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酸の海に沈む  作者: 飛鳥
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二章 彼らの友人

「あいつのことなら、しらねっすよ」

アパートの薄い鉄製の扉をあけ放ち、こちらを目視するなりその男は言い放った。

中肉中背、若者らしく薄い茶色に染められた髪。先ほどまで寝ていたのか、寝間着のままだ。よれたグレーのTシャツと黒のジャージ。

眉根をきつく寄せてこちらを睨み上げてくる表情は、口が裂けても上機嫌とは言い難い。

これは、話を聞くのは難しそうだと貼り付けたポーカーフェイスの下で霧島は苦笑した。

「すいません、県警のものです。相沢穣さんですね?宮本文哉さんの件で、お話を伺いたいのですが…」

内ポケットの警察手帳を規定通りに提示してからしまう。隣の後輩もややもたつきながらではあるが同じようにして、自分たちがマスコミや市民ではないことを彼に提示した。

もっとも、彼にとっては同じように小うるさい他人であることは変わりないのだろうが。

「…しらねえって、言ってんのに。なんなんですか。カメラ持った記者だかレポーターだか知らないやつらは毎日来るし近所の奴らまで今まで関わったこともねぇのに押しかけてくるし…今度は警察さんっすか」

心底迷惑しているのだろう。いらだたしげに舌打ちをしながら話す彼は、それでも相手が警察官であるという事実に無理に話を切り上げて追い出そうとすることはなかった。

「や、そこを何とか…分かることだけでいいので教えてくれませんか」

明らかに不機嫌な相沢の様子にややたじろぎながら、困ったように後輩の久世が声を上げる。久瀬は思ったことがとことん顔に出るタイプだ。今も相沢とは別の意味で眉根を寄せて心底”申し訳ない”というのが顔に出ている。おまけに声までが情けなく萎んでいるのだからこいつは本当に刑事なのだろうかと一瞬心中で遠い目をした。しかし久瀬の困り顔と霧島のポーカーフェイスから発せられる威圧感にやや気圧されたのだろう。二人の顔を交互に眺めやり、わざとらしく大きなため息をため息をついた後、相沢は刑事たちを家の中へ招き入れた。

「ここだとまた、聞き耳立ててるやつらが騒ぐんで」

なるほど、ほかの部屋の扉が薄く開いているのはつまりそういうことなのだろう。ちらりとその中の一つを伺い見ると、目のあった“隣人”が慌てて扉の影へ引っ込んだ。しかし、聞き耳を立てるのをやめるつもりはないのだろう。扉は薄く、開いたままだ。一つ頷きその言葉に応じて、霧島、久瀬の両名は心中事件犯人の友人宅に上がることになった。


・・・


「それで、何が聞きたいんすか」

リビングへと通され、律儀にもペットボトル入りのミネラルウォーターを二人に差し出した後、どっかりと床に腰を下ろした相沢が口を開く。手には同じく何の変哲もないペットボトルの水が握られている。

簡素な部屋だった。一人暮らしの男性の部屋にしてはよく片付いている。リビングとキッチンは一体型で、フローリングの床にローテーブルが一つ。現在三人はその小さなローテーブルを囲むようにして座っている。隣で久瀬が手帳を取り出したのを確認して、口を開いた。

