前だと、どうも、気が緩んで考えていることを漏らしてしまうようだ。

よろしくない。とは思うのだが、貰った言葉がうれしかったのでよかった、のだろうか。彼女に、彼女を食べ終わったら、死んでしまおうと思っていることを言ってしまった。彼女は少しだけ考えた後に、じゃあ、最後まで一緒にいようか、と言ってくれた。

私が死んだら、頭蓋骨だけは残しておいて、私を食べ終わるまでの間、それを私だと思って、と。そうしてすべて食べ終わったら、薬局で酸を買って、私の頭蓋と一緒に溶ければいい、と。

「そうしたら、最後まで私と一緒で、最後には二人で同じになれるね。」

そう言って笑った彼女はどこか恍惚とした表情で、本当に僕と一緒にいることを望んでくれているのだと思った。うれしくて、涙が出そうだったから、彼女にキスをしてごまかした。


もうすぐ、もうすぐ。あとほんのちょっと待てば、彼女のすべてもらえる。


すべて、ととのった。


彼女は、僕の、ものだ。ほかの、誰のものでもなく、僕のもの。ようやっと、彼女を食べることができる。もう、何も怖くはない。彼女がずっと、いてくれるから。僕の血となって、肉となって、ぼくのいちばん内側にいてくれる。最後まで彼女の頭蓋を抱いて、最後の時は二人で酸の海に沈むのだ。


手に入れた、山の中の古い民家に、大きな冷蔵庫を導入した。築年数の割にはきれいなこの家が、僕が彼女を愛し、僕と彼女が終わる場所なのだと思うと、途端に何か神聖な場所だと思えてくるあたり、僕も単純だ。

彼女を食べるのは6月1日。シューンブライドだね、なんて二人で笑って、この日に決めた。

もうすぐ、もうすぐだ。


いよいよ、明日、彼女の全てを食べる。23年、短い人生だった。彼女にとっても、そうだろう。

ふりかえってみても、何かからずっと、逃げていたと思う。

それは僕におびえる母からだったり、僕を知っている人間から向けられる好奇の視線だったり、自分のこの異常な欲求だったり、誰かから向けられる好意、だったり。

けれど、と思う。

僕はいつも、何かから逃げて生きている。この選択も、何かから逃げた結果なのだろうか。

…いや、違う。それだけは違うといえる。僕は自分で選んだのだ。彼女といきることを。

彼女を、食べる、ことを。

そして、彼女も選んだ。僕と生きることを、僕に…食べられることを。

人は笑うだろうか。愚かだと。それとも蔑むだろうか。人食という、禁忌を犯した忌むべき人間だと。

けれど結局、それは他人の感想だ。僕たちに何も関係などない。僕たちはただ、幸せになりたいだけ。幸せでありたいだけ。

満たされたいだけなのだ。

僕はこの選択を悔いたりはしないだろう。悔いる前に終わりがやってくる。終わらなくてもきっと、彼女と一つになったことに悔いなどありはしなかっただろうけど。

僕らは一つになるのだ。

二人で、一つ。文字通り骨の髄まで溶け合って。

存在ごとすべて、愛して、愛されて。たったそれだけのことだ。

たったそれだけのことが、それが如何に、僕らにとって幸福であることか!

ああ、喉が渇く。おなかがすいた。

はやくきみを、あいしたい。


これで、おわり。ねえ香織、ぼくは、きみを、あいしているよ。


・・・


あいしているよ。その言葉で、この手記は終わっていた。おそらく彼はこの後―――香織の頭蓋を抱えて、酸で満たされた風呂桶にしずんだのだ。

最後まで、香織以外のことは考えずに。これが最良で、最高の終わりだと考えて。

当人たちにしか理解できない、ハッピーエンドを、彼らは手に入れた。

手記から読み取る、彼の孤独と、香織に向ける愛と、終わりの悲しさと、永遠を手に入れる幸福に、霧島の胸は重くなる。あつくて、くるしい。まるで―――溺れてしまったように。

「しあ、わ、せ」

宮本の手記には幸せ、愛している、そんな言葉が多く綴られていた。幸せ、なのだろうか。これが。愛だというのだろうか。こういう、終わり、が。

胸のうち、どこかで何かが解けていく。わからない。幸せとは、なんなのか。愛とは、いったいどういうことか。

彼は彼女を愛していて、それで、こういう選択を、選んだ。ふたりで、終わったのだ。

霧島には、それのどこがわるくて、どうしていけないのか、わからなくなってしまっていた。


だって、ふたりは、しあわせだったのだから。


ハッピーエンドの解釈

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