「まず、確認なのですが。相沢さんと宮本さんは高校の同級生、および職場が同じ友人…ということで、あっていますか?」

「…ええ」

霧島の問いかけに、相沢は頷く。しかし少し間を置いた後、目を伏せてまあ、といった。

「あいつの方はどう思ってたかわかんねっすけど。何考えてるのかわかんねえ時、よくあったし」

「何を考えてるのか…分からないとき?」

「ええ。…でもそんなの、誰にでもあることでしょ。誰にでも…どんな関係にも」

それはそうだと霧島は頷く。それにさらに問いかけたのは久瀬だ。きょとりと首をかしげて相沢へ声をかける。

「でも、よくあった、ってことは何か…それに気が付くきっかけになることでもあったんでしょう?」

それを聞いて相沢は少し口ごもった後、わずかに視線をそらしながら口を開いた。

「いや…それは。なんつーか、ちょっとした、違和感で」

「違和感。それは、どのような」

畳みかけるように霧島が問うと、口ごもりながらも諦めたように相沢は答えた。

「……こんなことが、あった後だから、そう思ってるんだって言われちゃおしまいなんすけど。でも…目が」

「目?」

相沢はぐう、と眉根を寄せて少しうつむく。

「……あいつ、たまに…ほんとうに、一瞬だけ、変な目で、人を見てたんすよ。そん時だけ雰囲気変わるから…何なんだろうって。でも、何か気になることでもあるんだろうって。そう、思ってたんです」

視線をテーブルに向けたまま、何かを思い出すように相沢は続ける。

「でも、いつだったかな。気づいたんです。あ、この目、飯食う時の目だ、って」

「…」

久瀬の視線が揺らぐ。霧島は沈黙で相沢に先を促した。

「すげえ腹が減ってるときに、目の前に、ご馳走を出された時、みたいな。今すぐにでも目の前にある美味しそうな飯にかぶりつきたい、そんな感じの目を、するんです。なんともない、ふとした時に。特に、香織に対して」

「それは…」

五十嵐香織。宮本によって殺され、解体され、食べられた…今回の、被害者だ。

声を上げた霧島に、相沢は首を振って答えた。

「気のせいって言っちまえばそれまでなんすよ。今回みたいなことがあって、その先入観から来てるのかもしれないって、自分でも分かってます。でも、多分そのせいであいつが友達少なかったのも、事実っすから」

そこまで言うと相沢は手の中のペットボトルを、ぱきりと軽い音をさせて開ける。そのままキャップを外してテーブルの上に放り出し、3分の1程を一気に胃の中へ落とし込んだ。

そして軽く息をつくとまた小さく、話し始める。

「刑事さん、あいつの…文哉の顔、見たことあります?」

「生前の、ですよね。免許証と、社員旅行か何かの写真を何枚か」

久瀬も黙って頷く。捜査をする上で目にしないわけはないし、今日もここに来る前に見たばかりだった。

「あいつ、キレーな顔してるでしょう。女子にモテそうで、クラスにいたら人気者になるだろうなって感じの」

確かに宮本文哉の顔立ちは端正だった。日本人にしては彫りの深い、鼻筋の通った顔。少しだけ垂れた目元が色気と甘さを感じさせる、モデルやアイドルにいそうな顔だった。

そしてそれも今回の事件が大々的に報道される要因の一つになっている。ネット上のいくつかのSNSで「この人になら食べられてもいい」などという書き込みが行われており、それが10や20ではないことも霧島は知っていた。

「でも、実際はみんなあいつのこと避けてた。いや…避けてたんじゃないな。近寄れなかったんすよ。香織以外は。物静かで、いつも自分の席で本読んでるようなやつで。でも誰かが困ってたらさりげなく助けてやるような。女子には人気あったと思うし、男子からも嫌われちゃいなかっただろうと思います。けど、誰も近寄らないんす。別に何を言われたわけでも、されたわけでもないのに。あいつも必要最低限以外はクラスの誰にも近寄らなかった。…怖いっていうんすよ、みんな。」

「それは…」

久瀬が何かを言おうとしてそのまま口を閉じた。

「だから、誰も近寄らなかった。香織と俺以外は。好かれても、嫌われてもない、誰にも寄り付かれない、ただそこにいるだけの…空気みたいなやつでした。実際、卒業した後会ったダチも、言われるまであいつのこと忘れてたし」

変っすよね、と相沢は手元を見たまま微かに笑った。思い出すと止まらないようで、どこか吹っ切れたように相沢は質問に答えてゆく。

「誰も近寄らなかったのに、あなたと香織さんは、何故?」

「…香織は…なんつーか、怖いもの知らずで、正義感が強くて…抜けてるとこがあったから、ですかね。多分、いつも一人でいるのが気になったんでしょ。好奇心強いのもあって、誰とでも仲良くやってたから、余計に。おせっかいってよりは、本当にただ気になって声かけてたと思います。最初はあいつもそっけなかったんすけど、だんだん絆されて。気づいたら一緒に飯食ってたし気づいたら一緒に帰ってましたね」

懐かしむような声だった。相沢は持っているペットボトルを指先でなぞりながら続ける。

「そんで、俺も一緒にいるようになって。三人で、馬鹿やって。学校では物静かなのに、あいつ、すげえよく笑うんすよ。特に、香織がばかやったときとか、お前それ顔溶けんじゃねえのってくらい、眼尻垂らしてさあ…香織と、付き合うって聞いた時も、俺が小突きながらやったなって、言ったら、ほんと、幸せ、そうに。なんで…」

うつむいた顔は霧島からも久瀬からもよくは見えない。しかし、滲む声に、ペットボトルを握る手の震えに、耐えていることは明確だった。

「相沢さん…」

久瀬が眉を下げてなんと声をかけようかためらっている。霧島も表情には出さないものの、言葉をかけることを躊躇した。

たっぷり15秒の空白の後、まだ少し湿っぽい声で相沢は言った。

「俺が、話せること、これくらいしかないんすけど。最近…あいつが仕事辞めてからは、連絡、なかったし。仕事してる時も、高校の時とおんなじでしたよ。誰にも嫌われずに、誰にも…好かれずに」

「そう、ですか。」

うつむいたままの相沢に、静かに声をかける。きゅうと引き絞られた口端だけが、霧島からは見えていた。

「俺が知ってるあいつのことは、このくらいです。確かに俺は、あいつのトモダチでしたけど。何も、知らないし、わかんねっす」

相沢が緩く首を振って顔を上げる。

「このくらいで、いいすか。ほんと、もう、何も言えることないんで」

さすがに喋りすぎたと思ったのだろうか。会った時と同じく硬い表情をした相沢が、こちらを見てぶっきらぼうに告げる。

伏せ気味の目に薄く張った水の膜に、霧島は静かに頷いた。

「突然お邪魔してすいませんでした。お話していただいて、ありがとうございます」

「…っあ、ありがとうございました」

雰囲気にのまれて一瞬呆けていた久瀬の背中を軽くつつき挨拶を促すと、ゆっくりと立ち上がる。

若干ぎこちない動きの久瀬と玄関口で会った時と同じく眉根を寄せて口元を引き結んだ相沢に挟まれて玄関まで歩く。10秒もかからないその短い沈黙の後、靴を履き終わった霧島は、一つ、気になっていたことを最後に尋ねることにした。

「…相沢さん、五十嵐さんが宮本さんに近づいた理由は、なんとなくですが分かりました。では、」

振り向いた先、相沢の表情は前髪と薄暗さによる影が落ちている。

「あなたはどうして、近寄りがたいと思っていた宮本さんと友人になったのですか?」

うつむいたその表情の変化を窺うようにまっすぐ見つめると、相沢はそっと目を細めて口角を上げた。

「俺、高校の時好きな女の子がいたんすよ」

ふわりと上げられたその表情は思っていたよりもずっと穏やかで、眼尻にほんの少し残る赤さが彼という人物をよく表していた。

相沢の家を出て通りに出ると、好奇心の眼差しがささる。隣家のドアは薄く開いたまま、建物を出てすぐのところでは年配の女性たちが目だけをこちらに向けて声を潜めている。

霧島はそれらを無視しながら、無言で久瀬を連れて車へと向かった。

もらったペットボトルのミネラルウォーターは、すっかり汗をかいてぬるくなっていた。


残された一人

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